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「だいじょうぶー、じーん?」
ゆっくりと動き出した自転車を漕ぎながら、彼がいつもより大きな声で話してくる。
「……。…うん」
コクリと頷いてから、自転車を漕いでいる彼にはそれでは伝わらないと気付いた俺は小さく付け足した。
…大丈夫、なんかじゃない。
結局彼に掴まる事の出来なかった俺は代わりに自転車の荷台を掴んだ。
目の前では彼のシャツがハタハタと翻っている。
俺の手はそのすぐ手前で焼けるような金属の上で所在無さげにしてるだけ。
俺は彼に掴まる事も、翻るシャツに触れる事さえ出来ずにいる。
…気持ち悪い。
どうして彼はこんなに白いシャツを着ているんだろう。
どうして彼はさっきまでと全然違う声で俺の心配をするのだろう。
ぐるぐる、ぐるぐる。
胸の中で居心地の悪い、もやっとしたものが渦巻いている。
「帰ったら家で大人しくしてなきゃ駄目だかんねー?」
「え…?」
ぐるぐるとした気持ち悪さが、彼の言葉に一瞬止まる。
「今日は一人で学校行ったりとか無しだからー。
倒れたって誰も助けてくれないよー」
でも止まったのは一瞬だけ。
さっきよりも更に胸の中のぐるぐるは加速していく。
「マックスは…?マックスは助けてくれないの…?」
「う〜ん、ボクは無理かなー。
だってもう夜の学校は行かないし」
「な、なんで…?」
ぐるぐるとした気持ち悪さは吐き気に変わる。
彼のシャツが目の前で翻るから目がチカチカする。
目障りでしょうがない。
「わー、仁ってば結構鬼畜だねー。
それをボクに聞く?
…悪いけど、ボクは優しくないから今までどおり友達でって無理だから。
でも安心して。苛めたりも、もうしないからさ」
なんでそんなサバサバした声で彼は話すんだ?
俺はこんなに気持ち悪いのに。
彼のやけにすっきりした声も、白いシャツも、青い空も照りつける太陽も、
なんで俺以外のものはこんなにもはっきりとしているんだろう。
…はっきりしすぎて眩暈がしてくる。
「謝って済む事じゃないけど、今までゴメン。
もう仁には関わらないから。
今日家に送り届けたら、それで最後にするから」
自転車の荷台はビカビカ光を反射して眩しいし、翻るシャツも目障りだ。
昼は嫌いだ。
それから、…こんな事を言う彼も。
やっと昼の彼ともちゃんと向き合えるって思えたのに、なんで彼はまた俺に背を向けちゃうんだ?
俺は目の前で翻る邪魔なシャツを押さえつけた。
眩暈のする頭も彼の背中に押し付けてやった。
視界が遮られれば、昼も夜も関係ない。
目を瞑ってしまえば、もう何も見えやしない。
ただ俺が居るだけ。
「…そういう事しない方がいいって忠告、しなかったっけ?」
硬直した彼の背中。
なんだか自転車の動きがゆっくりになった気がする。
「マックスの真似はしない方がいいよって忠告は聞いた」
「ふーん…、じゃあ敢えて無視?」
この自転車の進む先が俺達の関係の最後なら、もっとゆっくりになればいい。
「そうじゃない」
「じゃあ…」
いっそ自転車なんて止まってしまえばいいんだ。
俺は彼の言葉を遮って、彼の背中に額を寄せる。
「今はマックスの真似なんてしてないし、忠告された意味だってちゃんと分かってる」
目を瞑っていても背中には熱いぐらい太陽の光を感じる。
ちゃんと今が昼だって分かってる。
でも、いい。
誰が見ててもいい。
俺の何もかもがはっきりと見えてしまってもいい。
これが最後になるなら、夜まで待てない。
待ってなんかいられない。
「最後なんて嫌だよ」
真っ暗闇の中、キキッというブレーキ音が鳴り響く。
目を開けると自転車が止まっていた。
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