ゆきお

声を、出したような気がした。悪魔は首を傾げて、唇に指を当てる。
はて、今何を言ったろうか。

何のことなしに吐き出された言葉なら、気にも止めないだろう。しかし、悪魔は己の幼少時からほとんどの記憶がなかった。気が付けばかんかん照りの、まばゆい夏の真っ昼間に道路につったってぼんやりとしていた。それから、霞で生きていけるはずもなく(悪魔は体は人間のものだった)、目まぐるしくも食わねばならんと働きはじめ、気が付けば二年という月日が流れていたわけだが、そろそろそんな生活にも慣れた頃である。落ち着いてなんか思い出したかとフライパンを操る傍らでよだれをだらだら垂れ流す猫もどき(猫又、けっとしーという悪魔らしい)に貴重なタンパク原である鶏肉を与えた。(ちなみに今日の夕飯は特売の鶏肉を使ったカレーだ。)
「なあ、なんか俺しゃべんなかったか?」
(にく!うま、にく!)
意地汚くガツガツ貪る猫もどきの姿に、普段そんなに禄なもんを食わせてなかったかと、思わず反省してしまった。何せ、住所不定本名不明持っているものは鍵と刀のみ、という明らかな不審人物にできる仕事は少ない。思い出せばまともな飯は三日ぶりかと、深くため息を吐いた。
「ため息吐くなんざ、似合わねえからやめとけやめとけ」
「うっせえ糞ジジイ」
肩に乗った不気味で不細工な白い犬のぬいぐるみ(本人はわたあめのようでチャーミングと言い張っている)から掛けられた言葉に驚くでもなく、悪魔はフライパンで炒めた食材を鍋に移した。
このぬいぐるみ、おしゃべり機能がついた未来の犬型ロボット、というわけではなく、悪魔の一種で名をひろしという。ほとんど何もかも、名すら忘れてぼんやりした悪魔が心配で心配で危なっかしくて見ていられずにうっかり蘇っちゃったぜというからには記憶を失う前の悪魔と何かかかわり合いがあるらしい。
「そういや糞ジジイ、さっき俺なんか言ってなかったか?」
「おとーとの名前、呼んでたぜ」
そうか、おとーとの、とカレールーを溶かそうとお玉にひとかけら落として、弟、と気が付いた。
「俺って弟がいたのか」
いるんだ、と言い直しかけて、ひろし、昔は藤本と呼ばれていたのかもしれないぬいぐるみの中身は双子だけどな、とだけ答えた。

悪魔の記憶を隠した神隠しの鍵はふとした拍子で思い出すようなものではなく、また、愛の力という俗物で揺らぐような柔な作り、では決してない。だとしたら、誰かが何かを仕掛けたのだろう、いまさらな兄弟発覚に驚く悪魔、りんに対して。そして恐らく、というかほとんど確定的に、双子の兄弟である雪男が、りんの居所か記憶の隠し場所を探すために何かしたのだろう。無意識でも術を受けた当人が察知できるほどの、強力なものを。
「火を止めろ、逃げるぞ」
「ちょ、まだおっさん帰ってきてないって」
今夜の寝る場所もないという若いりんに、寝床を提供したのは仕事で一緒になった未公認で悪魔払いをしている壮年の男だった。金なし人でなしなりんは野宿は慣れてると固辞したが、男は悪魔堕ちした親友を探してるのだと苦く笑って引き止めたのだ。詳しくは聞いてないが、男自身も僅かにか悪魔の血筋、らしい。何やら訳有りの様子に、結局、夕飯をりんが作る代わりに一晩泊めるいうことで話は落ち着いた訳だが、その男は所用で家を空けており、今はいない。流石に鍵の開けっ放しはまずいと声を荒げるりんに、ひろしはちっと舌打ちをして家の外を伺った。数は六人。隠す気のない血気溢れる感じからして、燐の同級生だろう。か弱き悪魔三匹に対して入念なことに。

「もう来てる、ほら、鍵出せ、鍵」
「あーもー!」

おっちゃんごめん!と叫びながら、りんは首から下げた2つの鍵のうち、ひとつを取り出して、勝手口ドアノブに差し込んだ。



「奥村くんのカレー、えろう懐かしいですね」
「そういえばあいつが作ったの初めて食べたのってカレーだったかしら」
「・・・雪ちゃん、なんでタッパーだしてるの?」
「いや、そりゃブラコンやからnひでぶッ!」
「志摩、お前あほやな・・・」



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