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「仁!仁!!どうしよう…、仁!仁!!」

最後に聞こえたのが自転車が倒れる音なら、最初に聞こえたのは何回も繰り返される俺の名前だった。

「こんなはずじゃなかったのに……ッ!
仁、ゴメン!仁!仁!!」

……煩い。
そんなに何回も呼ばなくても聞こえてるよ。
ああ、そんな泣きそうな声しなくてもいいのに。
早く「大丈夫だよ」って言ってやらないと彼が泣いてしまう。

そう思うのに、俺の目蓋も唇もやけに重くて動かない。
全身がだるい。


「仁!仁!お願いだから、これ飲んで」

俺が一生懸命重い手足を動かそうとしている間に、彼の声はどんどん悲壮感を増していく。
彼の言葉と共に、俺に噎せ返る程の水が注ぎ込まれる。

……なんだ、これ。坂の次は水攻め…?
俺は彼の為にだるいのに頑張ろうとしたのに、そんな俺に彼は水攻め……?

彼が注ぐ水は絶え間なくて、息継ぎが出来ない。
俺は苦しくて咳き込みながらも、大量に水を飲み込んでしまう。
ゴホッ、ゴホッ、と気付いたら、あんなに重かった手で俺は咳き込む口元を押さえていた。
顔も気付いたら彼の水攻めから逃れるように逸らしていた。


「ゴホッ!酷……、俺…ゴホッ!頑…ったのに…み、ゴホッ!…攻め…なん、…て」

「仁!!」

俺は怒っているというのに、彼は俺の言葉なんて無視して嬉しそうな声で俺の名を呼ぶ。

「仁!仁!仁!!」

それは清々しいまでの無視だった。
凄く凄く嬉しそうに、彼は俺の名前を何度も繰り返す。
さっきも煩いと思ったが、そんなの目じゃ無いぐらい大きく何度も。
無視されたのは俺なのに、少しも腹が立たない。
それどころか彼のこんな声は聞いた事が無くて、なんだか落ち着かない。
こんな感情剥き出しで分かり易い瞬間が彼にもあるんだって、
そしてそんな瞬間を俺がもたらしたんだって思ったら、また俺をふわっと浮遊感が襲う。
今度は世界がぐらんぐらん揺れるような気持ち悪いのじゃなくて、嬉しくて重力から解き放たれたような浮かれた感じ。


「……マックス?」

「うん!うん!!仁、仁!!仁、なあに?もっと飲める!?」

俺が目を開けるとそこは昼なのに夜みたいに少し暗かった。
薄暗い視界の中で彼と目が合う。
彼は上半身を屈めて、膝に乗せている俺の事を泣きそうな顔で覗き込んでいた。
彼の身体があんなに熱かった太陽の光を遮ってくれている。
彼が俺に涼しさと安寧の闇を与えてくれている。

太陽と闇のコントラストは彼の輪郭を曖昧にしていた。
彼の輪郭を目映い光がぼやけさせ、影が彼の顔を暗く隠す。
それなのにやっぱり彼の瞳だけは輝いてみえる。
多分彼の瞳が涙を反射させていたせいなんだろうけど、その時の俺はそんな事思いもよらずにただ「夜に見る顔と一緒だ」と感じていた。

ドキドキする顔。
……キスしたくなる顔だ。

でも夜と全く同じなんかじゃない。
今の彼は俺が知ってるどんな彼とも違う。
俺に苛立つ昼の顔とも、自由気ままな夜の顔とも全然違う。
初めて見る表情をしている。

……「俺の事、大事」って顔してる。


彼に触れたいって気持ちと、彼の表情が信じられないって気持ちが、俺に手を伸ばさせる。
薄暗い視界の中、彼の顔に向かって伸びる俺の手は、なんだか現実感が無い。
俺の手って気がしない。
それなのに、触れた彼の顔はひんやりとしてるけどちゃんと温かみがある。
俺はその温もりを確かめるみたいに、彼の顔をなぞる。
何度も何度も。
なんだか夜に彼がよくする行動と似てる。
確認するみたいだと思った彼の行動。

ああ、ちゃんとそこに彼が居る。
俺の事を大事に思っている彼は、ちゃんとそこに居るんだ。


「マックス……。
……ねえ、俺の事、大事?」

訊きたい事、言いたい事は沢山あるのに、俺の口から自然と零れたのはそんな質問だった。

こんな事が訊けるのは、きっと大事にされている自信があるから。
全然自信が無かったら、こんな風に訊くなんて出来ない。
否定されるって、傷つくって分かってるのにこんな質問しない。
坂を上る前の俺だったら、こんな事訊くなんて出来なかった。
ほんの少しの自信と、沢山の不安と、それから期待の詰まった質問だった。

思ってもいなかった質問だったのか、マックスの顔が強張る。
彼の表情が変わってしまって、ほんの少しだった自信が更に減ってしまう。
本当に「俺の事を大事に思っている彼」はここにまだ居る?

俺はまた彼に手を伸ばす。
でもその手は、彼に届く前にぎゅうっと彼に絡め取られてしまう。


彼は確かにここに居る。
俺の手を握ってる。
ねえ、何を思って俺の手を握っているの?
大事に思われてると思った俺は間違ってない?

ねえ、俺に教えてよ……!




 

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