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「怪我や病気を治したりしてくれるのは、確かに有り難いと思うんですけど……」
「嫌な思い出でも有るのか?」
「嗚呼、それはもう、山ほどに」


医者が嫌いだと言う人間は珍しくない。具合が悪くなった所を治してくれる、その行為自体は有り難いと思うのだが、問診にしても何にしても、治す為の過程で何かしら嫌な思いをする。時に酷い目に遭う。痛くないよ、直ぐに終わるよ。そんな言葉で幼い頃に騙されただとか、治して貰いに来たのにいきなりそれまでの不摂生を叱られ、馬鹿にされただとか。他にも診察まで非常に待たされたにも関わらず、肝心の診察は数分で終わり、高額の診察代を請求された。更に此処まで飲む必要が有るのかと言う程の量の薬を処方され、その薬代も高額だった。事情は人それぞれだが、話せば多くの者が『あるある』と頷くだろう。
ジェレマイアは何が有ったのだろうか。山ほど、と言う程だから相当苦い思い出が有るのだろう。ニュクスがそれについて訊ねようとした所で、施術しているキコが突然、声を上げた。


「あっ」
「……『あっ』?」


それは医者が一番言ってはいけない台詞では無いだろうか。手元が狂ったか、それとも深刻な事態に遭遇したか。何にせよ、周囲の空気を凍り付かせるには、十分な威力を持つ言葉だ。
施術を受けている男も、傍で見ていた細身の男も、ニュクスとジェレマイアも、表情が強張る。何だ、一体何が起こったのだ。


「うっそー、冗談でした」


周囲の空気に気付いているのかいないのか、キコはあっけらかんとした表情で先の言葉を無かった事にし、縫合の手を止め、片手でピースして見せた。冗談、と言うには少々ブラックだった気がするが、手術自体は問題なく進められているらしく、複雑な表情を浮かべる男へキコは大丈夫だとばかりに笑いながら頷く。
ニュクスとジェレマイアは互いの顔を見合い、それぞれが今し方思った事が同じである事を確認すると、深く、長い溜息を吐いた。


「……笑えねえ冗談はやめろよヤブ医者」
「ヤブじゃないよー、ヤミだよー」


要らない。正直そう言うギャグは要らない。
あんなのを見ていれば、医者に対して良いイメージ等、持てる筈も無い。少し前にジェレマイアがぼやいていた内容も、彼の様な医者が居る事を思えば何の疑問も湧かない。同情するレベルだと、ニュクスはジェレマイアの肩を軽く叩いた。
それからキコは何も言わずに傷口の縫合を再開した。診療所に来た時はぱっくりと開いていた傷も、キコが作り出した血の糸によって少しずつ閉じられて行く。


「はい、オペ終了ー。取り敢えず傷は塞いだよ。でも派手に動かすとまたぱっくりしちゃうから、しばらくは安静ね。あと、お風呂とシャワーも駄目だよ。どうしても入りたいなら、濡らさない様にしてさっとね?今は麻酔が効いてるからそんなに痛くないだろうけど、多分しばらくしたら切れて痛いと思うから気を付けてねん」


最後の一点を縫合し、糸を切って留めると、キコは一息吐き、手術が無事に終わった事を告げた。その後、彼が帰ってからの事を簡単に説明をし、もし傷口が膿んだり、開いてしまったりした場合にはまた来る様に念を押す。
今の姿だけ見ればキコはごく普通の医者なのだが、普段の軽いノリや先程の様なブラックなジョークのせいで、ヤブ医者だと誤解される。それでもニュクスを含め、患者が絶えずやって来るのは、キコの人柄と見かけ以上に医者としての実力が有るからなのだろう。例え正式な許可を得ない、ヤミ医者であったとしても。


「ありがとう御座いました」
「気をつけてねー」


治療費としては破格の値段を提示し、男から代金を貰うと、彼等が診療所を出て行くのを見送る。治療を受けた男は、去る間際、キコに深く頭を下げ、感謝の言葉を述べた。細身の男もまた、同じ様に『兄貴の腕、治療してくれてありがとう御座いました』と何度もへこへこと頭を下げた。治安が悪いこの南エリアで、如何な事情が有ったとしても格安で診察をしてくれる医者は希少だ。通常の医者ならば、彼等の様なならず者の治療は渋るし、したとしても高い医療費を請求する。東エリアの病院にでも行けば、門前払いされてしまうだろう。


「ごめんねえ、急患でお湯が冷めちゃった」


二人の姿が建物の角を曲がり、消える所まで見届け、キコは扉を閉め、ニュクスとジェレマイアの方に振り返る。男達が来る前に準備していたポットの湯は完全に冷めてしまっており、この儘では美味しい茶は淹れられない。キコはもう一度温めようとポットを湯沸し器に乗せ、電源を入れた。その間にニュクス達は先程の待合用の椅子へ再び腰を下ろし、お茶の準備を進めるキコを眺めた。
暫くして湯が沸き、キコは今度こそとばかりに茶漉し器に茶葉を入れ、ポットの湯を注ぐ。三つ並んだカップの中に少しずつ、黄金色の液体が満たされて行き、室内に茶の独特の香りが漂い始める。全ての器にほぼ同じ量の茶が注がれたのを確認し、キコは二人の前に置かれているミニテーブルへカップの乗ったソーサーを置いた。


「凄い香りが良いですね、これ」
「あ、エリーちゃん分かる?おれ、お茶の事はあんまり詳しくないんだけどさー」
「ジェレマイアです」


キコの自身への呼び方の訂正をきっちり入れつつ、茶を一口飲んだジェレマイアはその香りにほうと息を吐く。ニュクスは何も言わずにずず、と音を立てて茶を啜り、二人のやり取りをぼんやりと眺めていた。
首の傷の痛みは殆ど無い。直ぐに仕事をするのは難しいが、少し休めばまた何時もの様に動ける様になるだろう。前回、前々回と悪くない額の報酬を受け取っている為、暫く仕事をしなくても生活は出来る。だからと言って何もしないでだらだら過ごせば体は鈍る。適度に手抜きをしつつ、小さな仕事を当分回して行こう。そんな取り留めのない事を考えつつ、隣でキコにからかわれ、顔を真っ赤にしているジェレマイアに思わず笑みを零した。


「あっ、そだ。ニュッくん、ニュッくん」


二人の微笑ましいやり取りに和んでいると、キコが思い出した様にニュクスの方を見た。突然会話を切られたジェレマイアは面食らった様に瞳を見開くが、キコは全く気にしない。
突拍子の無い野郎だと、ニュクスは茶を啜りながら苦笑する。ジェレマイアとの話を切ってでも己に話したい事は何だろうか。彼の事だ、きっと大した事では無いのだろう。そして、その大した事では無い話に『それ今言う事ですか!?』と憤慨するジェレマイアの顔が容易に浮かぶ。

しかし、キコが次に紡いだ言葉に、ニュクスの表情は一変した。


「『暴君』の情報が入ったんだけど」




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