Side_Robin_2



口にしたら、終わりだった。

声にはならなかったけれど、ロビンが『ナミ』とその名を呼んだことに航海士が気づいたのは、驚きで息をのんだことから明白だった。

今まで、ずっと我慢していたのに。

航海士に聞こえぬようにその名前を呼んだことはあるけれど、航海士に届くように呼びかけたことはない。

常に曖昧な笑顔を顔にはりつけることで他人との距離を保ってきたロビンは、名前を呼ばないことでもひとと距離をおくようになっていた。

そのときそばにいる誰かが、ロビンの前を通りすぎていくだけの人間なのだと自分に言い聞かせるには、名前など邪魔なだけだった。

そんなロビンが航海士の名前を呼ぶことは、ロビンにとって航海士が通り過ぎるだけの人間ではない、特別な相手なのだと口にしたにひとしい。

その名前を航海士に届くように声にしてしまえば、無理矢理に押し込めてきた航海士を求める気持ちがあふれだすに違いなかったから、決して呼んではいけなかったのだ。

けれど、夢から醒めた直後、ロビンを現実に引き戻してくれたのが航海士なのだと認めた瞬間、息をはくように自然な動きで、『ナミ』とロビンの唇は動いていた。

幸いにも、その唇の動きに音が重なり、声になることはなかったのに……

声にならない呼び声は、航海士に伝わってしまった。

そうしたらもう、終わりだった。

今度こそ、その唇の動きに声を乗せて、航海士の名を呼びたくなった。

何度も何度も名前を呼んで、きっとそうすれば、名前を呼ぶたびに航海士は『うん』とうなずいてくれて、ロビンはそのたび満たされて……

ただそれだけでロビンは、今まで自分を縛ってきた過去のすべてからさえ自由になれたかもしれない。

きっと航海士は、ロビンの呼び声の中に隠しきれずに含まれてしまう、『好きよ』も『助けて』も『そばにいて』も、ロビンが『ナミ』と名前を呼ぶ声の中からすくいあげてくれるに違いないから。

でもその想いを解放してしまうことは、ロビンと一緒に死んで欲しいと願うことと、何ら変わらない。

『あたしはたとえ死ぬことになったって、あんたと一緒に生きていきたいって、そう思ってんのよ』

その航海士の言葉が、どうにかロビンをつなぎとめた。

死ぬことになったって、と航海士は言ってくれたけれど、一緒に生きたい、という言葉は叶えられそうもなかったから。

航海士には生きていて欲しい。

航海士の生きてゆく世界に、自分がいなくてもかまわない。

ロビンは繰り返し『ナミ』と呼びたい衝動を抑えるかわりに、起き上がって航海士を引き寄せ、力任せに抱きしめた。

無茶苦茶に抱きすくめた。

腕の中にあるのは、ロビンよりも小さくきゃしゃな、あまりにも女性らしい身体。

こんなきゃしゃな体に、自分が寄りかかりたく思っていたなんて……

そう気づいて、ぞっとした。

同時に目に涙がたまっていき、決壊するのは避けられそうもなかった。

母の『生きて』という言葉はロビンを生かしたけれど、同時に呪縛にもなったから、航海士に真実など告げる気はない。

最後までウソぶいて、裏切って、できれば忘れえぬほどに憎まれてからこの船を後にしたい。

あなたたちの未来を奪うわけにはいかないと、そう言って母がロビンをひとりにしたのはひどいエゴだと、そう思ったことは何度もある。

けれど、同じことを繰り返そうとしている自分に、そんなことを考える資格はもはやない。

どうか、生きて。

どうか、笑顔でいて。

私の大好きだった、たいようのような笑顔でいて。

口に出すことはできないけれど、心から願う。

それが航海士の想いに何ら報いることのない、ひとりよがりで勝手な願いに過ぎなかったとしてもかまわない。

あなたと一緒に死ぬことよりも、あなたが笑っていてくれる未来を私は選びたい。

あなたがこの世界のどこかで笑っているその顔を思い描けば、私はそれだけで生きていける。

そんなわがままな私を、どうか許して……

そう、切に願ったと同時に。

「大丈夫だよ、ロビン」

耳に届く、航海士の声。

「もう、いいんだよ」

やさしいやさしい、澄んだ声。

その声に包まれたら、もう、声を抑えることもままならなかった。

航海士の細く繊細な体を抱きしめる腕に、いっそうの力をこめる。

どうして。

どうして、あなたは……

そんなにも簡単に、何もかもを許してしまうの?

「あたしが、いるから」

ロビンの腕の中で、航海士はそっとロビンの背中に腕を回す。

「隣に、いるから」

ロビンが航海士を抱きしめる腕にこめた力に比べて、ロビンを抱きしめ返す航海士の腕の力のささやかさがつらくて、やるせなかった。

そのささやかさは、ささやかであるがゆえに、こめられた想いのせつないまでのやさしさが伝わったから。

そう感じたとき、ロビンの胸には、何かどろどろとした、もはや怒りや憎しみとさえ言ってもいいような、切迫した愛情がうずまいた。

何もかもをたやすく許したりしないで。

わがままな私を、あまやかさないで。

たいようのようなあたたかさで、私を包まないで。

海のようなやさしさに、私を沈めないで。

抜け出せなくなってしまうから。

『許して』とすがるように祈ってきた今までとは真逆の、そんな矛盾した激情がのどをせりあがって、あふれだしそうだった。

「大好きだよ、ロビン」

胸の中にうねるどろついた想いが、はじけるようにあふれた。

ロビンは背中にまわされた航海士の腕をつかんでベッドに組み敷くと、ハナの手を咲かせて腹部と両方の足を拘束した。



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