シーソーゲームを始めましょう


重なった木の葉の隙間から漏れる光が中庭のベンチを占領する彼らを僅かに照らす。
さあさあという音に紛れて聞こえるのは苦しげな呼吸。
何度も繰り返される江ノ島からのキスに、苗木はすっかり参っていた。

「っはあ……江ノ島クン、どうしたの?さすがにちょっとしつこ……んっ」

酸素を与えて、奪う。
窒息寸前の表情がまるで前戯と変わらない妙な色香に満ちていて、江ノ島としては矢も盾もたまらない。
それでも欲をグッと堪え、唇を離した。
伝う銀糸が劣情を煽るが、逆上せるには些か時間が足りない。

「んー、食べ足りないけどゴチソーサマ」
「……江ノ島クン、しつこかった」
「え、そう?あんなんでしつこいとか言っちゃってたら、ハードモードでキスできないじゃーん!だから練習も兼ねて今のうちにいっぱいキスしとかないと。……次いつ会えるかわかんないし」

ぼそりと呟かれた言葉を拾った苗木が聞き返すより早く、江ノ島はタイミング悪く鳴ったチャイムを口実にその場を立ち去ってしまった。

「わからないって……どういうこと……?」

答えを持ち逃げした江ノ島を思って、苗木はできずにベンチに寝転がった。
先程まで木の葉を揺らしていた風はそよとも吹かず、苗木は静寂に身を委ねるように目を閉じる。
ワケが分からないの江ノ島の人間性だ。
いやよいやよも好きのうち、と多大な強引さで苗木を振り回すような人間なのだ、苗木の理解が及ばない行動にいちいち驚いていたら切りがない。
きっといつもの狂言だ。
変な冗談ばっかり言うなって明日叱ってやらないと。
そう判断した苗木は、既に鳴ってしまったチャイムは聞こえなかったふりをして、ゆっくり意識を手放した。


翌日、江ノ島は学校に来なかった。
一時間目、二時間目、三時間目……ついに放課後。
担任に欠席の連絡はなく、戦刃に訊ねても申し訳なさそうに「昨日から見てない」と答えるだけだった。
けれどやはり江ノ島だ、無断欠席にしても大して珍しいことには思えない。
絶望探しの旅にでも出ているんだろう、と内心茶化してみたものの苗木の心はどこか晴れなかった。


苗木は今朝、自室のカレンダーを一枚破いた。
江ノ島の姿を見なくなってから、これで二枚を破いたことになる。

「どこ行ったんだよ……ばか……」

ぐしゃぐしゃに丸めた七月をゴミ箱に捨て、八月を迎える。
とうとう江ノ島が帰ってこないままに夏休みに入っていた。
メールを送っても返事はなく、電話を掛けても「電波の届かないところにいるか電源が入っていない為」一度も繋がらない。
別々に暮らしているとはいえ戦刃も弟の事は心配のようで毎日江ノ島の家を訪れているというが、鍵が掛けられており誰かがいる気配はないという。
誘拐という線も考えられたがそれにしては犯人から何の要求もなく、事件性があるとはどうにも考えにくい。
つまり、手掛かりになりそうなものは何一つ見つかっていないのだ。

「……ずっと一緒って、言ったくせに……」

恨み言をぶつける相手がこの場にいない事で、怒りよりも虚しさが勝つ。
二ヶ月前までは、江ノ島は必ず傍にいた。
左隣が定位置にまでなっていたというのに、その彼はいま隣にいない。
苗木はお気に入りのスニーカーを履いて家を出た。
そういえばこれも江ノ島からのプレゼントだったと思い返して、ぐっと唇を噛み締める。
江ノ島がいれば「血が出るからやめろ」と窘めているところだが、やはり何度周りを見回してみてもあの絶望好きの姿はどこにもなかった。


住宅地にあるこのこじんまりした公園が、そういえば初めて自分からキスをした場所だった。
中庭にあるものよりだいぶ古く、ところどころペンキが剥がれているベンチに腰掛けて、日頃の疲れが溜まっていたのかデート中に寝息を立て始めた江ノ島の唇にそっと押しつけるだけのキスをした。
実際江ノ島は起きていて、その後何度も強請られたが頑としてしなかったのを覚えている。
ベンチの前を離れ、公園内を遊具の中から木の上まで探したがどこにも江ノ島はいなかった。


テスト勉強という口実で会っていた場所が図書館だ。
なるべく人目につかない奥のテーブルにつき、教科書とノートを広げて呻く苗木を一頻りからかった後で江ノ島は勉強を教えてくれた。
苗木が一問理解する度に「頑張った俺へのご褒美」と言って江ノ島が唇を攫っていたのが印象深い。
そのテーブルも今はただの空席でしかなく、ぬくもりも何も感じさせない。
結局図書館にも江ノ島はいなかった。


無理矢理手を引かれて行った遊園地のおばけ屋敷では、暗がりなのをいいことに苗木にベタベタとひっつきながら聞く者が聞けば鳥肌が立つほどの愛を囁き、あげくおばけ役の従業員を脅かすのに力を入れていた。
観覧車が頂上に達した時に、ずっと傍にいるように言われた。
その命令口調に辟易しつつも、あまりにも江ノ島らしくないシチュエーションに苗木は思わず声を上げて笑ったものだ。
あの時にすぐ頷いておけばこんな事にはならなかったのかもしれないと思うと、胸を締めつけるような痛みが走る。
人が溢れる中で自分だけが一人に思え、苗木は足早に遊園地を後にした。
江ノ島に繋がる手掛かりは未だ見つかっていない。
何も見つかっていない。


夏休みに入って以来、苗木は毎日江ノ島を探し歩いていた。
学校周辺はすぐに探した。
自宅にも押し掛けてみたが誰いない様子で、一日中粘ってみたが誰かが帰ってくる事も灯りがつく事もなかった。
江ノ島とデートで訪れた公園も、図書館も、遊園地も、動物園も、水族館も、思いつく限りのすべての場所に行き思い出をなぞり、そして愛しさを募らせるだけで一日を終える。
苗木の疲労は目に見えて明らかだ。
ここまで見つからないとなると自分の影を掴むほうがまだ簡単なんじゃないかという気になって、苗木はその場に座り込んで影に手を伸ばそうとした。
けれど、自分と同じ形であるはずの、座り込んでいるはずの影が、何故か立ち姿のようで。

「……あれ?」
「影捕まえるよりも俺捕まえといた方がいいんじゃない?」

頭上から聞こえるのは、苗木がずっと探していた彼の懐かしい声。
振り返ろうと思うのだが、まるで痺れてしまったように身体が動かない。

「もしかして、夢?」

かろうじて動く口でどうにか応じたものの、俄かには信じられない。
二ヶ月近くも探し回っていた人物がこうもあっさりと現れるとは思わなかった。
耳障りな蝉の声が響く中、彼の声を聞き逃すまいと苗木は必死に集中する。

「ふーん。もし夢なら、ここで煙みたいに消えちゃってもおかしくないよな」
「!だめっ」

立ち去ろうとするように少しずつ遠くなる声。
先程の痺れが嘘のように消えた苗木は慌てて立ち上がり、顔を確認するよりも早くその人物に抱きつく。
拘束してようやく確認したその相手は、ずっと探し求めていた江ノ島盾に間違いなかった。

「どこ、行ってたの?」
「香川」
「なん、で」
「生活能力皆無な父親が急に二ヶ月出張とか言い出しやがってさ。さすがに自分で作った毒食って死なれても困るから絶望的に優しい俺が着いてってやってたってワケ」

けらけらと笑いながら言ってのける江ノ島にさすがの苗木も怒りをにじませる。
せめて連絡があればまだ良かったものの、何の連絡もなしに二ヶ月だ。
毎日どんな気で過ごしていたか江ノ島には分からないだろう。

「どうして、連絡してくれなかったの……」
「あー……突然すぎてバタバタしちゃっててさ……やっぱり電話とかメールとかした?」
「したに決まってるよ!なのに全部無視だし……、ボクの事嫌いになったなら、は、ハッキリ言ってよ……!!」

江ノ島に抱きついたまま苗木は声を震わせる。
体勢からして江ノ島には苗木の表情は一切見えないが、そこは経験と言うのか、はたまた愛の力とでも言うのだろうか、顔を曇らせて今にも泣きそうな苗木の姿が簡単に想像できてしまった。

「ないないないないない!!絶対ない!!俺が苗木を嫌うとかこの世から絶望がなくなっても有り得ないって!!」
「じゃあ、どうして無視……」
「実はケータイ家に忘れててさ……連絡しようにも無理で……ホントごめん!!」

謝る声音は真剣そのもので、それを聞いた苗木の怒りもどうにか鎮まる。
電話番号くらい覚えていろと言いたいところだが、苗木自身江ノ島の携帯電話の番号を空で言えと言われたら言葉に詰まるだろう。

「江ノ島クンの馬鹿……勝手にいなくならないでよ……」

さすがに事情を酌んだ苗木は糾弾するのを止め、ゆっくりと体重を江ノ島に預けた。
江ノ島は驚きながらもしっかりと苗木の華奢な身体を抱きとめる。

「俺がいなくて寂しかった?」
「うん……さびしかった。どこ行っても江ノ島クンとの思い出があるのに、どこ探してもいないし……」
「ごめん。もうどこにも行かないから。ずっと苗木の傍にいるよ」
「……嫌だって言っても、絶対離れないから」
「はは、願ったり叶ったりだ」

二ヶ月前では素直に言わなかった本心を隠すことなく言葉にする苗木を見て、江ノ島は驚きと共に笑みを深くする。
離れていた分想いが強くなるというのはどうやら本当の事だったらしい。
抱擁をやめ、二度と離さないと言わんばかりに指を絡ませる。
二人は離れていた時間を埋めるように寄り添い幸せそうに笑った。



「盾君、さすがに二ヶ月はやり過ぎだったと思うんだけど……」
「あー?いーんだよ。おかげで苗木も積極的に束縛してくれるようになったし。それにほら見てよむくろ!苗木からの着信!二ヶ月で521件!まあ1,000はさすがにいかないと思ってたけど、あの照れ屋で奥ゆかしくてただ俺に流されてるだけだった苗木がまさかの500件超えだよ?すごくない?」

嬉々として着信履歴を見せる弟に辟易しながら戦刃はそっと溜め息を吐いた。
いつもなら咎められるところだが、幸せに浸っている江ノ島は見向きもしない。

「やっぱ束縛ってしたいしされたいじゃん。たった二ヶ月の絶望で苗木の心が手に入るとか最高じゃない?」

その絶望が苗木に会えなかった江ノ島の二ヶ月を指しているのか、消えた江ノ島を探し歩いた苗木の二ヶ月を指しているのか、それともそのどちらも指しているのか、戦刃に分からない。
ただ、密かに芽生え始めていた恋心の終わりをどこか他人事のように感じていた。

「ま、協力ありがとね、オニーチャン。お陰で家にいるってバレなかったし苗木の行動も把握できたし、結構感謝してるよ」
「……盗聴器あったんだから……別に定期報告なんて要らなかったんじゃないか……?」
「スニーカーなんかに仕掛けてあるんだからいつダメになるか分かんないじゃん。苗木の絶望は一つ残らず俺が覚えといてやらないと」

自分の肩を抱いて身悶える江ノ島。
常識外れの絶望を見ながら戦刃は苗木の事を思う。
二ヶ月の虚無感と喪失感に耐えた彼は、江ノ島の目論み通りに自由を奪い、江ノ島を自分に縛りつけようと躍起になるだろう。
甘んじて受け止めていただけの愛を、全力で江ノ島に注ぐようになるだろう。
超高校級の希望とも称される彼はその希望を傍目には分からない程度に曇らせ、超高校級の絶望と称される江ノ島に盲目的に尽くすようになるのだろう。
当人達からしたらきっと幸せなのだろう。
絶望を求めながら希望に惹かれた江ノ島も、希望でありながら絶望に焦がれる苗木も、それで幸せなのだろう。
そう思うからこそ戦刃は口を噤む。
二ヶ月間の失踪がすべて江ノ島の自作自演であった事も、江ノ島が苗木の行動を逐次チェックしていた事も、警察が動き出さないように裏で手を回していた事も、胸に秘めたまま。
共犯者として何も語らず、絶望と希望がドロドロに溶け合う様子だけをその目で見続けるのだ。


(追いかけるから追いかけて)
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