side_Robin_1
とける、ゆれる、なみだつ。
とうに凍りついたはずだった。
とうに捨てたはずだった。
それなのに。
とける、ゆれる、なみだつ。
広がる波紋は、心の岸辺に打ち寄せる。
打ち寄せる波は、ロビンをたまらなく苦しくする。
わけもなく泣きたくなる。
かなしいときは笑うんだ、と教えてくれた人がいた。
そうしたら、ひとりのときに口角を上げるくせがついた。
それを通り過ぎると、かなしくなくたって、始終、笑顔を顔にはりつけることが当たり前になった。
でも今は、かなしいわけではない。
ただただ苦しいのだ。
だから、どうしたらいいのかわからない。
でも、この苦しさを手放したくないと思う自分が、心の岸辺に膝を抱えて座っている。
「あんた、こんなときまで本読んでるの?」
浜辺にだしたテーブルとデッキチェアで、頭に入ってこない文字のつらなりをただ眺めるだけだったロビンに降ってきたのは、本への集中力を奪った人の、澄んだ声。
テーブルの上に灯したランプの炎がその瞳に映り込み、夜の暗い浜辺でもきらきらしている。
静謐の心の水面に波紋を広げる張本人。
先ほどまで船長たちと浜辺でバーベキューを楽しんでいた航海士は、片手にジョッキを持って、少し上気した顔で機嫌よさそうにロビンを見下ろしていた。
視線を先ほどまで航海士がいた場所に転じると、男性クルーたちは、炎を囲んでにぎやかに笑いあっている。
「ええ。きりのいいところまで、と思って」
「ふぅん」
航海士はテーブルに軽く腰かけて、テーブルの上に開かれている本をすっとなでた。
きゃしゃな体に似合いの、しなやかな指先。
「楽しい?」
「ええ」
そう訊かれたのでうなずき返すと、航海士は何か言いたげにロビンを見つめたけれど、その言葉は結局飲み込まれたのか、短く息を吐いただけだった。
「ロビンは飲まないの?」
テーブルの上にあるマグカップを見て、航海士が尋ねる。
「船医さんから言われたの。今日は飲まないように、って」
丁寧な縫合と処置が終わった後、船医は真剣な顔でロビンに言い聞かせた。
麻酔がきれたら痛み止めと化膿止めを飲むこと。
薬とアルコールは相性がよくないから、お酒は飲まないこと。
シャワーをあびたければ、船医が用意した透明なシートを傷口にはって、水が触れないようにすること。
傷には触れないこと。
船医が「治療終了」と許可をだすまで、一日一回の診察を受け続けること。
しっかり食べて、しっかり眠ること。
そのときの船医があまりにも切実な顔をしていたものだから、自分はそんなに聞き分けの悪い人間に見えるのかしら、と疑問に思ったほどだ。
どちらかといえば、聞き分けも都合もいい便利な人間を、ずっと演じてきたつもりだったのに。
そんな船医を見ていると、麻酔が効いて痛みを感じないはずの傷口が、ずきりとうずいた気がした。
「ああ、ちゃんと船医の『患者指導』を受けたのね。えらいえらい」
そう言って航海士は当たり前のように手を伸ばし、ロビンの頭に触れようとしたから。
ロビンは思わず身を引いてしまった。
「あ、ごめん……つい……」
そんなロビンの反応を見て、航海士は小さくそう言うと、気まずそうにロビンに伸ばした手を下ろして、目を逸らした。
何か言い訳をしなくては、と思った。
航海士がのばした手は、自分を傷つけるための手ではなかったのに、拒絶してしまったことに対する、言い訳を。
ただでさえ、ロビンに船医の治療を受けるよう航海士が命じたとき、ロビンはあたしがいない方が助かるだろうから、ということを言っていたから、航海士は何か誤解をしているかもしれないのに。
別に触られるのが嫌だったわけではなく反射的に、とか、慣れてなくて、とか、びっくりしてしまって、とか、航海士が不快に思ったり傷ついたりしない、この場をおさめるための一言を探さなければ、と思った。
ごまかすのは、得意なはずなのに。
何故か思い浮かんだ様々な言葉は、再び胸の奥へと沈んでいった。
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