この場所に自由なんて存在しなかったことくらい、わかっていたはずだった。




【第八夜 赤い花が心臓に咲くとき】




「紅覇様、おかえりなさい」


「ただいまコーデリア。ちゃんと僕の言いつけ、守れてた?」




紅覇様が遠征に出かけてからちょうど二週間。その日の昼間にひょっこり帰ってきた紅覇様は出迎えた私の頭を優しく撫でながら、自室へと足を向けた。




「………ええ、もちろん」




にっこりと笑った紅覇様は次の瞬間、私の頭においた手を信じられない力で地面に叩きつけた。


床と接吻を交わすことになった私の顔。鼻の先が折れそうなほどに痛く、ツーンと奥から生暖かな液体が漏れ出すのがわかった。



「よくも僕に嘘つけたな、お前」



ひどく冷たい声。



「……すみませんでした」


「僕がなんて言ったか覚えてるよねぇ?僕以外と喋るなって。それともわざとお仕置きして欲しかったわけ?」



がんっともう一度頭に衝撃が走る。

紅覇様の足が後頭部に乗りグリグリと床に擦られる額。


こうなることくらい、予想できていたはずなのに、なぜ私はあの娘と話してしまったのか。




「違います、紅覇様…!おゆるしください…」


「本当にゆるして欲しいとおもってるんなら、お前の口を自分で引き裂いてみてよ」


「………」



余りにも残酷な選択だった。
足から解放された頭を持ち上げられ、紅覇様と視線が交わる。


恐ろしいほどに整った美しい顔がひどく歪められ、悪魔的な魅力を孕んだ笑みでわたしを痛みつける。



「できないんだね。それじゃあもっと躾なくちゃ」



わたしの首に両手を回し、そのまま無理やりに立たせて、締め上げる。
華奢な体のどこにそんな力があったのか、わたしの体を持ち上げた。
だんだんと苦しくなる息と共に、だらしなく口の端からよだれがこぼれた。



「…殺すのは、もったいないや。コーデリア、お前は本当にいい顔で苦しむから大好きだよ」


流れる鼻血とよだれが混ざって紅覇様の腕に伝う。
それをみて舌打ちをした紅覇様は両手をパッと離し、今度は髪の毛を鷲掴む。


「汚いなぁ。せっかくお風呂に入ったばかりなのに」



そのままひきづられるように部屋をあとにしたわたしが向かったのは石でできた冷たく暗い小さな地下牢だった。





「ねえコーデリア、僕は他のおもちゃなんてつまらないとおもってるんだよぅ?コーデリアみたいに美しくも可愛いくもないし、第一反応が薄いもん。
僕のそばから離れていかないでよ?じゃないと本当に殺してしまいそうだから」



小さな少年のように無垢な言葉でわたしの心に迫る。

紅覇様の言わんとすることは、小さな子供の独占欲の塊の呪文と全く同等だ。



紅覇様はわたしとともに地下牢に入り、わたしを壁際にそっと座らせた。


目線を合わせるようにしゃがみこんだ紅覇様。そのままわたしの左胸へ手を押し当てた。
ふにゃりと誰も触れたことがなかったその場所を侵し、紅覇様はなんの感慨もなさそうに眺め言葉を流す。



「この手を奥に突っ込んだとしたら、お前は死んじゃうんだよ?心臓ってね、人間を生かすたったひとつの装置なのに意外と脆いんだ」



「紅覇様は、わたしを殺したいのですか?」



「今はまだ、殺したくはないなぁ」



「では、いつか紅覇様はわたしを殺すのですね」



「………。ねえ、人間の心がどこにあるか知ってる?大昔の偉い人は人間のすべては脳みそに詰まってるとおもって徳のある人間が死んだら争って食べたんだよ。
でも僕は心がどこにあるかなんてわからないから、お前を殺してしまったら……お前が死んだら、全部食べてあげるよ。脳みそも、心臓も血液だってひとつ残らず僕のものになるんだ。いいでしょ?」



「名案ですね」



紅覇様は、優しい笑顔だった。
もしかすると紅覇様はさみしい人なのかもしれない。普段はあんなにも優しく笑えるのに、ふとしたとき、心の奥に眠る本心が顔を出す。



そんな紅覇様のことが心から愛しく思えた。

他人より優位にたてたような、紅覇様がそうしているようにわたしの中にも他者を見下すような感情からくる情愛。

弱く自分を頼ってくる存在を突き放すことはできないのだ。


それが、人間。




「でもね、許すとは、まだ言ってないよぅ?」


紅覇様に手を伸ばしかけたわたしの手は途中で重力にならって地面に落ちる。

太ももに深々と刺さった紅覇様がいつも背負っている如意練刀。少し遅れて燃えるように傷口が悲鳴を上げる。

どくどくとこぼれる赤の血液をみて絶句するわたしを横目に紅覇様は流れるそれを絡め取り口へと運んだ。




「今日はこのままここにいるんだよ?明日、死んでたら許さないんだから」


「あっ……あぁ…」


言葉が出ない。痛みに食いしばった歯と自分の血をみて遠のく意識。がちゃりと扉が閉まる音がして、わたしの世界は闇に侵食された。



***




「あら、目が覚めたのねぇ付き人さん」



「あなた、は…」



薄暗い地下牢は夢の中に消えたかのように思えた。

部屋の窓からは優しいオレンジの夕日が差し込み、あれから数時間しか立っていないことをわたしに知らせてくれた。



「紅覇お兄さまが地下牢から上がってくるのを見てまさかとおもったら…。手当はしてるわ。大丈夫かしらぁ?」



「えっと…ありがとうございました」



「いいのよ、お礼は。夏黄文!お水を持ってきて」



優しく笑った娘はわたしに慈愛の瞳を向ける。彼女がいなかったらわたしは今頃血がすべて流れ出て明日には紅覇様の一部になっていたのかもしれない。



「あの、あなた様に助けていただいて、わたしは生きながらえましたがどうか紅覇様にこのことはご内密に…!」



「あなた様なんて言わないでよぅ。紅玉ってよんで。お兄さまにはちゃんと話をつけるつもりだから、あなたの願いは受け入れられないわぁ」



「そんな!」



「まあ、安心してよ。ほら、お水を飲んで安静にしてて」



ぽんぽんと背中を撫でられる。紅覇様とどこか似通っているこの娘は紅覇様の血縁者だろう。

彼女が口にした話をつけるという、それだけが心に引っかかった。



そんなことをしたら、今度こそ殺されてしまう。



「そんな顔しないでよぅ。大丈夫だから!」



紅玉様はそう胸をはって宣言したのだが、わたしの心は一向にざわついたままだった。