あれはいつのことだっただろう。
蜜柑の木の手入れをしていると、チョッパーと手をつないだロビンが現れた。
そのころにはもう、たったそれだけのことにやきもちをやいてむっとするぐらいにはロビンを好きになってしまっていて、ずいぶんとつんけんした態度になったことを覚えている。
『きれいな蜜柑ね』とロビンは言った。
ふたりの存在に背中を向けて蜜柑の手入れをしていたナミに、ロビンの表情はわからなかったけれど、どうせお世辞でしょ、とささくれた気持ちで思った。
この蜜柑がどんなにきれいかわかるほど、あんたはたくさんの蜜柑を見てきたわけ?
そう問い詰めてみようかと思って、すんでのところでその皮肉を飲み込んだ。
そんな些細な言葉でイラつけるぐらいにロビンに堕ちていた自分を改めて振り返ってみると、正直笑えない。
だってあのときは確か、ロビンが乗船してからふたつみっつ島をたどったぐらいで、ロビンがちゃんと信用できる人間かどうかを判断する材料もそれほどなかった。
そしておそらくはロビンもナミを……いや、麦わらの一味自体を信頼していなかったと思う。
それなのに。
あっさりと、実にあっさりと、ロビンはナミのこころを持っていってしまった。
泥棒は、自分の方であるはずだった。
それ以前に、自分はもっと用心深く、思慮分別のある人間だったはずなのに。
少なくともこの船においては、ダントツにまともだ。
『きれいなだけじゃないんだぞ。ナミの蜜柑はすごくうまいんだ』
チョッパーはどこか自慢気にそう言った。
『そうなのね』
ロビンは相づちを打った。
当たり前でしょ、と思いつつ、まあ、悪い気はしなかった。
けれど、甘ったれのトナカイはロビンにすごくなついていたし、特技『暗殺』のくせに動物が好きらしいロビンがチョッパーをかわいがっている雰囲気もいつも感じていたから、ふたりでにこにこ微笑みあっている背後の風景を想像してしまって、すぐにまた不機嫌の虫がナミをとらえた。
『でも、特別なときにしかくれないんだ。そのとき以外は高くて、おこづかいじゃ全然足りないからな』
チョッパーがそう言って『エッエッエッ』と笑ったのと同時に、ルフィがチョッパーを呼ぶ声が聞こえた。
チョッパーはロビンだけでなく、この船のすべてのクルーになついているかわいいやつだから、遊びのにおいにつられて甲板の方へと駆け下りていった。
ちらりとロビンを見ると、走り去る小さな背中を、ひどくやさしげなまなざしで見送っていて。
それが余計に、癪に障ったのだと思う。
ナミは目の前にあった食べごろの蜜柑をひとつ、もぎ取った。
あたしの特別は、あのトナカイと違って、あんただけだっていうのに。
ちょっと乱暴な手つきになってしまったけど、蜜柑の木だってわかってくれるに違いない。
ベルメールさんはあたしと同じくらい……いや、それ以上に、自分の感情に正直で気が短かったから、こんな状況に置かれたら、いくら大事に大事に手塩にかけて育てた蜜柑相手といえども、同じ行動をとっただろうし。
そうこころの中で言い訳しながら、ナミはこぶしをつきだすように、ぐいっと蜜柑をロビンに差し出した。
そんなナミの子どもじみた不機嫌さを気にするそぶりもなく、ロビンはただ、『いいの?』と訊いた。
『あたしの蜜柑は、あたしの特別なひとのために、あるものだから……いいの!』
勢いに助けられた形とはいえ、ナミとしてはもう、想いを告げたに等しかった。
ただ、チョッパーが特別なときにしかもらえないと言ったせいで、クルーなら誰にでもこの大事な蜜柑を手渡すのだとロビンが認識した可能性はあったし、そうであれば、ナミの言葉の後ろにあるものが恋愛感情なのだとは受け止めなかったかもしれない。
それでもせめて、あんたはもうあたしたちの仲間で、その他大勢とは違う特別な人間なの、というメッセージくらいは伝わるはずだった。
そこに少しでも、ほんのかけらでもいいから、ナミの想いがにじみ出て伝われば……
まだこの恋は伝わらないだろうとあきらめたふりをしながらも、今日この日のナミの勇気が、これからのふたりの関係性を動かすきっかけになるかもしれないと、期待を捨てきれなかった自分も確かにいた。
それなのに、この女ときたら。
ロビンは少しだけ首を傾けたあと、蜜柑の皮を剥きはじめた。
そのちょっと考えるような表情もかわいいな、なんて思った自分がバカだった。
蜜柑の皮を剥き終えたロビンは、こともあろうに、『はい、どうぞ』と白い筋まできれいに取り除いた蜜柑の実を差し出してきたのだ。
最初、ナミは状況をつかめずにぽかんとしてしまって、ずいぶん間抜けな表情をしていたと思う。
蜜柑の実を差し出したロビンは、また少し首を傾けたあと、丸い蜜柑の実をふたつにわり、くっつきあった房をひとつはがして、ぽかんと開いたナミの口に入れた。
ナミは反射的に咀嚼し、飲み込んだ。
あまく、すっぱい。
そう味覚が反応したら、泣けてきた。
あたしはあんたが特別だって伝えたかったのであって、チョッパーみたいに子ども扱いされたいとか、まして蜜柑の皮を剥いて「あーん」してほしいなんて思ったわけじゃないっての。
ただ、そのときのロビンはなんだかとても楽しそうで、それ以上何も言えなくなった。