その夜は、とても嫌な気分であった。
むしむしと湿り気の多い暑い空気も、ギシギシときしむ古いベッドも、脱ぎ捨てた寝巻きも、いつもと何ら代わりはしないのに、宵の月が西向きに位置した窓からひょっこりと顔を出しそうな気配が近づく夜のこと。


あまりにも心を駆る胸の苦しみに耐えきれなかった。きゅん、と締まる胸。呼吸が浅くなるような感覚は今までに経験したことがない、と言えば嘘になる。
ただ無償に紅覇様に会いたいと願った。

ざわりと、心が、ゆれる。


【第十一夜 花葬された蝶】



ひたひたと廊下を歩く。薄い寝巻きをみにまとい、夜闇に黒く沈んだ宮廷内を歩くのは、何かいけないことをしているような気がしてあまりいい気分ではなかった。

階段を上がり、紅覇様の部屋が見え始めた時、女の嬌声が細く廊下に響いていた。ざわりと心がゆれる。紅覇様のお部屋から?まさか!

ばくばくと心臓の音が大きくなる。まるで耳元まで心臓が移動してきたみたいだとバカみたいに考えていた。

そっとお部屋に近づいてみると、予想もしていなかったことに顔をしかめ如意練刀を片手に持った紅覇様がちょうどその扉の向こうから出てきた。

「んぅ、あれ?コーデリアじゃん」

「紅覇様、あの、あ…」

ギラリと鈍く輝いた刀に言葉が詰まる。私の肉を切り裂いたその刀、あの痛みを忘れたわけではない。

「ああ、ちょっと向かいの部屋の奴がうるさいから釘をさしておこうと思ってねぇ。だけどやめとくよ。
それよりお前、なんでここにいる」

眠たげに細められた紅覇様の目。その表情は夜闇のせいか笑っているのか、起こっているのか判別がつかなかった。
紅覇様は如意練刀を背中に背負い直し、おいでとわたしを部屋の中に誘った。湿っぽさが纏わり付いてじっとりと背中に嫌な汗が滲んだことは気がつかないふり。


「お前さぁ、こんな夜中になんのようなわけ。僕眠いんだけど」

「あの、少し紅覇様の様子が…気になったので、その……。すみません」

「チッ…まあいいけど。次僕の睡眠妨げるようなことがあったら承知しないからね」


雲の切れ間から少しだけ月が覗いた。暗がりの部屋にほんのりと差し込んだ優しい月光が、寝起きで機嫌の悪い紅覇様の歪んだ顔を美しく照らし出す。薄桃色の柔らかな髪は月の作り出す銀色と混ざり合ってキラキラと輝いた。


「おい、返事!」

「は、はい!」


それがさらに紅覇様の癇に障ったらしく再び舌打ちをしてわたしの顔面に回し蹴り。頬に直撃したそれのせいでバランスを崩し、机の角であたまを打ち付けた。

「ぅう…っ」

「……つまらないよコーデリア。僕が寝るまでそばにいろ。わかった?」

「はい」

今度はタイミングを逃がさずに返事を返す。満足そうに頷いた紅覇様は寝台に入り、わたしは頭を抑えながら寝台の脇に腰掛けた。


「コーデリア、面白い話してくれるう?」

「面白い話、ですか?……えっと…魔物と小国の娘の話とか…どうでしょうか?」


「…おもしろくないよ、それ」


そう言った瞬間、顔を背けながらばちんと頭をはたかれたのは、きっと紅覇様なりの感情表現だったのだろう。