月がなくとも桜はわらう


朝日奈葵は馬鹿だ、と腐川冬子は思う。
突拍子もない事を平気でやらかす彼女が、今度は腐川に言葉遊びについて訊ねてきたのだ。
しかもそれが色恋に関するものだというのだから驚きだ。

「なんかロマンチックなのない?こう、キュンッ!ってくるようなやつ!!」
「な、なんでそんなのあたしに訊くのよ…!?あ、あたしのこと馬鹿にしてるんでしょ…!!愛なんて似合わない、ブスで根暗で不潔な女だって…ッ!!」
「違うよー。腐川ちゃんって恋愛小説家だし、いっぱい本読んでるからなんかいいの知ってるかなーって」

ギリギリと唇を噛み締める腐川の後ろ向きさに呆れる事もなく朝日奈は平然と話を進める。
やはりクラスメート。腐川のネガティブにも慣れたものだ。

「そ、そうなの……、じゃあ…あの……月が綺麗ですね……とか……
「あはは、腐川ちゃんってばどうかしたの?まだお昼だから月なんか出てる訳ないじゃん!」
「ど、どうかしてるのはあんたの頭でしょ…!漱石も知らないなんて……筋肉馬鹿は、こ、これだから嫌なのよ…ッ!!」
「あ、ちょ、ごめん!ごめんってば!行かないでよーッ!!私だけじゃ思い付かないんだもんッ!!」

泣いて縋り付く朝日奈をさすがに不憫と思ったのか、腐川は深く溜め息を吐いてその場に留まった。
喜色を浮かべる朝日奈から顔を背け、ぼそぼそと言葉を紡ぐ。

「いい…?月が綺麗ですねっていうのは、夏目漱石の言葉で……愛していますって意味よ…」
「あ、あいし……そっかー…ただの月見団子の話じゃないんだね」
「ば、馬鹿じゃない……誰も月見団子の話なんてしてないでしょ…ッ!」
「月が綺麗ですね、かー……うんっ、ありがと、腐川ちゃん!使ってみるよ!!」

光明が見えたのか勢いよく駆け出す朝日奈。
翻るスカートから惜しげもなく晒される足を若干憎々しげに眺め、腐川は朝日奈が駆け出したのとは反対の方向へ足を進めて行った。
忌々しいと言わんばかりの表情のなか、僅かに寂しさが窺えたように思えたのは、きっと気のせいなのだろう。



夜八時を回った頃、腐川は部屋の隅で震えていた。
何者かが突然ドンドンと激しく部屋の扉を叩き始めたからだ。

「…だ…誰…ッ!?」
「あーけーてー!私だよーっ!」
「わ、私じゃなくて、名前を言いなさいよ…ッ!!」
「うわーん!腐川ちゃんの薄情者!!朝日奈葵だよー!!」

どうやら犯人は朝日奈だったらしい。
名乗りを聞いてようやく息を吐いた腐川は、しかし恐る恐ると言った体で部屋の鍵を開ける。
その瞬間になだれ込むように部屋に入って来た朝日奈は勢いのままに腐川に抱きついた。
身構えてもいなかった腐川がその衝撃に耐え切れるはずもなく、二人して玄関に倒れ込む形になってしまったのだが、それを気にする朝日奈ではない。

「聞いてよ!!さくらちゃんに言ってみたんだけど、まだ昼間だから月は出ていないぞって言われちゃってさー!!」
「ば、馬鹿ね……時間を考えないからでしょ……まあ、あんたもあたしに同じような事言ったけど……」
「その後は月見ドーナツの話で盛り上がっちゃうし!!本当飛んだり跳ねたりだよ!!」
「……踏んだり蹴ったり…でしょ…」
「あ、それそれ!」

泣いたと思ったら怒り、怒ったと思ったら笑う。
ころころと表情が変わる朝日奈はまるで無邪気な子供のようだ。
実際子供のように無邪気なのだ、彼女は。腐川が忌々しく思うほどに。

「ねーねー腐川ちゃーん。ドーナツないー?」
「あっ、あるわけ……ある…けど……お、大神の部屋に行けば、もっと美味しいのが…」
「ドーナツに優劣なんてないんだよ!!どのドーナツにもそれぞれ良さがあるんだからッ!!」

ドーナツに謝って、とでも言い出しかねない剣幕に腐川は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
押し倒された状態で、いっそこのままキスでもできそうな距離まで顔を近付けられる。
もともと他人との接触が得意ではない腐川にとっては生き地獄のような状況だ。

「わ、わかったから…!ドーナツ出してあげるから、さっさと退きなさいよ…ッ!!」
「さっすが腐川ちゃん!じゃあベランダ行こ、ベランダ!」
「は…?どうしてわざわざベランダ出なきゃなんないのよ……あたしはあんたみたいに筋肉馬鹿じゃないんだから風邪引いちゃうじゃない」
「もー!そんな事ばっか言って部屋に篭ってるから具合悪くなっちゃうんだよ!今日は二人でお月見するのー!!」
「っ…み、耳元で大声出すんじゃないわよ…ッ!!」

渋々ベランダでの月見を了承するとようやく朝日奈が上から退いた。
先に待っているという朝日奈の為に、執筆作業中に食べようと用意しておいたドーナツとココアを持ってベランダに出る。

「わーい!ドーナツドーナツー!!」

腐川がバランスを崩す前にと早々に取り上げた朝日奈は満面の笑みでドーナツを頬張る。
夕飯の後にもデザートと言って大量のドーナツを食べていた彼女は、一体どれほどのドーナツを摂取すれば気が収まるのだろうか。
若干引き気味に見つめる腐川の視線に気付いたのか、朝日奈は「もふ?」とドーナツをくわえたまま首を傾げた。

「腐川ちゃんどうしたの?せっかくのドーナツなのに食べないの?」
「う、うるさいわね…今食べるわよ…」
「美味しい?美味しいよね?美味しいでしょ?月見ドーナツっていうのもなかなか風情があっていいよね」
「……月…綺麗ね……」
「そうだね。ドーナツみたいだし!」
「……………あんたと大神…お似合いだわ…」

馬鹿っぷる、と呟いて、腐川は最後の一口を飲み込んだ。



死なば諸共とは言いますが、花が散るには幾分早過ぎるように思われますれば、狂い咲きの野花はひとり先にゆきましょう。
実を結ばぬ花の馨しさに惑わされども、冷えた月の光ですっかり酔いがさめてしまいましたので。



(アイ、ラブ、ユーは響かない)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -