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月桂樹のマスターには謎が多い。
店を始めたのは今から十年程前の事。開店当時からずっと一人で切り盛りをし、今日まで続けて来た。表向きは客に酒や軽食を提供する、ごく普通のバー。しかし店を訪れる客の多くは、マスターが持つ『情報』と『仕事』が目当てであり、飲食はそれをスムーズに進める為の手段でしかない。
様々な企業や権威者に通じ、中には余り大声では話せない様な内容の仕事を『斡旋』する。その人脈の広さに、多くの者が驚かされる。噂では各エリアの魔女や、葬儀屋の社長とも繋がっていると言われているが、真実は定かではない。ただ、彼の持つ情報量を考えると、強ち嘘でも無いかも知れない。
元々彼は帝国の出で、中立都市に来る前は軍隊に所属し、或る小隊の部隊長を務めていたと言う。確かに彼の体躯は無駄なく鍛えられており、がっしりとしている。退役した今でも、鍛錬を怠っていないのだろう。
だが、何故彼が軍を抜け、この中立都市でバーを営んでいるのか。其処に至るまでの経緯を知る者は誰も居ない。裏切り行為をし、追われる身となっただとか、無差別に行われる殺戮劇に嫌気が差し、自ら抜けてきただとか。中には異端の力を使い、敵味方関係なく皆殺しにし、逃げて来たとか。憶測や噂は幾つも飛び交い、どれが真実かも分からない。直接彼に訊ねる猛者も居たが、返って来るのは否定でも肯定でも無い、沈黙だった。

そんなマスターだが、店に来る客からの信頼は厚く、常連となっている者も少なからず存在する。決して愛想の良い男では無いものの、支払いさえきっちりすれば客の面倒を最後まで見てくれる。提供される料理は美味しく、情報は新しく、正確だ。時には客の人生相談に乗ってくれる事もある。訳有りの人間が集うこの都市で、各々が持つ悩みを打ち明けられる場は限られる。皆が皆、自らの生を在りのまま受け入れられている訳では無い。だが、内にある苦しみを分かち合える人間は極めて少ない。混沌とした南エリアの中で、月桂樹はそう言った者達の救いの場となっている。

南エリアのオアシス。月桂樹は、何時しか其処に住まう者達にそう呼ばれる様になり、今宵も誰かが仕事を、情報を、そして癒しを求め、足を運ぶ。


****


「…………」


その日、マスターは困惑していた。
店のオープン前に買い出しと仕込みを済ませようと商店街に出掛け、必要な食材を買い込み、戻って来たのが数分前の事。両手いっぱいに買い物袋を下げ、路地を歩いていると、自宅を兼ねている店の前に、奇妙な『モノ』が倒れていた。
地面にうつ伏せの状態で倒れているのは、長身の男だ。マスターと背丈はそう変わらない様に見える。明らかに異国のものと分かる衣を纏い、背中には長い、特徴的な形状の剣が収まる鞘が乗っている。顔は見えないが、流れる髪は濡羽色で長く、後頭部で纏めて赤い紐で結ってある。
行き倒れだ。それも、知っている人物の。ただ、何故此処で派手に倒れているのか。マスターには理解出来ない。両手両足を伸ばし、地面にへばり付く様は奇妙以外に表現のしようが無く、声も掛け辛い。
敢えて見なかった事にして、さっさと店の中へ入ろうと。マスターが男の横を通ろうとした、その瞬間。


「まぁあああすたぁああああああああああー」


がしっ、と。直ぐ横を抜けようとするマスターの足を掴み、男が地底から響く様な声で制止して来た。無視を決め込み、店に入るつもりだったマスターは、その動きに反応出来ず、バランスを崩して足を縺れさせる。両手に荷物を持っている為、転倒すれば折角買い込んだ食材が台無しだ。掴まれていない方の足で地面を踏み締め、何とか踏み止まると、丁度此方を見上げて来る男と目が合った。


「人が倒れてんのにぃいいいいいい放置とかそりゃ無いぜええええええええ……うっうっ」


泣きそうな――否、半泣きの顔で訴えて来る男は、矢張りマスターの知った顔。垂れ気味の双眸に、赤らんだ頬、だらしなく半開きになっている口は、どう見ても酔っ払いのそれだ。実際、言葉と共に吐き出される息はやや離れた場所に居ても分かるアルコール臭を持っている。未だ明るいこの時刻に、彼は如何程の酒を飲んでいるのだろうか。


「何をしている」
「そのまんま生き倒れ」
「何時から」
「さっきから」


マスターが訊ねると、男は酔っ払っている割にははっきりと言葉を紡いだ。先程の情けない声は、どうやらマスターを引き留める為の演技だったらしい。にへ、と笑う男の様子を見て、マスターは小さな溜息を吐いた。構ってしまった事を僅かながら後悔する。


「また金が無くなったのか」
「そうなんだよぉ、昨日までは有ったのに一晩で消えちまったんだ」
「どうせ酒代で消えたんだろう」
「多分そうなんだよなぁ。そこまで飲んだつもりは無いんだが……」
「取り敢えず手を離せ」


未だに足を掴んでいる男に対し、解放を求める。マスターのまた、と言う言葉に呆れの色が滲んでいるが、男は気にせずに言われる儘手を離し、その手を使って倒れていた状態を起こすと、緩慢な動作で立ち上がった。
男の名はリュウトと言う。月桂樹の常連の一人であり、金に困ってはこうしてマスターを頼り、たかりに来る。風体は風来坊のそれで、生業はニュクス達と同じフリーランサー。だが収入は非常に不安定で、それでいて常に酒代と言う名の出費に追われている締まりの無い飲兵衛だった。




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