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己に敵意、殺意を向けて来る存在は居ない。どうやら先程の男が最後の追手だったのだろう。自己防衛とは言え、些か派手にやり過ぎた。けれど依頼主たる人物は、要人さえ殺してくれれば後は如何なっても構わないと。他の人間の殺害も容認した。後悔はしていないが、予想外に手間取った事実に舌打ちし、ニュクスは重機関銃を霧散させた。
本体の霧散と共に、発砲の際生まれ、地に落ちていた薬莢も消えて行く。それを見届けた後、ニュクスは肩の力を抜き、溜息を吐いた。久し振りに神経を使う仕事だった。矢張り暗殺の仕事は難しい。今回は無事に成功したから良いが、何時かしくじった時に酷い目に遭った。当時の事は、思い出したくも無い。
要人を殺し、追手も倒した。後は月桂樹に戻り、マスターに報告するだけ。そう思い、ニュクスは帰路に着こうと踵を返した、その時だった。


「……ッ」


先程までは居なかった『人』の気配を感じ、動きを止める。新たな追手か。それにしてはいやに静かだ。
標的とは関係の無い敵か。それならば臨戦態勢にならねばと、空手に銃を握ろうとして、ニュクスは或る違和感を覚え、眉を顰めた。体が鉛の様に重い。先程までは感じなかった、まるでその場の重力が倍増したかの様な、異様な重さ。
その場から動こうとしたが、足が重くて一歩も前に出せない。腕も持ち上がらず、突然の現象にニュクスは戸惑い――同時に嫌な予感が脳裏を過ぎった。この感覚には覚えが有る。そして、出来る事ならば今近くに居る人物が、己の予想しているそれから外れて欲しいと願った。
しかし。


「よォ、久し振りだな。銀月」


鼓膜を微震させた、低く通ったその声は、ニュクスの必死な願いを呆気無い程簡単に砕いた。正面の暗がりから現れたのは、ニュクスが良く知る――可能であれば一生会いたくない――人物だった。ニュクスと同じ黒を纏う、長髪の男。真白な毛皮を羽織り、鞭を片手ににやにやと笑う彼の瞳は、獲物を捉えた肉食獣のそれだ。
彼が何をしに来たのか、分からない筈が無い。だが、よりによってこんな所で会う事になるとは。否、もしかしたらニュクスが単独で行動している所をずっと狙っていたのかも知れない。


「テメエ……」


奴隷商人・ナハト。
南エリアでは有名な男であり、危険人物の一人とされている。彼の持つ組織は大きく、中立都市の中でも葬儀屋に次ぐ勢力を持つ。奴隷商人の名の通り、人身売買を主な生業とし、見目の良い者や、毛色の珍しい者は所構わず浚って来、商品として『調教』する。様々な場所で仕入れた奴隷は、調教が済むと売りに出され、哀れな末路を辿る。その人脈は中立都市に留まらず、外の王国や帝国にも繋がりを持つと言われ、都市を管轄する魔女も彼を警戒し、監視しているらしい。
ニュクスも彼の被害者であり、過去に何度も拉致され、調教と称した過酷な拷問を受けて来た。見目が良く、毛色も彼好みだからと。シンプルかつ明確な理由で捕らえられ、我が物にせんとするナハトの手によって調教を受けた。
ただ、不思議な事にナハトは或る程度の調教を施すと、その度にニュクスを解放した。理由は分からないが、彼がニュクスを長期に渡って監禁していた事は無い。他の奴隷達は堕ちるまで徹底的に調教されると言うのに。不可解な行為であったが、それ以上に不愉快であり、ニュクスは彼を殺したくて仕方が無かった。


「おいおい、折角会いに来てやったのに何だその面は。もっと喜べよ、未来の主人だぞ?」
「ほざけっ……!」


今宵もまた、ナハトはニュクスを捕らえに来たのだろう。粘着質な笑みを浮かべ、挑発して来るナハトに対し、ニュクスは嫌悪感を隠す事無く露わにし、彼に向けて発砲しようと腕に力を込める。しかし腕を含め、体が鉛の様に重く、思う様に動けない。それが何故か、ニュクスには分かっていた。


「ははっ、銃使いなんて言われてるが、撃てないんじゃ意味無えなァ?」


周囲の『重力』が変化している。本来の重力よりも負荷の掛かる体は、立っているだけで精一杯だ。先程までは何とも無かった空間の変化は、今目の前に立つナハトによるものだった。
ナハトは異端者であり、周囲の重力を操る能力を持つ。過去、ニュクスが彼に掴まった際は、例外無くこの能力の前に屈した。強力な銃撃も、放つ事が出来なければ意味が無い。何時だったか先制攻撃が叶い、肩を撃ち抜いた事は有ったが、それ以外は全て発砲出来ない状態にされ、捕らえられた。
今回もまた、何時もと同じ展開だ。不意打ちを狙い、重力を操作して己を無力化させた上で、姿を現す。汚いやり方だ。何とかして重い空間から逃れようとするが、身の重さは増す一方で、ニュクスは遂に立位を保つ事が出来なくなり、両膝を地面に付いた。


「そんな顔をするな。折角お前に似合う首輪を用意してやったってのに」


頼んでない。微塵にも望んでいない。
そう言ってやりたかったが、押し潰されてしまうのでは無いかと思う程の負荷に耐えるのが精一杯で、言葉も上手く紡げない。常に思っている事だが、ナハトの異端の力は他の異端者のものよりも強力だ。ニュクスが今までに対峙して来た中で、魔術師や魔法使いを除き、此処まで他者を圧倒する事の出来る能力を持つ者は居ない。
動けなくなったニュクスを見たナハトが、ブーツの高いヒールを鳴らしながらゆっくりと近付いて来る。彼の、鞭を持たない方の手には、赤く不気味に輝く『人間用』の首輪が握られていた。




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