わたしの一日の終わりを締めくくる仕事は、紅覇さまのお部屋の明かりを消すことだった。
そして今日も、わたしは紅覇さまのお部屋に入って、眠りかけのとろんとした紅覇さまの柔らかい顔を見るのを何よりも楽しみにしていた。
そして今日も、最後の仕事に取り掛かろうと紅覇さまのお部屋へ足を踏み入れた。

【第十七夜 溺れる呼吸とふたりぼっち】


「コーデリア」

そこにいた紅覇さまは、はたして寝台に体をうずめていたかというと、そうではなかった。
スラリと長い白い足を組み、寝台の淵に腰をかけて、わたしを、待ち構えていた。
熱を孕んだ湿った瞳がわたしを捉える。おそらくは機嫌が悪いのであろう。紅覇さまはその瞳でわたしを射抜く。上目遣いのその姿は、しまったと思う前に、もっと別の感情をわたしの中に咲かせた。

「紅覇さま、もうお休みの時間ですよ」

「えんにぃ、と…」

絞り出したかのような声は、夜にはあまり響かない。わたしは紅覇さまに一歩近づく。
俯き加減の顔が挙げられて、紅覇さまのその瞳に浮かんでいる真珠のようなきらきらしたそれが、わたしの視線を奪う。

「今日、炎兄と喋ったんだってね」

言葉に、詰まる。

やましい話をしていたわけではないけれど、約束を破ったのだってらあれでは仕方ないことだったけれど。そんな言い訳、わたしはしたくなかった。
紅覇さまの怒りはどこに向けられているのか、わたしにはわからなかった。


「申し訳ありません。言い訳は、するつもりは…ない、です」

「コーデリアっ………」


こもった感情は、紅覇さまの心からのものだっただろうか。わたしを睨みつけていると思っていたその瞳に浮かんでいたのは、涙。どうして、だなんて。わたしがあなたの心をすべて踏みにじって簡単にそんな言葉を吐けるような女だったら、よかったのに。

「コーデリアはなんでいつも約束をやぶるんだよぉ!」

「すみません紅覇さまっ…わたしは、」

あなただけの世界で、

「……紅覇さまとの約束を守れないようなわたしを、どうか」

2人分の息だけで回る場所にいたなら、破りは、しない。

「罰してください………」

床に膝をついた。紅覇さまが威光をみせるために組んでいた足は、いまはほどけていて、投げ出されていた片方の足を掬い上げる。
わたしの手より少しだけ体温の高いそこに、唇をおとす。

どうか、どうか。わたしを嫌いにならないでほしい。だけど、紅覇さまを傷つけてしまうわたしなんて、いないほうがいいのかもしれない…。

「コーデリア、コーデリア…」

優しい声はふんわりと夜に馴染んだ。わたしの名前を呼ぶ紅覇さまの声に怒りなんてひとかけらも感じられずに、さみしさも悲しさも。そこには慈しみの甘い声だけが含まれていた。

「もう誰とも目を合わせないで?僕だけをみて?そしたら、ねえ。僕だけのコーデリアになってくれたら、他のもの、いらないからさあ」

「紅覇さま?」

「こっちにおいで、コーデリア」

手招きをされ、座れと指さされた先は紅覇様の隣。そっと腰を下ろすと軋む寝台にどこか遠くの世界から自分を見下ろしているような不思議な感覚に陥った。
そしてそれは、まさに、不思議な出来事の連続で。

腰をおろしたわたしの肩を包むように伸ばされた紅覇様の両腕。ふわりと薫った女の子も羨むような紅覇さまのあまい匂いがわたしを包み込む。


「ずっと、こうして、いたいなぁ…」

きゅん、と切ない胸の痛みが、心地よい、だ、なんて。

「紅覇さま…」

それに答えるかのように今度はわたしが、紅覇様の背中に手を回した。とくとく、と違うリズムを刻む心音がピタリと重なり合った頃、紅覇さまはわたしから手を話して言葉を漏らす。

「炎兄が、コーデリアは、僕にふさわしくないって言ったんだ。なんでって、おもって聞いてみたらお前、炎兄と話したっていうじゃないか!おまえ、他に隠してることあるんじゃないのぉ?」

「紅覇さまにかくしごとなどしておりません」

「本当にぃ?」

じっとりとわたしを覗き込む紅覇さまの瞳にわたしが写り込む。この瞬間だけは、わたしが望んだたった二人だけの世界。他の誰もこの場所には、いなくって。心臓は2人でひとつ。呼吸はばらばら。この瞬間こそが世界にあふれる幸せをかき集めたような、幻みたいな優しい時間。

「もし、次におまえが嘘をついたらねぇ」

「ついたら?」

「その喉を食いちぎってやる。そしたら、声なんて出せないじゃん。誰とも話せないでしょお?」

「それは…あまりいい考えではありませんね。紅覇さまともお話できなくなってしまいます」

「うーん……舌、噛みちぎってみようかなぁ」

「それも同じですよ!」

おかしそうに喉の奥で笑う紅覇さまは、いつもと変わらない優しい笑顔を浮かべていた。
どこかおかしかったのは、その理由がわたしにあったのは、なんだかこそばゆいような、悪いようなそんな気がして。
紅覇さまが目元を緩めて笑って、そうして2人の心臓がふたつに戻った頃にはとろけるような視線でわたしの手を握って、「おやすみ」と、言葉を空気に触れさせる前にゆっくりとまぶたを閉じたのだった。