所有物には名前を書きます


母親が亡くなって顔も見たことのない父親に引き取られたのが何歳の時だっただろう。
迎えられた家にはすでに双子の兄弟がいた。
両親が揃っていて、生活に不自由なところがあるようにはとても見えなかったのに、何故かその双子の異母兄達は歪に見えた。
特に、まるで歓迎するように笑っている方の異母兄が。

実際歪んでいるのはその異母兄だった。
もう片方の異母兄の歪みは巻き込まれただけで、可哀想に実の弟に残念残念と言われ続ける彼は残念にもただの被害者にしか見えなかった。
歪みは周りを巻き込むのだ。
一番近くにいた彼然り、息子と顔を合わせる度に僅かに息を詰める義母然り。
そしてそれは当たり前にボクにも襲いかかってくる。

「お前はどうすれば綺麗な絶望を俺に見せてくれるのかな?」

笑顔の裏に見え隠れしていた悪意が隠れることなく姿を見せ始めた。
頬を包むように手を這わされる。
覗き込む硝子玉がドロドロに濁っているようにしか見えなくて、ボクは自分のこれからを考えて不運を呪った。
きっと自分を殺すのはこの異母兄で、死因はこの濁った瞳と歪んだ思考なのだと、出会って一週間と経たずに理解する。
世界が歪みに支配された瞬間だった。

歪みが小さくなる事はない。
膨れ上がり、広がる。
病原菌のように蔓延し、埋め尽くす。
ドロドロと、世界の悪意という悪意を煮詰めたような瞳は、きっと異母兄がいうところの"絶望"の体現に外ならないのだろう。
あの一対の"絶望"がある限り歪みは他の歪みを呑み込んでただただ大きくなっていく。
そしてまず手始めにと言わんばかりに、父と義母が別れた。
義母が、歪みに歪んでいる息子と共に生活する事を拒んだのだ。
兄の方には大した歪みが見られなかったからなのか、母は無害な兄だけを連れて家を出て行った。
愛人の子供を引き取るなんて考えを抱く女性は世の中にそういない。
義母は最後に哀しそうな、申し訳なさそうな目でボクを一瞥し、二度と振り返らなかった。
ボクはあまり家に寄りつかない父のもとに残った。
歪んでいる方の異母兄と一緒に。

それからは実質二人きりの生活。
歪んだ彼が歪んだ統治をする歪んだ生活。
被害者であった異母兄と同じく、ボクも歪みに巻き込まれるだけの被害者になった。



手入れのされた彼の爪はボクの為にある。
自惚れでも何でもなく、彼がそう断言したから言っているだけだ。
彼の歪んだ行動の根底にあるのは絶望への希求心であり、ボクへの優しさや好意というものは微塵もないという事は既に正しく理解している。
つまりその手入れのされた爪は、ボクを絶望させて快楽を得る為のものに間違いなかった。

「っ……」
「えーのーしーまーじゅーん、っと」

最初は背に名前をなぞるだけだった。
指の腹だけで優しく触れて、ボクが気持ち悪さに堪えているのを見て満足そうに笑っていた。
それがいつからか爪になった。
爪の先で名前を書いて、うっすら赤くなった背中を楽しんでいた。
今は、ちゃんと名前が残るまでやめない。
江ノ島盾。
ボクの背中に書かれた異母兄の名前。

「誠って跡残りやすくていいよなー」
「……」

良い、なんて少しも思ってないクセに。
長々痛めつける理由がなくて本当は残念に思っているんだという事くらい、ちゃんとわかっている。

「名前消えたらちゃんと教えろよー?」
「……」

返事をしなくても彼は気にしない。
名前があるうちは、彼はボクのどんな態度にも優しい無関心を保ってくれる。
少しばかりの痛みでそれが約束されるなら安いものだと、そう思っていたのに、その行為は半年しか続かなかった。

突然部屋に押し入ってきた彼は無理矢理ボクをうつ伏せに床に押し倒した。
パーカーもシャツも脱がされ、身動きが取れないようにと腰の上に座られる。
嫌な予感が額に伝う汗となって現れた。
キチキチと響く音が、ここ半年でだいぶおとなしくなっていた恐怖心を一気に暴走させる。

「な、なにするつもり……?」
「んー?ほら、俺さぁ、明日から修学旅行じゃん?誠を一人にするなんて心苦しいし、俺がいない間に名前消えちゃったら誰かに掠め取られるかもしんないし」
「そんなのあるわけ――ッ」

考え方だけじゃない、笑い声まで歪んでいる。
否定の為に声を荒げようとしたボクは、背中に触れる冷たさに思わず息を呑んだ。
さっきの音と合わせて考えても、背中に当てられたそれはカッターにしか思えない。
彼は何の躊躇もなくボクの背中に浅く刃を走らせ。

「いッ、やだ、やめ……っぐ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
「なーんだ、ちゃんと鳴けんじゃん。てっきり不感症なのかと思ってうっかり絶望しちゃってたよ」
「や゛、めッ痛い、痛、ぁあ゛、――!!」

何の躊躇もなく、ボクの背中に自分の名を刻んでいく。
獣のような叫びが喉から零れる。
ボクの絶叫と、血が流れ出る音と、彼の楽しげな哄笑で部屋が埋め尽くされた。
――いっそこのまま死ねたらいいのに。
叶わない希望なんて抱かない方が良いよと、意識が落ちる寸前に見た歪みが、にたりと笑って呟いた。


目が覚めたときには部屋に彼はいなかった。
血のニオイが鼻についたけれど、床に血の痕はなかった。
どうやら気を失っている間に彼が掃除したらしい。

「……いた、い」

もしかしたらニオイだけで、全部夢だったんじゃないかなんて淡い期待を持って背中に指を這わせてみたが、現実を痛感する結果に終わった。
叫びすぎたせいなのか声がうまく出せない。
……だからこそ、今叫ばないでいられるのかもしれないが。
それでもまだ信じられない、信じたくない。
そうだ、洗面所に鏡がある。
彼が言っていた通り修学旅行に出掛けているのなら今頃家にはいないはず、背中を確かめるチャンスだ。

ふらふらする身体を無視して部屋を出る。
何度か階段を踏み外しそうになりながら階下に降りて、ようやく洗面所に辿り着いたときには息が上がってしまっていた。
自分の身体に呆れつつ、意を決して、鏡に背を向け、

「――しにたい」

汚い傷が象る"江ノ島盾"の四文字に、絶望した。



(お前は俺のって、ちゃんと理解した?)
(俺の可愛い可愛い、江ノ島誠君!)

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