7

一瞬、空気が固まった。
怪我人、病人の治療をする医者が言ったものとは思えず、女は戸惑い、キコを見る。


「え、無理って……」
「手遅れだよ、この子」


男の容態は手の施し様が無いレベルまで達していた。怪我と言うよりは、損壊と言った方が良いだろう。ボロボロになった体は、何時死んでもおかしくない状態だった。
キコの診療所は小さく、医療設備が整っているとは言えない。それでも、最低限の治療は保証出来るし、必要ならば他の病院に治療を依頼する事も可能だ。だが、それが出来るのは完治が見込める患者に限った話だ。今目の前にいる男には、その見込みが無い。


「そんな……先生、治して下さい!お金なら……!」


女がキコに迫り、必死の様相で食い下がる。大切な相棒が助からないと聞かされれば、黙っていられる訳が無い。否、相棒と言うよりは恋人に近いのだろう。何としてでも助けたい。女の様子から、男に対する深い愛情が汲み取れた。


「あのね」


けれど現実は残酷で。大金を積んででも男を治療して欲しいと縋る女を突き放す様に。キコは笑いながら言葉を紡いだ。


「おれが治療を施しても、この子が苦しい時間が伸びるだけなの」


眼球が破裂している方の眼窩は窪み、中がぐちゃぐちゃに掻き回されており、脳も損傷している。この時点で既に男の命を繋ぐ事は絶望的で、他の外傷も深く、内臓にも深い傷が有る。これまでに流れた血も致死量に相当する。キコが出来る治療と言えば、精々輸血と、傷口の縫合をする位だ。痛み止めを与え、他の病院へ連れて行こうにも、男の体はそれまで持たないだろう。仮に連れて行けたとして、後遺症の残らない治療は不可能だ。
男の命の灯は、既に消えかかっていた。延命措置を施す事は出来るが、それは男の苦痛が伸びる事を意味する。助からないと分かって、時間を稼ぐのはただの拷問だ。


「だからね」


現実を受け止められず、呆然とする女の肩を掴み、諭す様にキコが言う。常と変わらぬ明るい声で、淡い笑みを浮かべ、残酷な言葉を投げ付ける。


「君が楽にさせてあげるか、おれが楽にさせるか。選んでよ」
「せん、せい」
「ナイフで心臓をさくっとやればすぐに楽にさせられるよ。喉でもいいけど、苦しませる時間は短い方が良いでしょ?頭のココに刺すのもアリかな。ちょっと難しいかもだけど」


道具なら、幾らでも此処に有る。手術用のメスに、ハサミ、針、包丁、ナイフ。扱い易さを考えれば矢張りナイフが良いだろう。人間の肉は存外硬い。女の手で正確に心臓を貫くのなら、機能性を重視するべきだ。
女の体が震えている。目には一杯の涙を浮かべ、絶望の中に希望を見出せないかとキコを見詰める。まだ、何とかなるのではないかと言う思いと、キコの言う通り、手遅れとなっている状況を認めなければならない事実。その間で葛藤し、先程よりも更に長い沈黙が流れた。
診療所へ連れて来た時点で、薄々分かっていた筈だ。男がもう助からないと。けれどそれを受け入れられず、女は有り得ない奇跡を望んでいる。キコは揺らぐ女の決意を固めてやろうと、彼女の頭を撫ぜ、最後の一押しとなる一言を放った。


「世の中ね、どーしようも無い事ってのは、結構あるんだよ」


爛れた顔で屈託なく笑う。致し方無い事であると。言い聞かせたのは、果たして本当に彼女に対してだったのか。
やがて苦痛に呻き、喘ぐ男の声を聞きながら、女はキコから鋭利なナイフを受け取る。両手で持ち、虚ろな男と目を合わせ『ごめんね』と小さく呟き、女はナイフの切っ先を振り下ろした。





「もっしもーし、シトりん?キコだけど。ごめんねー。こんな時間だけどさあ、死人が出たから回収に来て欲しいんだ」


女が男の心臓を刺し貫き、完全に息の根を止めたのを確認し、キコが男の薄く開いていたの瞳を片手でそっと閉じた。
刺した瞬間、男が発した呻き声に女はびくりと身を震わせた。仕方のない事なのだと、そう言い聞かせはしたものの、矢張り割り切るのは難しかったのだろう。男が生者から死者へと変貌する様に耐えられず、女はその場で膝を折り、号泣した。
ニュクスとジェレマイアが女へどう声を掛けようか悩んでいる間に、キコは先の部屋へと戻り、其処に置いてあった携帯端末を取り上げ、葬儀屋へ連絡を入れる。如何な状況であれ、この診療所で死んでしまった人間は、葬儀屋に直接依頼し、遺体を彼等へ引き渡す。亡くなった人間に親しい者が居ればその者の判断に任せるが、南エリアの住人の大半は、遺体の回収を葬儀屋に任せる。彼等は格安か、時に無料で死者の弔いをしてくれる。葬制も複数有り、本人や遺族の希望に添った葬儀を執り行う。
余談だが葬制は火葬が一番人気で、次点に土葬。不人気なのは鳥葬だと言う。


「レーラんが来てくれるって。一応齧らない様には言っとくけど、どうせだったら一緒についてってあげる?」


端末越しに言葉を交わし、話を纏めた所でそれを切り、部屋に戻って来た。
女は男が死んでしまった現実を受け入れられずにいる様で、ベッドの柵を両手で掴んだ姿勢の儘泣き続けている。キコの言葉も聞こえていないのか、問い掛けに応える事は無く、男のものと思しき名を延々と呼び、床に涙の滴を落としていた。
死んだ、と言っても最終的に殺したのは女自身だ。幾ら楽にさせる為だったとは言え、自らが手に掛けたと言う事実も重く圧し掛かっているのだろう。暫くはそっとしておいた方が良いのでは無いかと、ニュクスは黙ってキコを見遣る。しかし、キコはそれは出来ないとばかりに首を左右に振った。遺体から放たれる血と死の香は濃く、この儘では室内に染み込んでしまう。彼女達は良くても、今後此処を訪れる者達の事を考えれば、早急に『処理』をしなければならない。
女の悲愴な姿を暫し眺めていたキコは、少し困った様な笑顔を浮かべ、呟いた。


「まだ若いから、仲間が死ぬのに慣れてないんだねえ」




[ 39/167 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -