それまでジェレマイアのことは眼中に無かった男が、初めてニュクスから視線を外してジェレマイアの方を見た。相変わらず彼の周囲には冷気が漂っており、反撃の隙を与えてくれない。

「何の取り柄も無さそうな一般人だと思っていましたが……」
「え、えっと……その」
「もし本当にそうなら、貴方も見逃せませんね」
「ひゃぎぃッ!?」

 男の標的がニュクスからジェレマイアに切り替わり、氷塊がジェレマイアの隠れている木箱の方に向かって飛んで来る。自身に直接当たりはしなかったものの、木箱に深々と刺さった氷塊にジェレマイアはぞっとした。ニュクスもそうだが、自分もあんなものをまともに喰らってしまったらただでは済まない。

「ニュ、ニュクスさん! 一旦帳簿を返しましょう! このままだと……」

 どっちも殺される。
 彼らのテリトリーに侵入してきたのは自分たちだし、奪おうとしているのも自分たちだ。本来は返してもらう立場なのだが、今はそんな事を言っている場合ではない。
 ニュクスが帳簿を返そうとしないから男が攻撃してくるのだ。それならば一度諦め、帳簿を返して謝罪をすれば。ジェレマイアはそう思い、ニュクスに提案した。
 
「……お前、本っ当に……バカだな」
「……え?」

 けれどニュクスの口から出たのは、ジェレマイアへの罵倒の言葉だった。
 恐る恐る木箱から顔を出し、ニュクスの方を見遣る。負傷し、苦痛で顔を歪めているが、その中には明らかな呆れの色が見て取れた。
 
「こいつ等が今帳簿を返して、俺達を見逃すと……本気で思ってんのか?」
「いや、それは……」
「返したところで、そのまま口封じに殺すに決まってんだろ……ーーッ、ぐぅ……!」

 ニュクスが言い終わる前に、男が新たな氷塊を飛ばし、彼の身に突き刺す。氷塊一つ一つのサイズは決して大きくは無いものの、数が増えればそれだけ傷も生まれる。頭部の衝撃からは回復しても、今度は少しずつ刻まれていく傷によってニュクスはまともに動くことが出来なかった。

「そん、な……」
「まだ頭の中お花畑なのか? 良い加減現実見やがれ……ッ」
「あ、ぅ……」
  
 信じたくないが、ニュクスの言う通りだ。
 今この場で男たちに頭を下げ、帳簿を返したところで大人しく帰してもらえるだろうか。穏便にことが済むだろうか。
 考えるまでもなく、答えは否だ。ここは治安の悪さで有名な南エリアで、今いる場所まで来る間に、ニュクスは多くの人間を撃ち倒してきた。犯罪組織に属する者たちの間にどれだけの仲間意識があるかは分からないが、今までの行いに対する報復があったとしても何ら不思議ではない。仮に無かったとしても、組織を襲撃した存在を簡単に見逃すような真似はしない筈だ。

「ど、どうすれば……」

 この状況を打破する術が思いつかない。話し合いで解決ーーは、まず出来ないだろう。実力行使の強行突破も先手を打たれた状態故に難しい。
 
「あ、ぐッ……!」

 ニュクスが何とか反撃を試みようとして、男の氷塊に妨害を受け、傷を負う。男の嬲り殺しにする発言は本気らしく、ニュクスの体にはじわじわと傷が刻まれて行き、床にも血が滴り始めていた。
 氷塊が刺さった部位から体温が奪われて行くのが分かる。失血死が先か、凍死が先か。一瞬不吉な考えが脳を過ったが、ニュクスはまだ諦めてはいなかった。
 
「おい、死にたくねえならッ……一発、かまして見せろ……!」
「い、一発って言っても……」
「何でも良い……殺れねえなら、せめて動きを止めろってんだ……!」

 確かにニュクスがまともに動けない今、状況を打破するにはジェレマイアが動くしかない。魔術は使えないが、魔法は使える。練度も申し分ないと自負している。
 しかし、自らの意志で人に魔法を放った事がない。誰かを攻撃しようなんて、考えたこともなかった。

「…………」

 出来ることなら、人には使いたくない。傷付けたくない。
 けれど、今ここで力を使わなければ、自分もニュクスも殺される。そうなれば飲み代が払えず、人質となっている親友たちも殺される。
 怖い。逃げたい。冷気による寒さと恐怖で体が震える。
 木箱を隔てた向こう側ではニュクスの呻くような声と男の笑い声がする。ジェレマイアの様子から、自分に攻撃はしてこないと思ったのだろう。既に眼中にないようで、ニュクスを痛めつけ、楽しんでいるようだった。完全に舐められている。それが何故かーー本当に何故なのかは分からなかったがーージェレマイアは少し腹が立った。

「……あ、ああああっ……もう!」
 
 どうにでもなれーー
 
 半ばヤケクソだった。
 人を傷付けるのは嫌だが、ここで殺されるのはもっと嫌だ。
 両手を顔の前で組み、目をきつく閉じながら祈るような体勢で風を『呼んだ』。その瞬間、室内の冷気を吹き飛ばす勢いでジェレマイアを中心に強風が吹き荒れた。

 「なにーー……ッ!?」
 
 突然発生した強風に男が驚き、ニュクスから意識が逸れる。直後にぞん、と。嫌な音が鼓膜を震わせた。

「ぐあァああああああああああっ!」
「…………っ!?」

 一度巻き起こった風は徐々に勢いを弱めて行き、やがて空気に溶け込むようにして消えた。
 もの凄い悲鳴を聞いたような気がするが、今の声は何だろうかと。ジェレマイアが恐る恐る目を開き、そちらの方を見遣ると、右の肩から血飛沫を上げ、絶叫している男がいた。傍らに控えていた部下たちも同様に傷を負い、各々が所持していた武器を床へ落とし、呻いている。
 ジェレマイアが生み出した風は一瞬にして刃となり、男たちに襲いかかった。不可視でありながら確かにそこに『在る』と分かる刃に対し、男たちは防ぐことも逃れることも出来なかった。仮に出来たとしても、それまで何もせずただ隠れていた存在が自分たちに牙を剥くなど、思っても居なかっただろう。ジェレマイアが魔法使いだと言うのも、嘘や冗談だと捉えていたのかも知れない。
 
「くたばりやがれッ……!」

 その隙にニュクスは負傷していない方の手に銃を握り、銃口を男の頭部に向けて発砲した。ニュクスの動きに男が気付いたが、もう遅い。パァン、と。高く短い音と共にニュクスの銃弾が男の頭を撃ち抜いた。

「ひぇ……ッ!」

 撃たれた男の体がぐらりと傾く。ニュクスは更に傍らに控えていた部下たちにも発砲し、同じように頭部を撃ち抜いた。悲鳴を上げる間もなく彼らは床に倒れ、動かなくなる。建物に侵入する前から何度も見ている光景だが、それでもジェレマイアが慣れる事はなかった。
  
「……は、は。やれば出来るじゃねえか」

 男たちが完全に動かなくなったのを確認し、ニュクスはジェレマイアの方に向き直る。
 間一髪。ジェレマイアの魔法のお陰で、状況を打破することができた。ここに来るまで完全にお荷物状態だったが、最後の最後で役に立った。如何な状態であれ、これは褒めるべきだと。ニュクスは小さく笑いながら言葉を紡いだ。
 
「……ひゃい」

 魔法を人に向けて放ってしまったことに多少の後悔はあるものの、最悪の事態は回避できたのだと知り、ジェレマイアは安堵の溜息を漏らした。ニュクスの言葉は届いていたが、何と応えれば良いのか分からない。恐怖からの開放により、先程までの緊張が嘘のように全身が脱力していた。

「おい、腰抜けてんのか? ……だっせえな」

 体に突き刺さった氷塊を引き抜き、投げ捨てながらニュクスが立ち上がる。全身傷だらけだったが、どれもそこまで深いものでは無いらしく、出血も思ったよりは少なかった。
 ゆっくりと木箱の方に歩み寄り、隠れていたジェレマイアを見下ろす。ジェレマイアはへたり込んだ状態から動くことが出来なかった。恐怖は去った。しかしその反動が思った以上に大きかった。寒さのせいか、まだ体が震えている気がする。
 
「だって……すっごい怖かったですし……」
 
 こんな経験、今までにしたことが無い。ジェレマイア自身は直接手を下していないものの、短時間で何人もの人が闘争によって負傷し、倒れた。東エリアでは有り得ない、完全なる非日常。それがこの地域での日常であると言われても、未だに信じられなかった。
 そして、その非日常を当たり前のように受け入れているニュクスという存在も、信じられなかった。簡単に人を傷付けるし、殺すし。状況によっては自分も見捨てられていたーー最悪直接撃たれていたかも知れないと思うと、ぞっとした。

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