▼ 風の民の少女 (4/4)
風獣の神殿――もとより小高い崖に建てられた風の民の集落から、さらに山道を登ったところにある、聖なる祠。
代々風使いに選ばれた者は、ただ一人で神殿へと向かい、そこにおわす風の神獣様から風使いの証を授かってこなければならない決まりだった。
「一人で大丈夫なの?」
出発する前、心配そうに尋ねたハーミィの顔が頭を過ぎる。
「大丈夫だよ!私これでも、足腰は丈夫な方なんだ」
そう笑ってみせたものの、
「……やっぱりちょっとキツかったかな」
早く神獣様に会わなければ、という気持ちもあり、里を出てから急斜面の山道を歩き通しだった。
リーンベルは苦笑を漏らしつつ、痺れて痛む足を軽く揉む。
少しだけ、痛みがひいた。
「よし…―――――!?」
再び顔を上げたリーンベルの目の前に、何かが飛び出してきた。
様子のおかしい獣。
身体が無数の羽のように変形していた。
獣の目がリーンベルを捕らえる。
その目は、不安と恐怖と怒りと絶望と――様々な負の感情が入り乱った狂気の眼差しだった。
「風魔………!」
風魔、風の精霊の成れの果て。
負の感情に侵された精霊達はいつしか自我を失い、異形の者へと変わり果てる。
話には聞いていたが、その存在のあまりの痛々しさにリーンベルは思わず目を背けた。
「―――何やってんだ、アンタ!」
刹那、頭上から声が降り懸かる。
目を開ければ、風魔から自分を守るようにして一人の少年が立っていた。
――ど、どこから現れたの?
ここは聖なる場所だ。
外部からの者が侵入していいはずがない。
しかし、少年は里の者ではなかった。
小さな集落だ。
暮らす民の顔は全員覚えている。
そういえばさっき頭の上から声をかけられた気がする。
まさか、空から来たの?
「風魔を前にして突っ立っている奴があるか!死ぬ気かよ!」
そうだ、風魔。
見遣れば風魔は少年に向かって牙を剥き出し威嚇していた。
少年の右腕に握られていたのは、鋭利な刃。
それを見た時、リーンベルは思わず叫んでいた。
「……やめて!殺さないで!」
少年はその声に弾かれたように振り上げていた刃をひく。
しかし、瞳は風魔を捕らえたまま、リーンベルに向かって怪訝な声を上げた。
「何言ってるんだ、やらなきゃ殺されるだけだぞ!」
「待って!……お願い、待って…!」
リーンベルは少年の制止を無視して、威嚇を続ける風魔に歩み寄る。
風魔は一瞬びくり肩を震わせ、一歩後ずさった。
「大丈夫、大丈夫だから…ね、思い出して、あなたが精霊さんだった時のこと」
リーンベルは目を閉じる。
そうして胸に手を当てて、口ずさみ始めた。
既に亡くなった母親から教わった子守唄を――。
「…!?」
少年は風魔の様子がおかしいことを感じとる。
身体を震わせ、風魔は泣いていた。
なぜ涙を流しているのかわからない、といった様子だった。
やがて涙が止まると、風魔は淡い光に包まれる。
今までいびつだった風魔の姿は、美しい一匹の翼を持つ獣――精獣の姿へと変わっていた。
リーンベルもその様子に気づいたようだ。
だが、驚きつつも歌を唄うことはやめない。
精獣は翼を大きくはためかせると、大地から飛び上がる。
そして一声、高く鳴くと、大空へと羽ばたいていった。
「………彼、ありがとうだって」
歌をやめ、リーンベルは嬉しそうに微笑む。
「お前、その歌…なんで風魔が元の姿に…?」
「この歌ね、昔から風の民に伝わってる歌なんだ。もしかしたらあの子が精霊さんだった時聴いたことがあるかもしれないって」
「そんな、そんなの、信じられる訳…」
「…貴方も本当はあの子と戦いたくなんてなかったんでしょ?」
少年は驚いた顔を見せる。
リーンベルはなおも微笑みながら続けた。
「私、この先に行かなきゃいけないから。
助けてくれて、ありがとう」
「あ、ああ……」
リーンベルは少年に背を向けて歩き出す。
そうしてしばらく歩いたところで、リーンベルはふと立ち止まった。
そういえば、名前を聞いてなかった。
だが振り返ったみた時、あの少年の姿はどこにもなかった。
「不思議な子だったな…」
里では珍しい、綺麗な亜麻色の金髪の少年だった。
頭に不思議な羽根飾りを付けていた気がする。
「…後でまた会えるかな?」
少年のことは気になるが、今は神獣様に会わなくては。
リーンベルは再び山道を歩き始めた。
一匹の白い竜獣が、彼女の頭上を飛んでいたことには気付かずに―――。
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