流転捻転の証明へ(だらみさんリクエストゼロムゲ)


・証明問題出題

「一人独房は淋しいだろ?ほら、差し入れだ」
「インフィ…」
突如現れた恩師が差し出してきた、懐かしい少女の姿に知らず目を細め緩やかに目尻の険を鈍くしていっていたのか、連れて来てよかった。と、恩師ムゲン・グレイスランドは呟いた。
「お前さん身一つで此処に入れられたって聞いたから…何か入り用な物あったら言ってくれ、用意するから」
「先生」
「…お前を止められなかった、後から手を差し出した所でその事実は変わらない。でも、今は…差し出した手を引っ込めたくないんだ。出来る限り、お前をサポートしたい」
「先生にしては随分謙虚な物言いをされるんですね」
「そりゃ……殆んど俺の所為だからな」
「先生、相変わらず自惚れが大きいのですね」
「うぬっ」
「私がこうなったのは大なれ小なれ自分の意思です、まあ、あそこであの少年たちが現れたのは計算外でしたけれどね、ふふ」
ギラティナの件で見た時の様な歯の隙間から漏れるような悪意を纏った笑みではない、鼻を鳴らすような穏やで微かな笑い声を零すゼロに内心肩肘を張り緊張させていたムゲンは拍子抜けした。
無理矢理手を取った時には驚愕と憎しみのこもる眼差しを向けられたと言うのに、一〜二週間会わないだけでまさかこんなに変化があるとは思っていなかったのだ。まるで憑き物が落ちたようなゼロの穏やかで柔らかな気配に
「…お前さん、随分すっきりした顔してるな」
等とついうっかり口に出してしまったムゲンは、迂闊だった!とすぐさま思うも言ってしまったものは訂正出来ない。だが、ゼロは意に介さず普通の口調で
「氷漬けになってる間に、大分頭が冷えましたよ」
頭に血の上り続けた年月でしたから。と返事をしてきてまたムゲンは呆気に取られた。手渡されたインフィに柔らかに微笑みかけるその顔は、数年前自分の助手をしていた頃と遜色ないゼロの顔で…
「ゼロ」
「先生、お願いしても宜しいですか?本当に何も無い状態ですので…」
「あ、ああ!任せておけ!」
問おうとした言葉に被せ気味にかけられたゼロの話に本来の会話の流れを思い出す。そうだ、時間はまだまだある。ゼロの心境変化を今直ぐ問い質さずともいい。
何故か焦りの混じっている己の気持ちに待ったをかけ、口と顔は何時ものふうを取り繕う。
取り留めの無い話を交えながら、ゼロの必要なものをメモに纏めていると係官に、そろそろ時間ですと言われもうそんな時間だったかとゼロに視線を向けるとゼロは既に椅子から腰をあげ係官に連れて行かれるところだった。おいおい、早過ぎるだろ、再び訪れる嫌な焦りに押され無用な大声で扉の向こうに行こうとする背中に叫ぶ。

ゼロ!

若干の間と静寂の後、静かに振り返る元助手の顔は声の大きさに驚いたのかきょとん、と元々大きめな目を見開き此方に疑問の眼差しを向けている。
何も理由がないが、なんでもない。なんて言える場所でもないので

「ま…また来るからな」
等と無難な言葉を口にすれば、ゼロは穏やかに笑いまるで昔に戻ったように柔らかに答えた。

「お待ちしています、先生」


−−−−


・公式に代入

何の戯れか、昔ある質問をゼロに問うと、ゼロは笑ってこう答えた。

『先生、理解の出来ない事を他人に尋ねるのに、そんなに誘導尋問の様に望みの答えを引き出そうとなさるなんて。本末転倒ですよ』

俺にはどうも、自分で理解出来ない納得出来ないと思いながらも他人に違う答えを出されたくないと言う独善的な部分があるらしい。
それは自分の研究に関してや、漠然と考えていて形になっていないものだったりと色々あるがそれを俺に面と向かって指摘したのは後にも先にもゼロ唯一人だけだった。


俺はその元助手に会いに、刑務所に足を運んでいる。
俺の元助手は数年前に袂を別って以来行方を眩ましていたが数ヶ月前に大きな事件の首謀者として目の前に現れ結果、この様な場所に収監されている。
有罪判決は免れなかったが色々手を回し、減刑をもぎ取る事が出来たしゼロはまるで憑き物が落ちたかの様にまるで大人しく穏やかで、模範囚と言われても良い程の生活態度で過ごしているのだと言う。
この分なら刑期も益々短くなるのではないかと内心嬉しく思いながら今日も話をしに俺、ムゲンは面会にやってきた。
扉の向こうから姿を現したゼロはムゲンの顔を見ると僅かに表情を緩め、先生こんにちわと挨拶をした。面会時間を告げられ手錠を外され、席に着くなりゼロは切り出した。
「先生、以前先生の仰っていた理論の事なんですが」
「何か思いついたか?何でも言ってくれ、実は俺の方は考えが煮詰まっちまってな」
「まず―」


暫しお互い熱の入った議論を交わしている間、係官は理解の範疇なのかこっそりと欠伸をかみ殺し此方の会話を見守っている。この会話の中、初めてここを訪れたときに抱いた疑問が胸の中でむくむくと頭を擡げているのに気付いた。
口に出すまい出すまいと押さえつけているのに、どうやってか飛び出そうとしている気がして、僅か気を張っているが俺は其処まで器用じゃねえんだよ。と自分を貶しながらも何とか耐えていた。だけれど、
一頻り議論を終え結論を纏めようとしていたゼロの穏やかな視線に、到頭俺のギリギリ溢れそうだった言葉はその脆い我慢を飛び越えて言った。

「ゼロ、お前…前と違うのか?」

嗚呼、出た。何で出るんだよ…出て行った言葉は取り戻せないだろうが。
俺のなんとも言えない感情滲む顔にまたしてもきょとん、とした表情を浮かべる顔を向けながらゼロは至極最もな疑問を口にしてきた。

「どう言う意味ですか?」
「すまん主語が無かった、」
「ええ、主語はありませんでしたね、先生は私の何が前と違うと考えていらっしゃるのですか?」
「ギラティナの件で会った時と今のお前さんが、なんだ、その、雰囲気っていうやつか?それがあまりにも違うもんだから……なんか、その宗旨替えでもしたんじゃないのかなとか」
「特に信仰は持っていませんが?」
淡々と受け答えしていくゼロの姿勢は研究者としては素晴らしいが、若干話がずれているので其処がとても惜しくもあり痒いところに手が届かない様でもあり…つまりじれったいのだ。そうじゃない、物のたとえだゼロ、態とか?
「そうじゃなくてだな、お前さん、この前俺がインフィを連れてきたときも妙にすっきりした顔してただろ?」
「そうでしたか?」
「お前に再会したときなんだか、こう…憎しみこもって溜まりに溜まって堪りません!って言うか悪い感情を前面に押し出してるって言うか」
「先生の感情の例えは相変わらずややこしいですね」
あっさりとムゲンに自分の苦手なものを言い当てられ苦々しく、情の推移や他人の感情を汲むのが苦手なんだよ俺は…と唸る様に呟くと、ゼロは考える様に視線を左右に泳がせて少しの間の後

「変わったと言えば変わっていますし、戻ったと言えば戻ったとも言えます」
と、これまたあっさりと己の見解を端的に口に出した。昔から頭の回転はすごぶる速かったし、飲み込みも人一倍だったが今回ばかりはあまりにも端的な物言いで俺でも解らない。ゼロの事は、他の人間よりは解っているつもりなのに。
「戻った?」
「氷漬けの機内で、私は何も出来ませんでした。コンソール、ボタン一つ満足に動かせないあの狭い空間で唯息をし暗闇に目を凝らす以外出来る事がありませんでした」
その時ふと思いました、今迄反転世界とギラティナの事をずっと考え続けてきた自分にこの様な時間があったのだろうかと。答えはノーです、寸分すら惜しみ計画を進めていたのですから、眠る以外に黙っている時間等一切ありません。私にとって久し振りすぎるくらいの、何もしない時間です。何も出来ないから取り止めのない事を考えるしかありません、考えを順々に展開していく毎に何故だか自分の立場や感情を俯瞰して捉える事が出来る様になってきました。今迄前しか見ていなかった自分を余所から眺めているような…不思議な感覚でした。
それから更に時間を置いた後に先生、貴方が手を差し伸べて下さいました。
其処からは警察に連行され取調べを受けたり裁判を受けたりと色々忙しなかったし何も考えてなどいられなかったのですが、逆にそれが良かったようです。

長いような短いようなゼロの例え話がもどかしく、せっかちな性分だと言う事は知っていたがまたしてもつい結論を急かしてしまう様にゼロの話の腰を折り、結局如何なんだ?何て聞いてしまう。ああ、またやらかした…何で俺はこうなんだ。と微かな自己嫌悪を抱いたがゼロはそれには関せず、話を結論へ無理矢理繋いでいってくれた。
つまり
「私は今極めてニュートラルな状態だと言う事です、今の私にはあの時の激情は存在しない。とは言えませんがなりを潜め己の感情を自分の制御化に置けている状態なのです」
それはつまり―
「…昔のお前に戻ったと言う事か?」
「そう言う戻ったではありません。過去に戻れたとしても自分の感情や記憶がリセットされる訳ではないのは時空移動の理論をお考えになった先生も想定内の考えでしょう?」
「戻ったと言う事は俺の助手の頃のお前に戻ったと解釈しても間違いじゃないんじゃないのか?ニュートラルって事は反転世界やギラティナや…他の事への執着や思考もリセット出来たと考えても可笑しくは…」
「先生、ご自分で内心こうと決め付けている答えを他人に、あまつさえ違う答えを受け容れる気も無いのに問うて、自分の望む答えに誘導されるのは先生の悪い癖ですよ」
咄嗟に、ん〜〜〜〜〜!と唸るも、二度目の図星を吐かれ俺の心臓は酷い早鐘を生み出している。それと同時にはっとして、意識が逆巻き血が逆流した様な目の覚める感覚を齎した。
俺は…あの頃の、更に言えばその前の状態に戻っていれば楽だったのにと、また自分本位の事を考えて…ゼロの気持ちや考えを蔑ろにするつもりだったのだ………俺は、なんて自分勝手な男だろう。

「…すまん」
「私に謝られても困ります、その心構えを治していただけない限り、先生の質問に真の意味で答えて差し上げる事が出来ません」
「真の意味?」
「先生は私の変化の深層を知りたいのでしょう?」
「?!」
「私が先生の下を去る前に伝えた事がどうなったのか。先生はそこを知りたい為に話を誘導して行こうとしてらしたんですよね?」
流石だ、天才と言う言葉を冠してもなんら問題のない奴ではあったが、こうも簡単に自分の事を解られると若干恐ろしい。だが、此処で虚勢を張っても嘘を吐いても仕方がない。素直に認めなければ話は進まないのだ。
「…ああ、そうだ」
「しかし先生の中では既に先生の答えがあるようです。その状態で私の気持ちを伝えたとしても先生には理解出来ないと思いますが」
「聞いてみないと解らんだろそんなの」
「相変わらずですね、ムゲン・グレイスランド」
一瞬冴え冴えと、しかし冷たさを纏ったような声でフルネームを呼ばれ僅かの間に切れた視線を合わせようと目だけ動かした瞬間射抜くような金色の輝きが目に入った…気がした。気がしたと言うのは、確認する前にゼロが肩を竦め態とらしい溜息を吐いて目線をそらしたからだ。
「先生は頑固なんですから、自分の中の答えと違う答えはすぐに受け容れられないと好い加減お気づきになるべきです」
「俺は歳のわりに物分りが良いほうだぞ!」
「それが自惚れなんですよ先生、自分を過大評価しすぎです」
「今は俺の話じゃなくお前の話をだな―」
トントン、
「ふえ!?」
互いの世界に入り込んでいた俺達に、最早顔馴染みになった係官は何度も言ってるのに聞こえてないのか?と言わんばかりの声と苦笑で俺の肩を軽く叩きながら告げてきた。

「時間ですよ、グレイスランドさん。ムゲンも戻る時間だ」
「ちょ、話はまだ途中で」
「また今度面会に来てやって下さい。お互い何時も積もる話が尽きないようですし、名残惜しいのは解りますけど一応規則なんで」
軽い口調で言いながらも着々とゼロの手に手錠をかける係官を引き止める術を咄嗟に思いつけないムゲンは、あーもう!と子供の駄々みたいに頭を掻き毟りながら
「この話はまた今度だゼロ!」
なんてまたもや大きな声で宣言をする。だからなんで俺はこんなでかい声をこんなところで張り上げてるんだよ、羞恥心に似た奇妙な感覚を胸に湧かせながら踵を返しドアに向かう。ゼロが振り向き、またあの穏やかな、昔を思い出させるような顔で声で何時もと同じ事を口にするのを背中越しに聞いたムゲンは以前よりもずっとゼロの事を考えながら刑務所を後にした。


「お待ちしています、先生」


−−−−


・流転捻転の証明へ


今よりずっとずっと前の話だ。俺はゼロを助手にして、二人で色々な研究に没頭していた。研究室に何日も泊まったり色んなところに足を運んだり時には命の危険に晒されたり…反転世界に足を運ぶ前からずっと、そうやって二人きりで過ごす時間が増えていって。ある時、まるで堪りかねたのだと、もうどうにも我慢がならないんだと言わんばかりの、俺にはなんとも名状し難い顔で俺に訴えてきたのだ。

『先生、私は…貴方の事が好きです。ムゲン・グレイスランド』

貴方をお慕いしています、


・流転捻転の証明へ


色褪せた記憶だと言うのに、目蓋の裏に色鮮やかに昨日の事の様に甦るそれに何度目を覚ました事だろう。今もそうだ、告げてきた後の気まずい空気と早鐘すらありありと思い出せるリアルな感覚にはっと目を覚ませば其処は昔使っていた研究室でもなければ調査している山でも湖でも反転世界でもない。自宅の自室の色気も何も無い古びた天井の壁紙が目に映り、朝を告げる鳥の声が遠くから聞こえる唯の…現実だった。

この所毎日の様に見る夢にくらくらする頭を左右に緩く振りながら、夢の続きを考える。
あの時俺は、一体何と答えただろうか?
あの後何事もなかった様にお互い過ごしていたんだろうか?あの一件が起こるまで?一番大事なところなのに何故か記憶が曖昧だ、寧ろ忘れたがっているのか?
つまり俺はあれを無かった事にしようとしているのだ…つくづく自分の身勝手さが嫌になる。
この場にいない元助手に、何度も問いかけたいと願いながら叶わなかった問いを口にする。なあゼロ、
「何でお前さんはこんな男にあんな事を言っちまったんだよ…」


*


毎日と言う訳ではないがムゲンは可能な限りゼロに面会する為に時間を作り、刑務所へ足を運んでいた。ゼロが収監されてどれくらいの月日が経ったろうもう何度目になるのだろう、ムゲンに今迄の埋め合わせのつもりはないが贖罪のつもりはある。
彼奴は俺に自惚れるな、なんて言ったが俺が反転世界を見つけなければ、俺がギラティナの研究をしなければこんな事にはならなかった。世界を危険に曝す事も、ギラティナや多くのポケモン達を危険な目に合わせる事もゼロが罪に問われる事も…なかったのだ。その確率は非常に高い。
彼奴が俺の所為ではないといくら俺に訴えても、俺の中ではその考えが覆る事はない。
そう、

「先生、こんにちわ」
この男の未だ掴めぬ心根の様に、それは事件の時から俺の中にずっと蟠っていた事だ。

「先生、この前手紙で教えてくださったポケモンの習性の話なのですが解らないところが二、三ありましたので其処を是非詳しく」
「ゼロ、単刀直入に聞くぞ」
「はい?」
いきなり言葉を制した俺にまたしてもきょとん、とこちらを見るゼロに今日こそ今迄聞こうとして聞けなかった、否聞きたくても聞けなかった事を聞くんだ、と俺は意気込んでいた。
「ゼロ、お前さん―俺の事」

どう思ってる?まだ、好きなのか?それとももう、なんとも思っていないのか?
こう口に出す筈だったのに、言葉が出る前にムゲンの言葉を遮るようにゼロは、この一言を口にしてムゲンの意気込みを削ぎ落とした。

「先生、答えは出ましたか?」
「……は?」
「以前、お伝えしたとおりです。先生の中で答えが考えが纏まっているのなら、もう他の考えの入り込む余地は先生の中には無いのだと」
「質問しようとしたのは俺だぞゼロ」
「私の質問も以前より持ち越されていますよ」
そうだった、言われて思い出したあの日の会話にムゲンは苦い顔をしながらがしがし頭を掻きつつもムゲンはゼロの考えを変えていこうと次の一手を繰り出していく。
「だから言ってみなきゃ解らんだろ?何事も行動だと俺は言ってたつもりだったが?」
「しかし先生、」
「お前さんの答えを聞いて、それから俺の考えが変わる可能性だってあるだろ?」
「それはかなり低い可能性です」
「お前、俺の事どんな奴だと思ってんだ?」
「頑固で、人の話に耳を傾けながらも持論を曲げる事は殆んど無い、自分の考えに絶対の自信を持っている方です」
酷っと噴き出すよう、笑うような語調で言いながらもムゲンの腹の底は日頃面と向かって言われる事の無い、己の長所でもあり短所でもある痛いところを突かれて若干嫌な冷え方をし始めている。
研究の発表をするときにやんや言われるのも怒号が飛び交うのも慣れているが、こうやって一対一でしかも感情的な事や互いの内面を探ったり考えたりと言うのは実は苦手だ。
しかも相手はゼロ、俺の傍に誰よりも長い間いた男だ。ゼロも俺と同じで理系丸出しだと記憶していたのに、刑務所に入ってからのゼロはなにか違う方に成長しているようで…益々ゼロの考えが解らなくなってきている。ゼロの事は誰よりも理解していると言う自負が足下から崩れていくようで、心許無い気になる足下を頭の隅で想像しながらでも無視に努めて此方の調子に引き込もうと頭を回転させる。だがその回転は空回りに終わった。
「お前、それ言いすぎじゃ…」
「それでいて、貴方の研究に対する真摯で熱心でアグレッシブともいえる行動力は私には無いものです。そう言う姿勢を心根を、私は尊敬しています」
「ゼロ」
「今も前も、その気持ちにだけは嘘偽りはありません」
「……」
此れを聞いて、冷えた腹の底に妙に温いものが滲んでいく感覚が何処からともなく現れた気になった。胸の中が何だか居住まいが悪くなり何故かゼロに話を聞けなくなってしまい、この後は最初の話に戻って何事も無いように面会を終えたが帰り道のムゲンの様子は正に胡乱気で。
ゼロの気持ちが解らない以上に、自分が本当に自分で口にした事を実行できるのかの自信が唐突に湧かなくなった。元々感情論には明るくない自覚はあったが自分の元助手であり似たような存在だと思っていたゼロが、苦手だと思っていたその分野を自分よりも先に開拓しているような気がして…頭の中がぐしゃぐしゃになってきていた。
後進の発展や進歩は喜んで然るべき事だ。しかもゼロだ、助手として色々教えてきた面倒を見て可愛がってきた男が自分を超えていく事は先達として、教導者としては嬉しい限りの筈だ。その筈なのに…なんだ、このどす黒いねばねばドロドロした胸の中の痞えは。気持ち悪い、気持ち悪い…
家に着くなり日頃なら机に向かい夜遅く迄研究を進めるのに、全くそんな気も起きずただベッドに倒れこむムゲンをタテトプスが心配してベッドに飛び乗って顔を擦り付けてきたのにも構ってやれないまま、己の中に突然湧いてきた不快感の正体を探ろうとするが思考はぐるぐる、渦を巻くだけで出口が見当たらない。
そんな状態のままその日は終わり、朝を向かえ、何日も過ぎていき……原因も答えも見つからない。

その不快感が拭えていない儘それでも会わなければと義務の様に己を奮い立たせて、俺はまたゼロの元を訪れていたが、そんな状態では話に身は入らず収穫の無い話ばかりで話に進展は見られない。
また無為な時間を過ごす事になるのだろうか、そんな暗い考えに支配されそうになったムゲンの耳に突然ゼロの先生、お願いがあります、と言う珍しい言葉が入ってきた。

「んあ?お前が頼み事か?珍しいな、どうした?」
「インフィのメンテナンスをしていただけませんか?刑務所の中では日々の大まかな事は出来ても、細かなところは視てやれないので少し調子が悪いようなのです」
「解った、俺が帰る時渡してもらえるようにしてくれ」
「よろしくお願いします」
その話から別の話題にそれ、その日は恙無く面会は終わり帰り際に俺はインフィを託されて帰宅した。

家に帰ると、郵便受けに一通の封筒が挟まっていた。宛名は勿論自分、相手は誰かな?と封筒を引っ繰り返して―
ゼロ、と書かれた送り主の名にどくり、と態とらしく心臓が大きな音を立て耳の中でこだまする程鼓動が五月蝿くて、もどかしく鍵を開けると靴を脱ぎ散らかし、ごちゃごちゃと散らかった机の上を腕で押してなぎ倒すと床で資料がひしゃげ散らばり悲鳴を上げたが構っていられなかった。机に手紙を押し付けるとペーパーナイフで乱暴に封を開け中を検める。
中身はありきたりな内容の手紙が入っていたが、あのゼロの事だ。態々こんな手紙の為に俺のところに送ってくる訳がない、何かある筈だ。
手紙をライトで透かしたり紫外線を当てたり逆さまにしたり炙ったりと色々探ってみたが手紙本体からは何も出てこない。なら問題は…封筒か。
ムゲンは丁寧な手付きでシンプルと言うより事務的なニュアンスの強い白の二重封筒を虱潰しに探り、中の封筒を引っ張り出したりして迄探ったが、手紙はおろか書き込みも筆圧の跡もメッセージ染みたもの一つ出てこない。
可笑しい、あのムゲンが何もしないなんて一体全体……?
何か引っ掛かるのは手紙の文面かもしれない。もう一度、目を皿の様にして、思い込みをなくし何か無いか何か無いかと手紙を何度も読み返す。だが、特に可笑しな点は見当たらない。何となくインフィの話題が多いだけだ、ゼロなりにインフィの事は特別に考えているんだろう……インフィ?
もしかして……

先程までのもやもやが嘘の様に、ムゲンは目を見開きながらまるで実験や調査のときの様な緊張感のある声でインフィの入った機械の電源を入れながら少女の名を呼ぶ。
「インフィ、起きれるか?」
僅かな時間の間もなく、電影の少女は姿を現し礼儀正しくムゲンにお辞儀をする。

『Mr.ムゲン・グレイスランド、お久し振りです』
「調子が悪いとゼロから聞いていたが、どうかね?」
『いいえ、私のシステムはオールグリーン。異常は見られません』
「どう言う事だ?」
てっきりインフィのプログラムの中に何か仕掛けたのかと思ったのに…ならば何故インフィを?ムゲンが首を傾げているとインフィの以前よりは人間に近付いた音声がムゲンに告げる。

『Mr.ムゲン・グレイスランド、ゼロ様からのメッセージをお預かりしております』

「ゼロの!?」
『このまま私が読みあげる事もで来ますが、端末に接続していただければ、メッセージをテキストファイルとしてお送りする事が可能です。如何致しましょうか?』
「送ってくれ、頼む」
『かしこまりました』
インフィをパソコンをおいた研究室へ連れて行きパソコンにゼロのメッセージを転送している間、ムゲンはインフィにいくつか質問をしたが確かに、彼女には全く問題がないようだ。まさかインフィはメッセンジャーなだけだったとは…盲点だった。いや、俺の考え方が狭かっただけだ。完全に…自分の考えでだけですべて見ていたのだ。

『転送完了いたしました』
「ご苦労様インフィ、休んでいいぞ」
『…はい、Mr.ムゲン・グレイスランド、お休みなさいませ。良い夢を』
一瞬で姿を消した少女を見送り、蓋を閉めるとムゲンは居住まいを正し、パソコンに向かい直しながらゼロのメッセージと言うテキストファイルのアイコンをクリックした。
ゼロのメッセージは、手紙の様に始まった。


*


先生へ、

 先生、まどろっこしい方法を使ってしまい申し訳ありませんでした。私は思想犯として服役していますので、手紙に何か大袈裟な仕掛けを施す事はどうしても出来なかったのです。ですが私にはインフィがいました、インフィにメッセージを託し、貴方の問いに答えたいと思います。
 先生、この様に先生にお手紙を差し上げるのは先生の助手にしていただく前以来の事ですね。あの頃は先生の理論や論文に感銘を受けて、唯唯その感想を伝えたい一心で筆を執ったものです。
 先生、私の名前の意味をご存知ですか?私の名前は何も無い状態、無の数字を表しています。しかし、数学論から考えると全く正反対の意味になります。そう、先生、貴方が頂戴したムゲンと言う名と私の名は同じものなのです。0は無であり∞でもある、終わりの始まりと言う意味の哲学的思考を持った数字なのです。先生は疾うにご存知でしょう。だからこそ、私の名前を聞いた時、面白い人物と廻り会えたと仰って下さったのですよね?
そう言ってもらえて、どれだけ嬉しいと感じたかはとても言葉では言い表せません。
その後も貴方と共に研究し色々なところへ調査に行ったり一緒に学会の用意をしたり、徹夜で泊まりで論議を重ねられたあの時間は私にとってとても貴重で有意義で輝かしい時間であり、経験でした。

 しかし、先生が思うよりもこの世界は捩じれが生じていくものです。

 先程も綴ったように、ゼロの概念は終わりは始まりと言う事です。ならば私のこの想いもあの時に終わるべきだったのでしょう、そうです、一度は終わったのです。先生、始まりは直ぐに訪れました。
貴方がギラティナの研究を止めメガリバの設計図を消去してしまった時、私を貴方に置き去りにされたような気持ちになりました。貴方と二人で研究し、貴方と一緒に調査し貴方とともに世界の為と心血注いだ時間も何もかもが、貴方によって置き去りされ私は一人抱えきれない感情に囚われました。その想いに名をつける事も出来ずぶつける先も見つけられず、私は日増しに膨れ上がる感情を抑えきれずに貴方の下を去りました。
それからの出来事は断片的にしか思い出す事が出来ません。結論はあの出来事を見てくださった先生には明らかでしょう、私の中に燻り澱の様に溜まりきった感情は情動は最早形を見失い、名もつけられない激情となって世界に弾け飛びました。落ち着き己の行いを俯瞰して見れるようになった今なら解ります、私は反転世界とギラティナを通して、貴方をへの想いを昇華しようとしていたのです。

 先生は柔軟な思考とフレキシブルな行動力をお持ちですが、それと同時に自論に絶対の自信をお持ちです。そんな先生が自論に相反する答えと証明が導き出されると言う数式を差し出しても、先生はお認めになられないでしょう。
つまりあの時、先生が一度、二度と私に問われた時、私が先生に胸の内を明かしたとしても先生は私の気持ちを認められないと言う事です。それは先生の持ち味でもあり長所でもあり、逆に弱点でもあると私は知っています。しかし、その直向さも熱意も行動力も自信も私にはないものです。それに憧れていました、それを妬んでいました、妬み嫉み…つまり嫉妬していました。私の中にはその様な恐ろしい感情が未だに渦巻いていたのです。
 故に時間を空けていたのです。先生、人は変われるものです。研究の世界に頑なだった私にそう示してくださったのは貴方です、その言葉には先生ご自身も含まれていると私は考えています。

「明けない夜は無い、止まない雨は無いし解けない理論も数式も存在しない。唯、まだ俺達の前に現れていないだけだ。だから進もう、歩けなくなったら休み待とう。痺れを切らしたらまた前に進んで探せばいい」

先生がそう言って私を導いて下さったあの研究室の一瞬を、何度も何度も夢に見ます。今私がこんなに穏やかなのは先生が手を差し伸べてくださったからです。激情の欠片は私に貴方への憎しみを怨みを妬みを悲しみを愛惜を訴えました。でも、刑務所に居る間にその感情には名がつけられ私の中で整頓羅列されていきました。そして、当時私の無責任な告白に貴方がどれだけ驚き、竦み、脅えてしまったかも知れないと言う事を慮り今自分が抱えている想いに悩みました。
 答えは出ましたか?と言う貴方への問いかけは己にも向かっている言葉でした。私にも時間は必要でした、私の考えは心は日に日に変化してきます。それに追いつこうとそれらを纏めようとするのに必死でした。しかしいくら苦悩しても結論は変わらない儘です、これ以上貴方に告げずに胸の裡に留めていても屹度変わる事は無いでしょう。

 先生、私の答えはやっと出ました。

 私は、形を変えながらも貴方をお慕いする気持ちを変わらず持ち続けています。先生、貴方への尊敬の念以上の親愛の情以上のものを私はこれからも貴方に抱き捧げて生きていく事でしょう。

 私の証明は以上です。今度、インフィを連れてきて下さる事がもしあるのなら、その時お返事いただければ幸いです。我が恩師にして尊敬し親愛なるMr.ムゲン・グレイスランド、貴方の答えを…何時までもお待ちしております。


ゼロ


*



読み終えた手紙に、画面に映し出される画一的なフォントを眺めながら力の入っていた肩から力が抜け、椅子の背凭れにゆっくりと体重を預け、まるで脱力してしまったようにムゲンは画面から視線を太腿に落とし細い息を吐きながら両掌で目蓋を押さえ背中を丸め更に大きく一つ、深い息を吐いた。

頭の中はゼロの事でいっぱいだった。

やっと気付いた。ゼロ、お前さんの言うとおりだ。俺は自惚れの強い人間だ、なまじ色々出来るからって何でも解る気になって、身近な人間の心一つ理解しようとしてこなかった。
お前さんの事を何でも知っていると嘯いて、何一つ解っちゃいなかったんだ。自分の為、自分の為…俺は自分の為にばかり生きてきた人間だった。自分の気持ちの為にお前に手を差し伸べ自分の心の為にお前の心を曝そうとした。俺は…俺はなんて酷い男だ、ムゲン・グレイスランド、お前の真の姿がこの醜い心だ!
思い出した、あの時、お前さんが俺に告白してきた時、俺はお前さんにこう言ったんだ。
「今何か言ったか?」と―

保身の為、お前の行為をお前の精一杯の告白を踏み躙った。そんな男にこれからもお前は心を捧げようなんて、それがお前のこの理論への証明だなんて…なんて馬鹿だゼロ、ゼロ、ゼロ!

あんな世迷い事をお前さんは胸に刻んで生きてきたのか?世迷い事?………否違う!ムゲン、今のお前の考え儘違っている、その世迷い事と今お前が断じたのは正に、世界の心理そのものだ!
明けない夜も止まない雨も解けない理論も数式も無い。必ず朝は来る、雨は上がり晴れ間が見え日は差し、人が見つけ出した理論は証明されどんな数式にも必ず答えが存在する。そうだ、嗚呼そうだ。俺がお前に教えた事だ、俺がお前をそう言って導きお前に手を差し伸べた。お前を連れお前と探し前に進んだ。
そんな俺が、頭を垂れている場合ではなかったな、ゼロ。
迷わないとは言えない、戸惑わないとも二の足を踏まないとも言えない。でも…俺は、俺も自分に立ち向かおうじゃないか、ゼロ、お前と向き合う為に。

ムゲンは勢いよく顔を上げ椅子から飛び起きると次の予定を立て始めながら書斎に戻り机の残り半分に山積みになった資料や開き悪い良く引っ掛かる引き出しを掻き回し、便箋を探し出して机の上にペンと一緒に置く。台所へ向かい適当にコーヒーを淹れそれを机に置くと静かに深く椅子に腰掛け、便箋の表紙を捲り書き出しを考え始めた。


次にゼロに会いに行くときは、インフィと己の仮説への証明を、ゼロへの返事を認めた手紙を持っていくつもりだ。








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