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 安泰だと、思ったんだけど。
 ずっと友達だった諏訪と付き合うことになって一か月が経とうとしているが、私たちの関係は相変わらずだ。それはもう、十分すぎるくらいに。相変わらず食堂でだらだらして、一緒に授業を受けて、たまに飲みに行って。会う頻度も変わらない。キスなんてあの日以来一度もしていないし、手だって繋いでいない。
 今まで通り諏訪と遊んでいたくて今の関係になって、その"今まで通り"は私が求めたものであるはずなのに、何故か胸のあたりがずっともやもやしている。ついさっきまで店で飲んでいた時は楽しかったのに、こうしてふたりきりになるとなんだか物足りないような、寂しいような気持ちになってしまう。
 すぐ隣にいるのに、何故触れてこないのだろう。何故、何もしてこないのだろう。私はどうして、こんなに求めてしまうのだろう。
 ポケットから出てきそうにない手にむっとして肘のあたりを掴むと、諏訪がぴくりと反応した。
「……手」
 短く呟くと、しっかり暖められた手がぎこちなく現れて、私の手を包む。この前みたいな、親子のような繋ぎ方。前はとても安心できたのに今日はなんだか物足りなくて、一度解いてから指を絡めた。"私はこっちの方がいいです"と、ぎゅっと握って主張する。伝わっているかはわからない。伝わっていてほしい。
 どきどきして恥ずかしくて、ひとりで盛り上がってしまっている。きっと諏訪は気付いていないし、何も思っていない。本当に、どうしてしまったのだろう。
 いつもと同じような会話、だけど繋いでいる手は"いつもの"じゃない。それだけで胸が爆発してしまいそうだった。

「……着いたけど」
 家に入ろうとしない私に、諏訪が言った。私の家、もっと遠くてもいいのにな。こんなこと初めて思ったよ。
「帰る?」
「……まあ」
 何が「まあ」なの。こんなにドキドキしているのも、緊張しているのも、もっと一緒にいたいと思っているのも、私だけなのだと思うと急に悲しくなってきた。また面倒くさい酔っ払いになってしまう。
 早くこの手を放して「ありがとう、またね」と諏訪を家に帰すべきだと、わかっているけどできない。でも、私たち付き合ってるんだよね? これぐらい言っても良くない? だめ? ああもう、わからない。
「……やだ」
「あ?」
 よく聞こえなかったのか、耳を私の口元へ近づける。
「っ、帰んないで」
 まだ一緒にいたい。キスもしたい。その先のことだってしてもいい。なんでこんなに泣きそうになってるんだろ。情緒不安定すぎる。諏訪が驚いた顔でこちらを向き、至近距離で目が合う。何も考えないまま唇を押し付けていた。久しぶりの感触に胸が押しつぶされそうになる。私はずっとこうしたかった。
 私、諏訪のことが好きなのかもしれない。何でとか、どこがとかわからないけれど、諏訪も同じ気持ちだったらいいのにって思ってる。
 ゆっくり離れると、諏訪はがしがしと頭をかき、大きく息をした。まずい、面倒くさい奴だと思われたかも。冗談だというべきだろうか。でも帰ってほしくないのは本心だ。内心焦っていると、諏訪が口を開いた。
「……わかった」
 言うや否やおら行くぞ、と呆けている私の手を引っ張る。
「え、いいの?」
「はあ? 良いから言ってんだろうが」
 急かされるままオートロックの鍵を開ける。どうしよう。すごく嬉しい。急にこんなの、おかしいかな。でも思っちゃったんだからしょうがないじゃん。
 開錠した音を聞いて、諏訪がドアを開けてくれる。うちエレベーターないんだよね、と緊張をごまかしながら階段を上る。三階なんてもう慣れたはずなのに、いつもより長い。後ろにいる諏訪の足音が緊張を増幅させる。とりあえず、掃除しておいてよかった。万が一の備えは役に立つものだと、過去の自分を褒めた。

「どうぞ」
「……お邪魔します」
 私が家に上がっても玄関で突っ立ったままの諏訪に声をかけると、のそのそと靴を脱ぎ始める。なんとなく、今しかない気がした。
「諏訪」
「なんだよ」
「私、諏訪が好き、かも……しれない」
 部屋に一歩踏み出した足が止まる。
「……お前なあ」
 諏訪の眉間に大きなシワが入った。
「今それ言うか……」
「えっ、ごめん」
 今言うことではなかったらしい。でも今じゃなかったらいつ言えばいいのか、というか酒に酔っている今しかこんな恥ずかしいこと言えないよ。
「つーかかもってなんだよ」
 かもって……? 好きかも、の「かも」のことだろうか。
「わかんない、だって、諏訪だし……」
「あぁ?」
「……ずっと友達だったし、自分でもよくわからないというか……びっくりしてて」
 好きだという自覚はあるけれど、ついさっき気が付いたばかりで、しかも相手が諏訪だけにとにかくくすぐったいというか、変な感じがする。
「キス、とか……そういうのは、どきどきするし……したいって思う」
 恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。けれど言わなきゃ諏訪には伝わらない気がして。鞄を持つ手に、ぎゅっと力を込める。諏訪の顔を見ることができない。沈黙が続く。どうしよう、やっぱり言わない方がよかったのかな。
 気まずい空気をどうすることもできなくて、床を眺める。
「……男家に上げて、んなこと言われて手出すなって方が無理だぞ」
「え、出さないの?」
「お前なあ……」
 溜息交じりの声が聞こえて、どかどかという音と共に諏訪の足が視界に入ってきた。目の前が諏訪でいっぱいになって、この前上着を借りた時みたいな匂いに包まれる。あの時よりも近くて、濃い。密着した体は思っていたより硬くて、やっぱり男の人なんだと認識する。どきどきしてうまく声が出せない。あれ、でも諏訪の言い方だと私に手出す気は無くて、けれど今抱きしめられていて……? 状況が飲み込めない。
「え、待ってどういうこと」
「はあ? わかんだろ」
「手、出すの……?」
「出す。つーかマジで気付いてねえのかよ」
 腕の力が緩み、くっついていたところが離れたと思ったら唇を塞がれた。乱暴だけど優しくて、私を求めていると錯覚してしまうようなキス。ちゃんと答えたくて、精いっぱい舌を伸ばす。
 唇が離れて、ぼうっと見つめ合う。諏訪がふいっと私から目を逸らしたと思ったら、胸に顔を押し付けられた。
「……こっちはとっくに好きだっつんだよ」
 突然放たれた言葉に、心臓が止まりそうになった。
「ほ、ほんとに……?」
「本当」
「い、いつから」
「言うわけねえだろ」
「なんで!」
「なんでもクソもねー」
 とにかく、引き返すなら今だぞ。私を解放して言った。引き返す? 友達に戻るってこと? そんなの、できるわけがない。
「……ばか」
 聞こえるかどうかの声で言った言葉に「はあ?」と反応が返ってきたけれど、そんなの無視して首に手を伸ばす。私の選択肢はひとつだ。



20210506