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春をこう(アーティ←ハチク)






アロエから「ちょっとアーティを見に行ってやってくれないかい?こっちで行ってやりたいんだけど今ちょっと手が離せないんだよ」と電話が掛かってきたのはまだセッカの雪が深い二月の末頃だった。




春をこう




「また根詰めてんだよ」と呆れの溜息交じりの言葉に此方もまた何時もの事、と高を括っていたが、それでも私は一抹の不安、と言うものだろうか。それが脳裏を過ぎり食料や、薬、冷却シート、兎に角必要になりそうなものを買い込みヒウンシティのアーティのアトリエに向かった。アトリエと言ってもジムと兼用なのでヒウンジムに向かうんだが、其処で最早顔馴染みとなったトレーナー達と挨拶を交わす。すると彼等は焦りや強張りで硬くなった表情を崩し、安堵の溜息を零した。
「お久しぶりです、ハチクさん」
「久しぶり、どうだ?アーティの様子は?」
「ハチクさん、来てくれたんですね!良かったあ〜」
「ああ、よかった。アロエさんが来られないって言うから、冷や冷やしてたんですが、ハチクさんが来て下さったら大丈夫だ。」
「また、なのか?」
「また、と言うより今迄で一番、ですかね?」
「ありゃ初めて見たわ、ジム戦無理だから挑戦しに来るトレーナーさん達にも諦めてもらってるんですよね〜」
「またジムを放り出したのか…」
「またジムを、と言うより、人間としての生活すらも?ですかね?」
「其処までか!」
トレーナー達の話を掻い摘むと「根を詰めすぎているアーティ」つまりは「本職に夢中になってジム戦を投げ出したアーティ」はどうやら「創作活動に夢中になり過ぎてジム戦も人間の生活も投げ出してしまったアーティ」に進化してしまったらしい。確かに、それは私が見るのは初めてのパターンだ。若しかしたらアロエなら知っていたかもしれないが二つ返事でアーティの様子を見に行くのを承諾してしまったので何も詳細を聞いていなかった。まさか、本当に其処迄行くとは…アーティ、フウロとは違った意味で「ぶっ飛び」だな。
後は宜しくお願いします、とトレーナー達に託され、その後出迎えてくれたハハコモリとホイーガーに荷物を頼み、アトリエを覗き込む。すると其処には先程の不安とトレーナー達に聞いたとおりのアーティの現状が目に見える形になって現れていた。

彼のアトリエは相変わらず大荒れだった。根詰めて作業している時に私が訪れる所為もあるだろうが、絵の具は散乱し画板は雪崩れておりイーゼルは放り捨てられ、キャンバスは壁に立てかけられていた。すらりと長い手は血色が悪く、その青い腕を色取り取りの絵の具が肘迄こびりついて毒々しい迄に鮮やかに飾りたてていた。裸足で冷たいアトリエにしゃがみ込みながらもくもくと絵を描き続ける彼はついに絵筆を投げ捨てパレットに乗せてある絵の具を直に指に乗せ、キャンバスの上をなぞり始めた。此処迄熱中したアーティを初めて見た、何時もならもう少し、声を掛ける隙と言うか余裕のある空気がアトリエに漂っているが今このアトリエにはきんきんに冷えた大気の様に身を刺すほどの緊張感と音すら飲み込む静寂がたちこめている。声を掛けるのに戸惑い視線を室内に巡らせると―アトリエの隅にぐしゃぐしゃと丸め置かれた毛布が見えて…己の考えを改めた。
これは首根っこを掴んででも休ませなければ倒れる、寧ろぶっ倒れる。縦しんば自宅で倒れるんならまだいい、しかし此処は職場だ。職場で倒れたその後に降りかかる諸所の事は私やジムトレーナー、更にはアロエやアーティのポケモンも総動員しなければならない様な災難、基い面倒だ。その厄介が己だけに振る掛かるならいざ知らず周囲に振りまかれるのは被害の大きさが違う、最終的に全てのツケが回ってくるのはアーティであるんだけれど、其れをフォローするのは結局我々なので、少々大袈裟ではあるが意を決しアーティに声をかけようと口を開いた。
「アー」
「すみませんが、向こうの部屋でお待ちになって下さい。今とってもいい所なんです、たぶん―…もう、出来るんです、どれくらいだろう、大分出来たからそこまでかからないと思うんですけれど」
あまりに作業に没頭する為か私に気付いていない彼は、私を画廊の関係者だと思っているのだろう、丁寧だが何処か心の無い声と言葉で私を隣の応接室に促した。ハハコモリがお茶の用意をして待機していたが応接室に行く訳にはいかない。アーティは人の気配に敏感な性質ではないが、流石に背後に立たれたら気になって振り返るのではと思い立ち竦んでいたが背後に立たれ覗き込まれるのに慣れているのだろう、全く振り向く気配が無い。そうだ、絵を描いてるのを見られるのなんて慣れっこなんだろう。失念、彼の仕事も「観られる」仕事であるのだ。自分の過去の仕事もそうであった様に。
しかし行けと言われても行ける訳が無く、ある程度の距離を保ちながらアーティの背後に立ち竦んでいるとアーティはまた違う事を口にした。
「綺麗でしょ?何時も使う色使いじゃないんです、」
確かに、何時も彼が使用するキャンパスより一回りもふた回りも小さいそれは色の洪水と言わんばかりの鮮やかさで、冷たく薄暗いアトリエの中に咲いている。まるで花束の様に艶やかに咲いた色に私は素直な感嘆を零す。
「ああ、綺麗だ」
「あは、今日は正直に褒めてくれるんですね、何時もは小難しく色々注文つけてくるじゃないですか」
完全に勘違いしている、私はお前と顔馴染みの画商でも批評家でもない、些か親しくなりすぎてしまった同僚…と言うべきなのだろうか、それとももっと直接的な名称でお互いを呼ぶのが正しいのだろうか、未だに私は判断を躊躇い、口に出すのを憚っている。
「でもこれは売りません、個展にも出しません。あげる人がもういます」
「?」
「大事な大事な人に、ボクの見た春をあげたいんです。これは、ボクの中の春のイメージなんです」
この言葉に、ピンときてしまった。何時か彼との会話で雑談の一つとして零した一言が今回の事の顛末・遠因なのだ。「その人ね、寒がりやさんなんです。でも仕事のイメージを損なう訳にはいかないからって寒い格好で寒い部屋に毎日いるんですよ」
セッカはイッシュの中でも一際寒く、冬が長く春も夏も短い。自分で望んだ街とは言え正直寒いのが苦手な部類である自分は身に沁みる寒さに、ついつい春を希う気持ちを口に出してしまったのだ。それに対し彼はこう言った、

『じゃあ一緒に春を待ちましょう。ボク、今度春の欠片を持って来ます』

これが今回の騒動の原因だ、半分、否それ以上私の所為だろう。アーティの芸術に懸ける情熱と熱意と行動力をすっかり失念していたのだ、迂闊な事は言うもんじゃない。もう少し言葉に気をつけなければ。

「肌で耳で感じる春はまだ遠いけれど、目だけも春を分けてあげたくて」
春が頭から逃げちゃう前に描きあげたいんですボク。だから、もうちょっと待って下さい。ハハコモリー、お茶淹れてさしあげて〜。戸棚にお茶請け入ってたからそれもお願い〜
主人の言葉を受けながらも、ハハコモリはハチクを応接室へ促そうとはせず新しいお湯を沸かす為にその場を後にした。その足は心なしか嬉しそうだったが屹度、主人の無茶振りが残り僅かな時間で終わると言うのを理解しているのだろう。本当に賢いな、アーティのハハコモリは。
「…じゃあ、待たせてもらおうか」
「そうして下さい、んふ〜、屹度喜んでくれますよね?ボクの渾身の力作です。新境地です」
「…喜ぶに決まってるし、新境地には違いないだろうな、初めて見る」
「うふふ、素直に言われると背筋がむずむずするくらい嬉しいです!もうちょっとで完成です。ボクも凄い楽しみでー、ああ、あの人の顔が目に浮かびます!本当にもうちょっとですから、楽にして待って下さいね」
「ああ、待つ」
此処で待つ、そう告げたつもりの声は掠れていて聞こえたかどうか定かではないけれど、掠れた喉と胸の早鐘は淡くも愛おしい、むず痒い感情を連れている。もう口許に力を入れていないとニヤけ綻ぶ顔を引き締めていられない、限界が近い、だからアーティ。

早く気付かないかアーティ。このくすんだ世界に春を一人で望むより二人で待ちたいと願う私に、振り向かないかアーティ。今なら日頃望まれてもなかなか叶えてやれない抱擁がすんなり出来そうな程私はうかれているんだ。それとも、気付かないお前に感じたじれったさをやり過ごさず抱き締めてやろうか?


こんなにもうかれ、待ち遠しい待ち時間を持ったのは一体どれ程振りの事だろうか、ハチクは過去に思いを馳せながらも目の前の青年への愛おしさを滲ませ、募らせた儘細身の背中と溢れる春を唯見下ろしていた。







この二人はそれぞれ仕事中はもう仕事しか見えていなくて、大事な人を放っぽりぱなしなイメージです。お互いそれは心得てて踏み込まないし譲歩してて終わるのをじっと待ってそう。そして矢印にしてますが心なしかアーハチ風。