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「ハア…」
俺は洗面所で歯ブラシを銜えながら、今日早くも何度目かの溜息を吐く。


今日は土曜日。
一之瀬が「次は半田からチュウしてよ」って言った練習の次の練習日だ。

本当に今日、俺から一之瀬にチュウしなきゃいけないのかな…。

鏡に映った自分に問いかける。
勿論鏡の中の自分が答えてくれる訳も無い。


俺は何をこんなに悩んでいるのか。
実はそれさえもよく分かってない。

そもそも本当に嫌なら嫌って言えばいいだけの話なんだ。
だってこれは俺から一之瀬へのお礼ってことでの行為なんだから。
お礼なら何もチュウじゃなく今までどおりの形ある物を最初から準備してたっていい。

でも俺は今、悩んでいる。
もう歯ブラシも十分以上している。

「ハア…」
ああ、答えが出ないまま、また溜息の数だけが増えてしまった。
なんだか磨きすぎて歯茎もずきずき痛みだしてきた。

「ハア…」
俺は結局答えが出ないまま、歯ブラシを口から出す。
時計を見ると、もう部活の始まる時間に大分迫っていた。


遅刻ぎりぎりって時間に部室に行くと、そこはもう誰も居なくて、
俺が着替え終わってからグラウンドに出た時は丁度全員で整列しているところだった。
俺はその列の一番後ろにこそっと並ぶ。

一番後ろから、遅刻ぎりぎりになった原因の種の姿を探す。
いつもと位置が違うからか中々見つからない。

おっかしいなぁ、いつもだったら土門の隣にいるはずなのに。
いつもの定位置にアイツの姿が無くて、俺は首を捻る。


「なあ、今日一之瀬は?」
俺は前に並んでいる壁山にこっそりと話掛ける。
前では響木監督の隣で音無が今日の練習メニューを読み上げている。

「まだ来てないッスよ」
壁山の単純明快な答え。


俺はその時、壁山の答えに正直ほっとしていた。
この時はただ俺から一之瀬にチュウって問題が先送りになったことが嬉しかったから。

そう、まだこの時点では一之瀬の欠席は俺にとって嬉しいことだった。


その日、結局一之瀬は部活に来なくて。
次の日も、その次の日も一之瀬は部活に来なかった。
俺は日曜日も部活を休んだ一之瀬を風邪でも引いたかと少し心配してたんだけど、
土門とか監督なんかは一之瀬が休んでいる理由を知っているみたいで、
理由を聞いても言葉を濁すけど、全然心配してない素振りだったから大したこと無いんだろうって思っていた。

でも、それがなんだか本格的におかしいぞって俺が漸く気付いたのは次の木曜日。
その時には既に部活の大多数の人間が一之瀬はどうしたんだって心配しているような時期だった。


「なあ土門、一之瀬、ずっと学校にも来てないみたいだけどどうかしたのか?」
金曜の放課後の部活が始まる前の部室で、円堂が着替え途中の土門に話し掛ける。
同じく着替え途中だった俺はその「一之瀬」って言葉にぴくりと反応して聞き耳を立てる。

「あ〜、一之瀬ね…」
ユニフォームを頭からずぼっと被ってから土門が気まずそうに頬を人差し指で掻く。
土門はそのポーズのまま部室を一周見渡す。
一之瀬を気になっていたのは実は俺だけじゃ無かったみたいで、部室にいた大多数の人間の目が土門に集まっていた。
そのことに土門はがくっと頭を下げてから、俯いたまま頭を掻く。

「本当は口止めされてるんだけど、ま、しょうがない。
一週間近く帰ってこないアイツが悪い」
そう言って顔を上げた土門は困った様に苦笑していた。

「実はアイツ今、アメリカに帰ってるんだ。
本当だったら土日挟んで四日ぐらいで日本に戻ってくるなんて言ってたんだけど、
アイツ気まぐれだからなぁ。
でも、流石にもうそろそろ日本に戻ってくるんじゃないか?」
あっけらかんとした土門の言葉に部室全体が、なーんだって空気に包まれる。
言われてみると本当に一之瀬らしい理由で、皆も納得したみたいで準備が終わった奴から次々と部室を出て行く。

俺は病気じゃなかったことにとりあえずほっとした。
そしてそのすぐ後には、
一之瀬が毎週土曜に一緒に練習している俺に何も言わずにアメリカに行ってしまったことに怒りが涌いた。

俺は毎週楽しみにしてたのに、チュウの約束だって本気で悩んだのに、
一之瀬にとってはどうでも良かったんだ。

そう頭では怒っているのに、心のどこかで本当にそうなのかって疑っている自分がいて。

毎週楽しそうにしていた一之瀬。
お礼なんていらないって怒った一之瀬。
チュウされて真っ赤になった俺を見て笑った一之瀬。

俺はその一之瀬を信じたいって思ってる。


そして最後に俺は不安に覆われた。

俺の知っている一之瀬は、俺との約束を大切にしてくれてた。
それなのに何も言わずにアメリカに行ってしまって。
そして予定の日になっても戻って来ない。

土門の言う一之瀬は、この上なく一之瀬らしいのに、どことなく一之瀬らしくなくて。
それがなんとなく怖かった。


皆が出ていっても、俺はまだ着替え途中だった。
不安が渦巻いて、着替えなんて出来なかったから。


最後まで残っていた土門が、そんな俺の頭に折りたたんだ腕を乗せる。

「あの胡散臭い爽やかな顔でも一週間も見ないと寂しいもんだな」

頭の上の土門の腕が重たい。
もともと俯いていた顔がもっと地面の方へと下がる。
重たすぎて、顔なんて少しも上げられない。

「ま、もうすぐ嫌って程見れるんだろーけど」
声と共にぱっと土門の腕が退く。
急に軽くなったせいか俺の顔もやっと前を向く。
軽くなったのは頭だけじゃなかったのかも。

「戻ってきたら、自分勝手な一之瀬のこと一緒に説教しよーな、半田!」
笑いながら俺にウィンクして土門は部室を出て行った。
そこはかとない不安でいっぱいだった俺には、
そんな明るく軽い土門の態度が凄く有難かった。

ぱたんと土門が部室のドアを締めた時、
俺の中の不安はまだ全然無くなりはしなかったけど、
それでも俺は土門のお陰で着替えを再開する気になれていた。


 

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