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「半田、ちょっとこっち来て」
あの日一之瀬はドリブルの練習中にこっそりと俺に声をかけてきた。
その頃の俺と一之瀬は、仲が良い訳でも悪い訳でも無い、本当にただのチームメイトってだけの関係だった。
一之瀬の方はどうか知らないけど、その頃の俺は一之瀬のことを、
俺からレギュラーを奪った奴ではあるものの、その実力差に素直に仕方ないって思える程度には認めていた。
ただ感情面ではそうもいかず、
アメリカのチームに所属してるのに、ただの興味本位で日本に残った一之瀬にほんの少しだけ苦手意識を持っていた。
勿論一之瀬のせいでレギュラーから外されたって思いもあったと思う。
だからその時の俺は、普段あまり話したことの無い一之瀬から話し掛けられて少しだけびっくりしていた。
「こっち、こっち」
しかも人目を憚る様に、この時間誰もいないはずの部室まで連れてこられて更に驚く。
「どうしたんだよ?」
俺は、誰も居ない時間なのに、きょろきょろといちいち中や周りを伺ってから部室に入った一之瀬を不審に思って訊ねる。
「ん?
誰にも見られないほうがいいかと思って」
一之瀬が、まだ辺りを伺いながらドアを閉める。
大袈裟なその態度に、俺は首を捻ってしまう。
・・・なんか変な奴。
なんで一之瀬がそんな態度を取ってるのかさっぱり思い当たらない俺は、少しだけくすりと笑ってしまう。
一之瀬に対する好感度も少しだけアップしていた。
そんなことを呑気に考えていた俺に、一之瀬が振り返る。
振り返った一之瀬の気まずそうな顔。
「もしかしたら転入生の俺だけ知らないのかな?」
「は?何が?」
「いや、皆も全然普通に接してたし、女の子は皆マネージャーだったから気付かなかった」
「だから何が?」
自分一人で困ったような申し訳ないって顔で一方的に意味不明な事を話す一之瀬に、
俺の中で変な奴って評価が固まっていく。
「ごめん俺、君が女の子って知らなくて。
今まで君に失礼な態度取ってたよね。
俺、日本について詳しくないから真一って名前は男にしか付けないと思ってた。
こんな可愛い子を男だと思ってたなんて、俺はなんて馬鹿なんだ」
…え?
俺は一之瀬の言葉に思わず固まる。
「な、何、言って…」
なんとかそれだけを言葉にする。
もう俺の頭の中はなんで?とどうして?でいっぱいだ。
誤魔化せ、誤魔化せって思うけど、突然のことに頭が上手く働かない。
だって十四年生きてきて、こんなこと指摘されたのは初めてだ。
誰が見ても俺は平均的な男子中学生で、
俺自身でさえそう思っている。
むしろちょっと中途半端で嫌だなくらいに思ってた。
それなのに今、そんなに親しくない目の前の奴に、
何故だかしらないけど俺の「秘密」が半分バレている。
胸だって男そのものでぺったんこだし、
声だって男にしては少し高いけど普通に声変わりしてるし、
裸を見せた記憶も無いのに、
何故か俺の事を女の子って言い出した。
「なんで俺のこと女なんて…」
もう誤魔化せって思ったことさえ吹き飛んで、
頭の中を占めている一番大きな疑問を口にしてしまう。
頭が働いてないから、もうそれしか考えられない。
「あ、ごめん!
先に言うべきだったね」
俺が混乱の極みだっていうのに、一之瀬はどこまでも爽やかな顔を崩さない。
今思い出したって顔をすると、すっと流れるように俺に近づく。
困惑する俺は、何で一之瀬が近づいてくるのか分からない。
なんで一之瀬が止まらないのか分からない。
・・・怖い。
ただ歩いてくるだけなのに何だか一之瀬が怖くて堪らない。
心の底がかりかりって引っ掻かれたように落ち着かない。
こんな気持ちは初めてで、なんでそう思うのかさえ分からない。
それなのに一之瀬は、俺にあと半歩で体がくっ付いてしまう程近くでやっと止まる。
しかもそこからさらに目を伏せたまま顔を俺に近づける。
怖いっ。
近づく一之瀬の顔に、俺は思わず体をびくりと震わせる。
心臓がばくばくする。
「ユニフォームの裾に血が付いてるよ。
…早く換えた方が良い」
俺の耳元で一之瀬が囁く。
俺達以外誰もいないのに、俺だけにしか聞こえないように囁かれた一之瀬の声。
どくりと心臓が音を立てる。
それからゆっくり一之瀬の言葉の意味が俺の中に沁みてきて…。
「一之瀬ぇ…っ、俺、どうしよぉ…」
俺はその場に崩れ落ちた。
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