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『最近の馬場さん』
最近の馬場さんは、表情が豊かになった。というのが、俺、数家光流の見解だ。
「橙次さん、この煮汁しょっぱくない?」
「ああ? そうか?」
「すっかり煮詰まっちゃってますよ。どうすんですか、これ、アイボリーに持っていくんでしょうが」
「別に約束してるわけじゃないから、まずいんなら捨ててくれ」
「まずいとは言ってません。味取り直してください」
「お前がやればいいだろ」
「俺は今別の仕事で忙しいんです」
表情が豊かに加え、態度も以前より分かりやすい。
何が原因かは知らないけれど、今はどうやら店長に不満があるらしい。
最近の、馬場さんの店長に対する態度には敵意がむき出しだ。
そもそも、夜番で馬場さんが出てくるのも久しぶりだ。
昼番だった店長がずるずる居座っているので、珍しく従業員が全員そろっている。
「幸紀がでてきたなら」と仲道さんと高間さんはすでに【粋】に予約を入れている。
ここのところの不審な動きの顛末を、直接聞けるのかと俺も楽しみだ。
営業時間が終了し、スナックアイボリーへの鍋の配達を頼まれた俺は、早々に店を出る。
「こんばんは、【U TA GE】ですけど」
「あら。えっと、数家くんだったかしら。今日も悪いわねぇ、店長さんによろしくね」
オーナーのまりこさんに迎え入れられて、鍋を渡し、前回の鍋を回収する。
「今日茜さんは?」
「茜ちゃんは今日お休みよ」
「ああ、そうなんですか」
せっかく来て知り合いに会わないというのもむなしいものだが、まあ仕方ない。早々にアイボリーを出て、店に鍋を戻しに向かうと、タクシーが店の前に止まっていた。
「私、大丈夫です、橙次さん」
「いいから帰るぞ。ったく、調子悪いなら先に言えよ」
「軽い頭痛ですよ。電車だって乗れるのに」
新婚夫婦が言い合いをしている。
店長は俺を見つけると、軽く手を挙げた。
「いいところに。光流、店の戸締り頼む。俺も一緒に帰るから」
「はあ。房野大丈夫か?」
「すみません。平気だって言ってるのに」
店長の房野への過保護は今に始まったことじゃない。
「素直に言うこと聞いてた方が早いと思うよ」と耳打ちし、俺は店に戻った。
鍋を戻し、消灯のチェックをし、店の戸締りをする。
そして小走りに【粋】へと向かった。
いつものガス抜き飲み会は、もう終盤に差し掛かっているだろう。
「遅れてすみません」
「ああ、数家。待ってたぞー」
高間さんが朗らかに手を振る。仲道さんはすでに真っ赤になっており、馬場さんは相変わらず静かに杯を開け続けている。
「今、幸紀の引っ越し先の話聞いてたんだよ」
最近、馬場さんは引っ越しをした。それが茜さんの隣の部屋だというから、笑い事にならない。彼女に気があるのはなんとなく気づいていたけれど、いきなりその行動は一般的にはドン引きレベルだろうと思うのに。
「どうですか? 部屋の感じとか」
「……ボロいよ。音響くし」
「さっきから、ひどいんだぜ、言ってることが。何がよくて引っ越したんだよ、お前ー」
事情を知らない高間さんは、カラカラ笑いながら突っ込んでいる。
前の馬場さんのアパートは、場所こそ遠いものの、駅近くのしっかりした建物だったはずだ。
部屋のレベルを落としても隣の部屋がよかったというなら、やっぱりストーカーに近いのかもしれないと思わざるを得ない。
思えば店長はロリコンで、従業員はストーカーとか。
うちの店は大丈夫なんだろうかと不安になるな。
「そういや、最近馬場、昼番ばっかりだよな。なんでだ?」
真っ赤な顔で仲道さんが尋ねる。
「まずいですか?」
「いや? 夏休みになれば、俺あんまり昼入れなくなるから助かるけどさ」
「ならいいじゃないですか」
馬場さんは静かに受け流してく。仲道さんは酔ったとき特有の口の軽さで、続ける。
「そういや、どうだったのお前、茜さんとのデート」
仲道さんの言葉に、高間さんがぶーっと吹き出した。
「なにそれ。俺知らねぇけど。馬場、茜さんと付き合ってんの?」
「付き合ってはいません。今口説いてるとこですよ。……仲道さん、内緒にしてほしいって言ったじゃないですか」
「あれ、そうだったか。悪い悪い」
謝罪に本気が感じられない。
どうも飲み過ぎのようだな。
俺は馬場さんと仲道さんの間にある、日本酒の一升瓶を手に取った。
『幻の瀧』という北陸の酒だ。すっとした香りで飲みやすい。三人ですでに三分の二ほどあけている。
とはいえ、瓶でここにあるということは一本買取で注文したんだろう。
これ以上皆が飲む前に自分で減らそう。
「まあ、ここまで言ったら教えてもいいだろ。今馬場、茜さん口説くのに必死も必死で。この間もうちから車借りて行ってさ」
「マジで!」
「ご機嫌で帰ってきたよな。いい感じだったんじゃないのか?」
盛り上がる仲道さんと高間さん。静かに飲み続ける馬場さんの額に、なんとなくだけど、青筋が見えるのは気のせいか。
しかし酔いが回った仲道さんほど、空気を読まない人はいない。
加えて、いつでも陽気な高間さんは、どんどん話を盛り上げて行く。
「だから、今日の幸紀、橙次さんにやたら突っかかっていったのかぁ。好きな相手の元カレだと思えばムカつくよなぁ」
ああ、それ分かっていても、口に出しちゃいけないやつですよ、高間さん。
どん、とテーブルが音を立てる。馬場さんのこぶしが、テーブルを叩いたのだ。
一瞬店内のざわめきさえも止まる。
「……マスター、漬物追加」
「お、おう」
カウンターから、ぎこちない声が戻ってくる。
そのまま、馬場さんが、深いため息をついた。
「……あー、橙次さんをぼこぼこにしたい」
その不穏な発言で、仲道さんと高間さんが一瞬で黙る。
「や、ぼ、暴力はよくないぜ、馬場!」
「そうそう。落ち着こう、幸紀」
怒らせると一番怖いのは馬場さんかもしれない。
このまま飲ませていると危険だと察知した俺は、こっそりと酒を減らすことに専念した。
【Fin.】