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誰かの声が自分の名前を呼んでいる。
もう馴れ親しんだ声に安心さえ感じる声音。
テノールの、ローの声だ。
焦った声にリーシャは瞼を開けると、ぼやける輪郭が写る。
徐々にクリアになっていく視界は藍色の瞳を見せた。
男らしい顎髭に消える傾向がない隈。
相手はリーシャが目を開けると安心したように息をついた。
「わかるか。ここは船だ」
ひたりと手が首筋に当てられ脈を計る仕草に意識が徐々に記憶を蘇らせる。
確か自分は何物かに襲われた筈だ。
ローは一旦手を離すと説明し出す。
「昨日の夜、お前は襲われかけた。たまたま俺が居合わせなかったら危なかったんだぞ」
「居合わせた?」
「お前をシャチに尾行させた……一人にするのは危険過ぎたからな」
悪かったと謝るローに溜め息をつく。
結局は守られてしまったわけだ。
リーシャはローの手に自分の手をそっと重ねると苦笑した。
「今回は私の身勝手な行動が招いた事態だから。でも……次は本当に怒るからね」
「あァ……次は俺もお前と家出する」
「二人で?」
「“家出”には変わりねェだろ?」
確信犯のように笑うローにリーシャも可笑しくなり笑った。
二人で家出も案外楽しいかもしれない。
「ユリア姉ちゃん」
「何?昨日のお姉ちゃんならもう帰ったよ」
「違うよ」
ユリアは自宅のオレンジに水をやりながら弟の言葉に耳を傾ける。
朝方にテーブルを見ると紙切れに『世話になった』とリーシャの字にしては男らしいので、ローが書いたと一目で分かる文字に船に帰ったのだと察した。
弟達は彼女に懐いていたのでユリアも残念に思ったが、今頃は海の上の水平線に進んでいるだろうと、お別れの言葉を交わせなかった心境に諦める他なかった。
「何が違うの?」
「昨日ね、あの女の人が男の人に何かされて倒れたら男の人、女の人を持ち上げたんだよ」
「え!」
「怖くて僕……だって、その男の人はね。ユリア姉ちゃんが前に見せてくれた……」
弟はユリアに指でキッチンにある手配書を差す。
それは、脅威の対処ではないのだとリーシャが優しく幸せそうに語った男だった。
驚きに弟を見るがそこ以外に動かす気配はない。
ユリアは唖然とし、同時に−−もしかして彼女が思うよりもずっと危険な何かを抱いている人間なのではないかと滅多にかかない冷や汗が背中を伝った。
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