90分考え続けて出た答えが「私である必要はなかった」である。 「みょうじ」 どんよりしながら真っ白なままのルーズリーフを片付けていると名前を呼ばれた。 「この後予定はあるか」 「2時間目受けたら帰るけど……」 「終わったら連絡してくれ」 二宮くんは用件だけ伝えると返事を聞かないまますぐに立ち去ってしまった。私が連絡することは拒否できないらしい。 どうしたものかと考えていると、いつのまにか次の講義が始まっていた。1時間目と同じ教室で助かった。……この後二宮くんに連絡して、その後はどうするのだろう。昨日の話をするということだろうか。二宮くんが昨日のことを覚えているかどうかもわからない。「何故お前が俺の家で寝ていたんだ」なんて言われたらどうすればいいのか。昨日の答え合わせがしたい、でも本当のことを知るのが怖い。 中途半端なことをしてしまったからこんなに気まずく感じてしまうのだ。いっそ最後までしてくれたら責めることができたのに。自分勝手な考えを巡らせながら2時間目が終了した。講義の内容は全く覚えていない。 教室を出てスマホを取り出す。連絡……したくないなあ。立ち止まってスマホに映し出された「二宮匡貴」という文字を眺めていると、急に着信画面に切り替わった。相手は今まさに電話しようとしていた彼。少し待ったが切れる気配が無いので観念して画面をタップした。 「……もしもし」 「終わったか」 「うん」 「今どこだ」 「えっと、C棟出たとこ」 「今から行く」 また私の返事を聞く前に通話が切れた。ここで待っていろということだろう。さっきから一方的すぎないだろうか。……私が勝手に振り回されているだけだし、嫌なら無視して帰れば良いだけの話だということはわかっている。これが惚れた弱みというものなのだろう、私に待つ以外の選択肢は無かった。 「みょうじ」 二宮くんは近くにいたのか、すぐに現れた。私が気付いたことを確認すると「行くぞ」とだけ言って歩き出す。 「どこに?」 「帰るんじゃないのか」 「あ、うん」 二宮くんと一緒に帰る、ということで良いのだろうか。先程まで脳内を占めていたマイナス思考が振り切れず、いつものように隣を歩くことができない。彼の少し後ろで、自分よりも高い位置にある後頭部を見つめる。彼は今何を考えているのだろう。顔を覗き込んだところで、きっと彼の心はわからない。下を向くと二宮くんの綺麗な手がゆらゆらと揺れている。掴んだら握り返してくれるだろうか。それとも振りほどかれるだろうか。 学校から離れても無言のまま、気まずさを感じながら歩く。一緒に帰ると言ったのは二宮くんなのに(正確には言ってはいないが)何も言ってこないのはどういうことか。こちらから何か話を切り出そうと考えていると二宮くんが急に立ち止まり、振り返った。恐る恐る顔を上げる。やっぱりいつものポーカーフェイスだ。 「昨日のことだが」 「……」 「……悪かった」 え、と思わず声が漏れる。二宮くんはすぐに目線を逸らした。 「覚えてるの?」 「……途切れ途切れだが、大体は」 「……そっか」 「大体」がどこからどこまでなのかはわからないが、キスしたことや私に触れたことも覚えているということだろう。一瞬で体温が上がった。顔から火が出そうだ。 「一応聞くが……したのか」 「してない」 「……そうか」 もう一度「悪かった」という二宮くん。そして、沈黙。 ……それだけ?と思わず口に出してしまいそうになるが耐える。「悪かった」の一言で昨日のことを終わりにするつもりなのだろうか。「お互い水に流そう」と、そういうことなのだろうか。二宮くんにとっては昨日のことなんて些細なことなのか。無言を貫く二宮くんに怒りのような悲しみのようなもやもやした感情が溢れてくる。二宮くんにとっては些細なことでも、私にとっては一大事で、大切なことなのだ。 「それは何に対して?」 「……」 「なんで、あんなことしたの」 「……わからないのか」 「わからないから聞いてるの」 「お前は、誰とでもああいう事をするのか」 「っ、するわけないでしょ」 質問を質問で返されて話がうまく進まない。二宮くんは一体何が言いたいのか。私が誰とでも寝る女だとでも言いたいのだろうか。二宮くんは変わらず私から目を逸らしている。 「私は……二宮くんだから良いと思った。けど二宮くんはどうかわからない」 「……何故そう思う」 二宮くんが余程鈍感でなければ、これでもう私の気持ちは彼に伝わっただろう。にも関わらずこの返答、質問を質問で返してくる。私の気持ちを知って、どうしてそんなこと聞くのだろう。もし彼が私と同じ気持ちなら「俺も同じだ」と言えばそれで終わるはずだ。あえてこんな話し方をしているのだろうか。 「二宮くんは好きな相手じゃなくてもそういうこと出来る人かもしれない」 「……」 否定の言葉は無い。「そんなことない」とか「俺は違う」とか言ってくれるところではないのか。じわじわと目の奥が痛み出す。やっぱりただの酔った勢いだったのだ。私じゃなくても、良かったのだ。昨日のことは特に大したことでもなく、私に気があるわけでもなく、どうでもいいことだったのだ。少しでも期待してしまった自分が恥ずかしい。 答えが出てしまった以上会話を続けても苦しいだけだと思い、無理やり澄ました顔を作って彼に向ける。視線は合わないし、彼の表情は一つも崩れていない。 「ごめん、もういいや。昨日のことはお互い忘れよう」 「みょうじ」 「もうあんなことしないで」 二宮くんの横をすり抜けて早歩きで自宅へと向かう。堪えているはずなのに目の前がどんどん滲んでいく。 たった今忘れようと言ったばかりなのに、すぐに思い出そうとしてしまう。残念ながら私はしばらく忘れられそうにない。 20190920 |