夏もそろそろ終わりに近づく。わたしが煌帝国へとやってきたあの頃よりも幾分か早く日の出を迎える。
白んできた空に、そっとおはようを告げるとまだ活気ずく前の城の中、ひとつ咳を漏らした。
ゆっくりと喉に響くそれを気に留めることもなくわたしは紅覇さまの前に出れるよう身だしなみを整え出すのだった。

【第十五夜 宵星の傍に眠るもの】



「紅覇さま、おはようございます」

「ん、おはよ」


まだ眠たげな瞳を揺らして、紅覇さまは大きく伸びをする。軋む音を立てる寝台からはまだ出る様子もなく、再び布団を抱え込んだ。

「紅覇さま、朝食の準備もできています」

「朝いらない〜」

「お体に悪いですよ」


言い終わってすぐに顔を背けて席をした。コホコホと喉を素通りしたみたいに響く嫌な音はそれまで布団の虜になっていた紅覇さまの気をそらせたようだ。

「コーデリア、どうしたの?」

「いえ、少し咳が」

「うーんどれどれぇ?」

ぎしり、軋む。
紅覇さまは側に立つわたしのおでこに自身の額を押し付けた。
わたしからしてみれば、朝からこんな至近距離に紅覇さまがいる方がよっぽど心臓に悪い。
かあっと、一気に体温が上昇する。

「熱、あるんじゃない?顔も赤いし。コーデリア、今日は休めよ」

「ですが紅覇さま!」

「命令だって言ってるだろ。お前はいつも二言目にはでもでもだって!だから可愛げがないんだよ」

頬でも叩こうとしたのか上げたてをわたしに叩きつける前に、そっとしたにおろした。どうやら今日は、本気で休めとおっしゃっているらしい。こくんと一つ頷くと、紅覇さまは満足げに目を細めて、さっきまで自分が横たわっていた寝台の上を指差した。

「ほら、早く休めよ」

「こ、紅覇さまのお部屋でですか?」

「それ以外にどこがあるっていうんだよぉ〜」

にこにこと紅覇さまはわたしの手を引いて強引に押し倒した。どくどくと、心臓がうるさいのは、それはきっと現実に起こらない事を勝手に想像してしまったから。
途端、自分がとてつもなく小さく寂しいもののように思えてぎゅっと目を瞑った。

「コーデリア、コーデリア、ゆっくり休んでねぇ。お前がいないと、つまらない」

「はい、わたしも。紅覇さまのお側にいられない時は、苦しいのです」

今、紅覇さまがどんな顔をしているか、知りたくはなかった。ギュッっと力を込めていた瞼をさらに強く伏せて、世界の光をわたしの中から追い出した。
今、紅覇さまは何を思っているのだろうか。わたしと同じ気持ちであったなら、それ以上に嬉しい事はないだろう。

「…無駄口叩かないで早く寝れよ!」

ぺちんと叩かれた額が、熱を浮かべてわたしの体を包み込んだ。




夏の残像にみた夢は、とても綺麗だった。みんな、笑っていた。
煌帝国の綺麗な草原の上で、みんな手を取り合って笑っていたのだ。辛い事も悲しい事も何も存在しない風に。

懐かしい人たちに笑顔がこぼれる。わたしが祖国にいた時に仲の良かった女官、何よりもわたしを可愛がってくれた姉様たち、そして、わたしのお父様。
そんな大好きな人たちに囲まれているわたしだけが、なぜか、泣きそうなほど顔を歪めて、きたならしく笑っていた。その顔は、まるで、まるで




「コーデリア、コーデリア!」

「こう、は……さま?」

「お前すっごいうなされてたよぉ?どんな夢見てたのさ」

寝台のふちに腰掛けた紅覇さまがわたしの顔を覗き込む。
美しい桃色の髪がわたしの顔をさらさらといたずらっぽく掠めては、楽しげな音を顔に残していく。

「たのしい夢だった気もしますけど。わたしは、泣きそうでした」

「ふぅん。まあ、いいや。それよりねえ、お前が寝てる間に医者に見てもらったよ。風邪、夏風邪。
どんだけバカなの?寝込むまで頑張るとかアホくさいじゃん」

「バカじゃないですよ。わたしは紅覇さまの側にいたかっただけで。
バカなんて……否定しないでください」


よせばいいものを、つい口をついて出てしまった本音にはっと息を飲む。紅覇さまに口答えするなんて、何と愚かな真似を!
恐る恐る伏せた目を紅覇さまに向けると、鳩が豆鉄砲を食らったようなおかしな顔でわたしを見つめていた。そしてすぐに、ぎらりと光る目つきに変わり、わたしを射抜いた。

「僕にものを言うなんて、偉くなったな」

「ごめんなさい。そんなつもりでは…」


くらりと頭が揺れる。怖い。ただ、怖かった。窓から差し込むオレンジ色にすべてが支配されてしまったように世界が停止する。

予期した紅覇さまの平手打ちは一向にやって来ずに、代わりにふんわり暖かな感覚がわたしの体を包み込んだ。
ゆっくりと目を開けると、紅覇さまはわたしの事をしっかりと抱きしめて、あろうことか、その右手をわたしの頭の上に載せてゆっくりと動かしていた。


「言いすぎたね。ごめんねぇ、」

笑うような滑らかな調子に乗せて、紅覇さまはわたしの頭を尚もなで続ける。
紅覇さまの胸にピッタリとくっつけられたわたしは、空気が運ぶよりも先に繋がった体でその声を感じ取る。


「紅覇さま、いけません。風邪が移ってしまいます」

「それでも、いいって言ったら?」

いつもより低く、紅覇さまの声が揺れる。
それでもいいって言ったら?なんて。そんなの、わたしがいやだ。
紅覇さまにどんなに痛めつけられようと、それこそ殺されようとわたしは悲しいことなんてないけれど、私のせいで紅覇さまが苦しむのは嫌だった。

けれど、背中に回された両腕がぎゅうっと力を込めてわたしを抱くその感覚に言葉は詰まってしまった。
嫌だとは考えながらも、この手が離れて欲しくないと願うのは、わたしが自分が思う以上に強欲であるから。


「なーんてね。コーデリアの風邪が移ったらまた地下牢にぶち込んでお仕置き、してあげるよぅ?」

「そんなあ!」

たった一瞬で解かれた紅覇さまの手は、それまで何もなかったかのようにわたしの体から離れて行った。
名残惜しさのカケラを噛み砕いて、いつものように笑う紅覇さまを見た。


綺麗なほどに歪められたいたずらっぽいその笑顔は、小さな子供のような無邪気な残酷さを併せ持つ。

ガラスアイの透き通った瞳と、かたちのいい唇にのせた言葉とは裏腹に、おかしいくらいに真っ赤に染まった頬の色は、沈みゆく夕陽の色のせいではないと。
今だけは淡い勘違いをしていても、許されるのでしょうか?