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「ほら、あそこ」

走りながら一之瀬が指し示したアパートは、
本当に河川敷のグラウンドから近くて、走って三分くらいの距離にあった。


それは、なんの変哲も無い、普通のアパート。
でも、俺は、そのアパートを見た途端、
ぐうっと心の底からせり上げてくるような重い不安に見舞われる。


別に、俺に霊感があって、このアパートに不吉なものを感じたとかじゃない。

・・・ただ、そのアパートにはのぼりが付いてるってだけ。
俺でも知ってる、有名なマンスリーマンションののぼりが。


俺はそののぼりを見た途端、堪らなく不安になってしまう。
さっきまで固く繋がった手が嬉しくて飛ぶようだった足取りも、
忽ち重いものに変わってしまう。
でも、やっと屋根のある場所に着いたせいか、
そんなのろのろとした俺の動きに一之瀬は全然気付かない。


「俺の部屋、一階なんだ」

歩きながら、鍵を出す為か一之瀬はごそごそとバッグを漁りだす。
簡単に離れる手。
離れていく一之瀬。


「半田?」

一之瀬があるドアの前で止まり、俺の方を振り返る。
明るく光る蛍光灯の下に居る一之瀬と、薄暗い蛍光灯の合間に居る俺。

それでも俺の暗い表情に気づいた一之瀬はすぐ戻って来てくれる。

「大丈夫だよ、半田。
半田が嫌がる事は絶対しないから。
なんたって俺は紳士だから、ね☆」

俺を安心させる為だってすぐ分かる一之瀬のウィンク。
そして俺の事を思っての紳士宣言。

俺が不安になっているのはそんなことなんかじゃないのに、
それでも一之瀬が俺のことを気遣って、手をまた引いてくれたってだけで、俺はまた歩き出す。


「ここが俺の家。何にも無いけどゆっくりしてって」

一之瀬によって開かれるドア。
そこに広がっていたのは、本当に何も無い部屋だった。



ラグさえない床に、部屋の片隅に開いた状態で置かれたスーツケース。
備え付けの物以外、何も買い足された様子のない家具や家電。
ゴミ箱さえなくて、ごみはポリ袋に纏められている。


生活感の無い部屋。
一之瀬を全く感じない借り物の部屋。

部屋全体が、一之瀬がここに居るのは少しの間だけだって訴えている。


俺はもう体の奥から込み上げてくる不安を押さえ付けることが出来ない。
口から真っ黒な不安がはみ出して全身を包むのを、
自分の握り拳を噛んで必死に押し留める。


・・・無理だ。

部屋を見た途端、すぐ無理だって分かった。
ああ、さっき感じた不安は的中してたって。


一之瀬がここに居るのは、ただのきまぐれで。
一之瀬はアメリカに家族が居て、所属チームがあって、帰るべき家がある。
ここに居るのは少しの間だけ。

そして、思った。


――ああ、一之瀬じゃ駄目だ。って。



そうしてその瞬間、俺は一気に目が覚めた。
今までの恋に浮かれて濁ってた頭が体ががくがく震える程、一気に晴れていく。


「…っう、あ…俺、無理、だ。
…ごめん、一之瀬。俺、無理!!」

仮初めの一之瀬の部屋の前で、
がくがく震える足を、それでも必死に翻す。


頭を占めるのは「駄目」だって思い。


・・・このままじゃ「駄目」だ。

空っぽになった頭に、ぐちゃぐちゃと色んな感情が生まれて混じる。
とりあえず遠ざからなきゃって錯乱しながらも思う。


この一之瀬という、簡単に俺の心を「駄目」にさせる存在から。


 

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