小説 | ナノ





古典派






目の前に差し出された一切れのアップルパイに、こんなに心躍る日が来ると思わなかった。

「まさか本当に作ってきてくれると思わなかった」
リクエストしておいてこの言い種は無いが、まさか本当にこのごつい・むさい・いかつい男がアップルパイを手作りして、更に其れを職場に持ってきてくれるとは露にも思わなかったのだ。
今のある種失礼な発言は聞こえていたのかいないのか、対する返事はなくレンブは別の事を口にする。
「時間が無くてな、流石にパイ生地は無理だった」
「パイ生地も作るの!?」
「母親は時間がある時に作っていた」
「え、なんで君がお母さんのレシピ覚えてるの?」
普通女の子が教えてもらうもんなんだろ?その家代々のレシピってものは。
「俺以外子供が居なかったし、何故か教えられたんだ。父も別に文句は言わなかったし」
どうやらこの男、無駄に家事能力が高いようだ。何度か見た事があったがまさか此処までとは……シキミ、見習え。可愛いバスケットからアシッドボムを取り出してる場合じゃないぞ?
「コーヒーでいいか?」
「あ…うん」
頷けばかちり、とインスタントコーヒーの瓶の蓋を捻る音。そうだ、コーヒー豆切らしてたんだ。買ってこないとな…今度は何にしようかな。
「砂糖は?」
「いらない、有り難う」
短い思考の間に差し出されたコーヒーはインスタントでも値段の分か、油の浮いた匂いは無かった。安いインスタントコーヒーをカトレアがリバースしかけた事もあってか段々嗜好品の単価が上がってきているのは致し方ないで済ませられる問題だろうか…否、今はそんな下らない事を考えるより目の前の大事に意識を傾けようじゃないか。

紙の皿に乗せられた其れはイッシュでは一般的な家庭サイズのアップルパイ、それにあれ程と言うくらい山盛りのホイップクリームと一掬いのアイスが添えられている。女性を連れて行くリストランテやカフェで出てこない、飾り気の無いパイはそれでも何故だか異様に食欲をそそる。正面の席にレンブが座るのを確認しつついただきます、と礼儀正しく挨拶してフォークを取った。

フォークの歯を横にしてパイに切りかかればパリ、と解れ砕ける音の後するり、と抵抗も無く進み落ちていいき少し抵抗を感じる土台に当たり、軽く力を入れた途端さくん、かつり、と切れフォークの歯が皿越しのテーブルに当たる微かな音が耳に入った。
すいっと一口分掻き取ったパイをフォークに乗せ口許に近づけると林檎の甘酸っぱい香りとバターと粉の入り混じった独特の濃厚な香りが鼻腔を掠めああ、此れは美味しいものだと無意識に確信し口に運んだ。次の瞬間口内にふわっと甘みが広がり、歯を立てた瞬間に丁寧に煮詰められただろうと想像がつく程柔らかな果肉が崩れ、その後から滲み出るのは嫌な感じの無い酸味、そしてそのまろやかな林檎と混じり合うぱりぱりと音が聞こえてるだろうパイの歯切れの良さ。飲み込んだ時自然と唇が言葉を紡いでいた。
「……美味しい」
ホイップクリームを掬い一緒に口に入れまた直ぐに一口…といった具合にフォークが止まらない。予想以上の味わいに唯唯驚きと感動しか湧き起こらないし、口からは正直且つ単純な褒め言葉しか生まれていかない。カトレア、君も目標は高く持つといい。何時までもヘドロウェーブを作成しているのも飽きただろう?
「今迄食べた中で一番美味しいよ、うん…うん」
普段ならコメンテーター宜しく饒舌に感想を述べたり薀蓄を語る男が、うんうん頷きながらもくもくと食べ進んでいる様に口に合ったんだろうなぁと、自分の前に置いてある一切れにフォークをいれ口に運ぶ。
うん、自分の味だ。未だ母の味にはならない、何が違うのか…色々違うんだろうが、記憶にある母の作ってくれた味には程遠いが目の前の男は喜んでくれているようだ、良かった。
「…良かった」
思っていた事を珍しく口に出すと、その言葉が存外に穏やかな音色だった為かギーマが目を見開いた。普段そんな口調で物を喋らない俺だがそんなに驚く事は言っていないつもりだ、だがギーマの視線に胸の内を悟られるのが気恥ずかしくなり話をそらした。
「お前の母親はどんなのを作っていたんだ?」
「…解らないな、母は料理をしない人だったし、父方との交流も殆んど無かったからどちらのレシピも私にはさっぱり解らない。」
「は?」
「お手伝いさんが料理をしてくれてたんだ、お菓子を作るのもお手伝いさんだから私の中の懐かしい味と言うのは彼女達の食べさせてくれた物の事なんだ。」
何人か入れ替わっていたが、皆良い人達だった。ああ、そうだった。
「あの人達のお菓子も美味しかった。でも、君が作ってくれたこれ程美味しかったとは記憶していないな。何が違うんだろ?」
「…」
「有名なパティシエのも幾つも食べてるんだけどな、可笑しいな。全然こっちの方が美味しいんだ…」
もぐもぐ口を動かしながらポーズではなく本気で疑問に想っているギーマに、自分が当たり前と思っている理由を告げる。
「それは俺がお前の為に作ったからだ」
「え?」
「美味しく食べてもらいたい、食べさせてあげたいと言う想いが入った食事は何倍も美味く感じるものだと母親が言っていた」
ギーマは信じないだろうが、愛情は料理に影響を与えるものだと言う。誰かの為に想いを込めて作られた食事は、高い商品や厳選された素材を使わなくても自分の腕前を超えた味を作り出させてくれる。貴方も大人になったら屹度解る様になるわ、レンブ。そう母さんは言いながら俺にお菓子や料理を教えていたがまさか、同僚の男の為に心を籠めるとは想像していなかっただろう。
何か言い返してくるかと思ったが、ギーマは少し考える様に視線を彷徨わせると肯定の言葉を漏らして静かに皿を見下ろした。

「……そうかもしれないね」
お手伝いさんもある程度の愛情は私に傾けてくれていただろう。だが、それはあくまで仕事の延長である感情だったろうし自分の家族へ向けるものとは違った筈だ。
ならば、何故母は料理を一度たりとも作ってくれなかったのだろう?料理が苦手だったのかもしれないし、家事と言う行為を知らなかったのかもしれない。それでもなにかしら私に愛情を注いでくれても良かった気がするんだが、哀しいかな。物心ついた頃の記憶から掘り起こしても母親の愛を感じた事は殆ど無かった、まぁそんな人間も世の中にはいるだろう。
そう自己完結した矢先、思考時間が長かったのかそれとも俯いていたのか悪かったのか。レンブが何やら気遣わしげに声を掛けてきた。その言葉に、私は己でも思いもしない言葉を口にしていた。

「気に入ったんだったらまた作ってくるし、作れるものでよければ食事でも菓子でも折々持ってくる。だから、その…あまり思い悩まなくても良いと思うぞ?」
「また、作ってくれるの?」
「ああ」
「私の為に…かい?」
「ああ、」
「……………」
「すまん、無神経な事を言ってしまった様だ。」

何をやってるんだ、と考えながらもこのやり取りで生じた己の感情の正体に、私は些か仰天し、静かに衝撃を受けた。

どうやら私は、古典的なやり方で落とされる男であった様だ。胃袋を掴まれて、喜ぶなんて。しかも相手は男だ、ごつい、厳つい、筋肉の塊、性格の相性はあんまり良くない等々挙げていけばいくらでも欠点は見つかる。
でも可笑しいかな、全然悔しくないし、寧ろ頭は先へ先へと手を打とうとしている。

「別に嫌な思い出を思い出した訳じゃないよ?」
「どうしたら君をお嫁さんに出来るか、酷く真剣に考えてたんだ」
どの感情か判断がつかないがじわじわ赤く滲んでいく彼の頬を顔を見ながら、もう一切れ食べようかどうかも考えつつ目の前のアップルパイをまた一口食べた。







詳しくは知りませんがアメリカとか西洋ってお母さんが男の子にお菓子の作り方教えるのってあんまりというか殆ど無いんじゃないかと妄想。何だかんだ言ってお母さんや娘さんがやってるイメージが強いですしお父さんやお母さんが製菓の仕事してなきゃ伝えなさそうだし。BBQとか肉を焼く行為は異常に燃えるらしいですよ、アメリカの男の人って。


13/11/10