coincidence or destiny?
いらっしゃいませ、じゃなくて、こんにちわ、から始まる店内で、コーヒーというよりは甘い香りが鼻をくすぐる。カフェやコーヒーショップというよりは独自のブランドを体系したこのお店は、学校帰りに行こうものなら、それだけでテンションが上がるし、変な話、行っただけで満足してしまう。そんなシアトル由来のコーヒーショップが、私の隣に居る犬飼くんは文句なしに似合っていた。「何飲もっかなー。あ、新作うまそ」とスマホでメニューを確認している犬飼くんはどこかご機嫌だ。私はどうしようかなぁ。ここに来たらやっぱり抹茶クリームフラペチーノかな。あ、でも新作も気になるっちゃ気になるかも。
「なんにするか決めた?」
「あ……えっと、新作のやつにしようかなって」
「トール?」
「うん。トール」
「了解。ポイント貯めてるからおれ一緒に注文しちゃってもいい?」
「え……じゃあ、混んできたし先に席取っておくね」
「お、助かる〜。じゃあとで」
ひらひらと手を振られて、レジ前の列から離れて店の奥に進んでいく。わかっていたことだったけど、放課後のこの時間帯は私と犬飼くんみたいな高校生が多かった。ソファ席、カウンター、テーブル席。どこもほどほどに埋まっていて、くるくると辺りを見回す。あ、二階席、空いてる。一階席が見渡せるカウンターを選んで座ると、レジで注文してくれている犬飼くんが目に入った。まるで常連がごとく、緑のエプロンの店員のお兄さんとにこやかに会話している。
本当にすごいな。犬飼くん。今日だって、なんか本当になりゆきでこのコーヒーショップに来ることになったけど、ちゃんと話すのは、多分数えるほどだ。どうしてこうなったんだっけ。真下に見える薄い色素の髪の毛をぼんやりと見ながら一時間前を思い出す。
「会長居る〜?」
ガラガラ、とゆるやかに生徒会室のドアが開いて、書類整理していた顔をあげた。あ、と私が小さく声を漏らすと、ドアを開けた犬飼くんは瞬時に状況を理解したようで、一瞬きょとんとした顔をしたけど、すぐに笑顔を見せてくれた。
「もしかして、会長帰っちゃった?」
「えっと、今日は蔵内くんきてないかな? なんかボーダーのほうで用事あるみたいで、今日は私ひとりだけ」
「あ、そうなんだ。じゃひとりで大変だ。お疲れ」
「……ありがとう」
そう言って犬飼くんは、私の向かいの椅子をひいた。生徒会室にぶらりと遊びに来る時、気が付けばいつもそこに座っていて、もはやそこは彼の定位置だった。
今日は一体何の用だろうか。
大体彼が遊びに来るときは、蔵内くんかもしくは副会長の遥ちゃんにボーダー関連の用事がある時だ。今日は二人とも居ないから、すぐに帰るものかと思っていたのに、どうやらそういうわけじゃないらしい。
いつも通り私の前に座って、少しだけスマホを触って、私越しに校庭の空をぼんやり見ていた。
これは、困った。
帰らないの? とか何か用事? とか素直に聞ければいいんだけど、実のところ犬飼くんと私はそこまで接点がない。この三年間同じクラスになったこともなかったし、もちろんボーダーなんてカッコいい組織に所属しているわけでもない。ただ『友達の友達』の距離感を地で行っているし、なんならクラスで気になる男の子と言われれば必ず女子たちから名前があがる『犬飼くん』と容易く話せるほど私は残念かな、男の子慣れしていない。
え、と、ほんとどうしよう。手持ち無沙汰になるのが嫌で、次の定例会の書類の準備を始めたら、犬飼くんとぱちっと眼が合った。
「なんか俺でも手伝えることある?」
「えっと、あとこのプリントのファイリングだけだから」
問題ないよ、言う前に机に散らばっていたファイルに手を伸ばされた。
「役員分?」
「そうだけど……いいの?」
どうしよう、困った。
手伝ってもらえるのは正直ありがたいけど、彼の意図が全く読めない。用事があって、この生徒会室に足を踏み入れたんじゃないんだろうか。まさか私を手伝うため? と頭の中で浮かんできたけど一瞬でかき消した。いや、それこそありえない。
そんな失礼なことを考えていたのが顔に出ていたのかもしれない。そんな私を見て面白そうに少し笑ってから、犬飼くんは切り出した。
「ごめんごめん、急にそんなこと言ったら驚くか。夜ボーダーの人たちと焼肉行く予定なんだけど、半端に時間余って暇してたから、ここ来ただけ。だからそっちがいいなら、何か手伝わせてくれると嬉しいなって。この時間に家に帰ったら、姉ちゃんたち居てうるさいし」
「あ、お姉さんいるんだ?」
「そ。元気なお姉さまがふたり」
いじめられてんのおれ、と犬飼くんがおどけて話す頃には、表紙の下に二枚目のプリントを入れられていた。あれ、おかしい。了承していないのに、仕事をすでに手伝われている。なんとなくというか、予想通りというか、手際いいなあ。話をしながらも、しっかり資料に目を通してくれているのがわかる。話上手だし、仕事も丁寧。今更だけど、「犬飼くんいいよね」っていう女の子たちが居るのもすごくわかる気がした。「苗字ちゃんは兄弟いるの?」なんて当たり障りのない話を振られる頃には、不思議なことに少し緊張していた気持ちはどこか遠くへ行ってしまっていた。
それが何がどうしてこうなって二人でカフェに入る流れになったんだっけ。確かすぐ終わると思っていた書類整理が意外と時間かかって、途中で顧問の先生がやってきて、仕事をさらっと押し付けたりなんかして、それで、二人で疲れたね、どっか寄ってく? なんて話してたら、それで。
「おまたせ」
赤と白のマーブル模様のフラペチーノがそっとカウンターテーブルの上に置かれて、その隣にキャラメルフラペチーノが並んだ。顔を上げると犬飼くんが居て、ちょっとだけスペースを開けて、私の隣に座った。
「ごめんね、ありがとう。え、とお金お金……」
紫色のスラックスが座ったと同時に財布からお札を出そうとすると、さっきのファイルのごとく、いいって、と手で制された。
「ここ誘ったのおれだし気にしないでよ。それにこれどうにかして使いたかったのもあるし」
ちょいちょい、と指で軽く手招きされて、犬飼くんの持っているスマホ画面を横からおそるおそる覗き込む。画面に見えたのは、今いるお店のアプリ画面。ご利用済みです、としっかり書かれた表示。
「お世話になってる先輩にお年玉がわりに結構な額でもらったんだけど、中々使いきれなくてさ。期限、今日までだったから、付き合ってくれてほんと助かったよ」
「あ、それもあって今日蔵内くん探しに来たんだ?」
それなら色々納得だ。返事の代わりに笑顔で返されて、ひとりで納得する。犬飼くんと蔵内くんは仲がいいし、万が一蔵内くんが居なくても、同じボーダーの遥ちゃんだって生徒会に居る。その二人が今日たまたま居なくて、たまたま私ひとりだけ生徒会室に居て、犬飼くんもたまたま暇していて時間も開いていたし仕事を手伝ってくれて、たまたま持っていたギフトカードの有効期限が今日までだったからカフェに誘った。なんだか、すごく『たまたま』を多用したけれど、今日初めてまともにちゃんと会話したのだから、変な期待も妄想もしないに越したことはない。
それでもやっぱり。
「ねえでもやっぱり申し訳ないし、お金払ってい」
いいかな? と確認の言葉を口にするのと同時だった。犬飼くんのスマホがピコン、と通知を告げる。お馴染みの緑のメッセージアプリのアイコン。人のスマホを見る趣味なんてないし、これは本当に『たまたま』見えてしまったもので、本来ならごめんとすぐさま謝るのが筋なんだけど、見えてしまったメッセージはこのタイミングで見て見ないふりをするには無理のある文面だった。
「……ごめんね、メッセージ見えちゃったんだけどさ」
「あー見えちゃった?」
気にしなくていいよ、と犬飼くんは緑のストローをくるくるしながらフラペチーノに口付ける。うん。私が彼でもきっとそういうけれど、犬飼くんが私の立場でも、きっと同じことをこれから口にすると思う。
「今日、もしかして……誕生日?」
見えてしまったのは、『犬飼先輩、誕生日おめでとうございます』と書かれた丁寧なメッセージ。『今日の焼肉ですけど、』と続いていた言葉から察するにボーダーの後輩だろうか。いや、そんなことは大して重要じゃない。重要じゃなくて、私、今日、誕生日の人に仕事を手伝って貰って、あまつさえお誕生日の人にちょっとお高いフラペチーノを奢ってもらったの? え、嘘だ。これはちょっと人としてどうなのだろう。
あはは、と笑って肯定の答えを犬飼くんは中々示してくれないけれど、これは正解間違いないと思う。
「……なんかごめんね、今日誕生日なのに。色々手伝って貰って、そのうえ奢ってもらって……あの、その、あまり大したことはできないんだけど、なんか私にできることあるかな?」
本当だったらここで犬飼くんの分も含めてお金を渡して、フラペチーノ二杯分奢りたい気持ちだけれど、さすがにもう飲み始めてしまったし、犬飼くんは受け取ってくれないだろう。「おれも人から貰ったもんだから気にしないで」とかなんとかまた言われちゃいそうだ。
というか、そんな貴重な十八歳の誕生日に知り合って間もない私なんかと過ごして犬飼くんはいいのだろうか。男女問わず友達の多い彼だから、色々お誘いもあっただろうに。妙な偶然が重ならければ、もっと楽しい誕生日が過ごせたのではないだろうか。仕方ないとはいえ、本当になんか、申し訳ない。
「そんな顔しないでいいって。こうやっておれの時間付き合ってくれてるだけで、めっちゃ嬉しいから」
「それは犬飼くん人間ができすぎる発言だよ。なんでボーダー入ってる人ってこう、精神的にみんな大人なの……もっと高校生らしく貪欲にいこうよ……」
「あ、それ会長のこと言ってるでしょ?」
「蔵内くんもだけど、今は犬飼くんだよ……。ちゃんと会話したの初めてな同級生に誕生日に扱き使われてほんと申し訳ない……」
いいから溶けるよ、と促されて、まだ口にしていなかったイチゴのフラペチーノに手を付ける。こんな時だっていうのにフラペチーノは甘くておいしい。あれ、このフラペチーノ、チョコレートソースも入ってたんだ。チョコ好きだからすごく嬉しいかも。
「ならさ、今度、それ奢ってよ」
「……これ?」
「そ。今飲んでるそれ。見てたらすごくおれも飲みたくなってきたし」
「そんなんでいいの?」
「うん。さすがに女の子にひとくちちょーだい、とは言えないし。だからまた付き合ってよ」
「え、と……なら予定合わせたいから、連絡先聞いてもいい?」
もちろん、と返ってきて、私のスマホの上に犬飼くんのスマホが重なった。すぐさまピロン、とスタンプが送られてきて、私の友達に『犬飼澄晴』が加わる。なんか、またなりゆきだったとはいえ、変な『たまたま』ができてしまった。可笑しいっていうのは変だけど、つい数時間前まで、私と犬飼くんはただの『友達の友達』だったはずなのに。偶然が重なると人生どうなるかわからないものだ。
「ありがとう。じゃあおめでとうメッセージもいっぱい来てるだろうし、落ち着いたころにまた連絡するね」
「いいよ、暇なときいつでもしてくれて。おれは大歓迎だから」
本当に犬飼くんは場を和ませるのがうまい。優しい冗談も本当に上手だと思うし、こちらが変に気を遣わないように先手先手で対応してくれている気がする。いろんな『たまたま』な偶然が重なって、面倒を押し付けてしまったけれど、結果的にいい友達になれそうかもしれない。蔵内くんのほかに初めてまともな男友達が、だなんてちょっとだけ浮かれてしまった。
そんな浮ついた態度がよくなかったのかもしれない。フラペチーノに伸ばそうとした右手に、同じタイミングで伸びてきた犬飼くんの骨ばった左手と偶然ぶつかった。
「ごめん、ぶつかっちゃったね」
「ねえ」
振り返ろうと右を向くと、思っていたよりも犬飼くんとの距離が近くなって思わずたじろいだ。さっきまではにこやかに笑っていたはずの顔が、すっと別人のように眼が細くなった。
「……本当に偶然だと思ってる?」
「え?」
それは今手がぶつかったことだろうか。それとも、別のことについてだろうか。何のことを言われているかわからず、思考が停止する。目を逸らそうにも、急に温度の変わった声が聞こえて、犬飼くんがそれを許してくれそうにない。今日何度目かはわからない。頭の中に回想が流れる。放課後、ひとりきりの生徒会室に「たまたま」犬飼くんがやってきて、「たまたま」時間が開いてるから仕事を手伝ってくれて、「たまたま」期限が今日までのギフトがあって、「たまたま」誕生日だということを知って、たまたま――。
「な〜んて。この新作、来週までだからまたそれまでに予定合わせよ」
「え、あ、うん!」
慌てて返事すると、吹き出すように犬飼くんが笑った。途端に解ける緊張の糸。今のは一体何だったのだろうか。思考が全然追い付かないし、自分の都合のいい理解をしてしまいそうで、考えるのを放棄したい。時間を見ると、そろそろ犬飼くんが言っていた待ち合わせ時間が近づいてきた。それに本人も気付いたのか、犬飼くんがすくっと立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行くね。今日はおれの時間つぶしに付き合ってくれてありがと」
「いえいえこちらこそ! 楽しかったし、ごちそうさま! あとで、連絡するね!」
「あはは。ほんとそっちの都合のいい時でいいって。落ち着いてからで」
そこで一呼吸置かれた。
穏やかな笑顔が、一瞬だけ真面目になって、それから。
犬飼くんの左手がもう一度私にぶつかった。
「おれは、いつでも、大歓迎だから」
またね、と犬飼くんが階段を下りていく。
どうしよう。これは、困った。
うっかり右手に熱を持ってしまって、この熱がたまたま熱くなっただなんて、考えられそうにない。
「なんにするか決めた?」
「あ……えっと、新作のやつにしようかなって」
「トール?」
「うん。トール」
「了解。ポイント貯めてるからおれ一緒に注文しちゃってもいい?」
「え……じゃあ、混んできたし先に席取っておくね」
「お、助かる〜。じゃあとで」
ひらひらと手を振られて、レジ前の列から離れて店の奥に進んでいく。わかっていたことだったけど、放課後のこの時間帯は私と犬飼くんみたいな高校生が多かった。ソファ席、カウンター、テーブル席。どこもほどほどに埋まっていて、くるくると辺りを見回す。あ、二階席、空いてる。一階席が見渡せるカウンターを選んで座ると、レジで注文してくれている犬飼くんが目に入った。まるで常連がごとく、緑のエプロンの店員のお兄さんとにこやかに会話している。
本当にすごいな。犬飼くん。今日だって、なんか本当になりゆきでこのコーヒーショップに来ることになったけど、ちゃんと話すのは、多分数えるほどだ。どうしてこうなったんだっけ。真下に見える薄い色素の髪の毛をぼんやりと見ながら一時間前を思い出す。
「会長居る〜?」
ガラガラ、とゆるやかに生徒会室のドアが開いて、書類整理していた顔をあげた。あ、と私が小さく声を漏らすと、ドアを開けた犬飼くんは瞬時に状況を理解したようで、一瞬きょとんとした顔をしたけど、すぐに笑顔を見せてくれた。
「もしかして、会長帰っちゃった?」
「えっと、今日は蔵内くんきてないかな? なんかボーダーのほうで用事あるみたいで、今日は私ひとりだけ」
「あ、そうなんだ。じゃひとりで大変だ。お疲れ」
「……ありがとう」
そう言って犬飼くんは、私の向かいの椅子をひいた。生徒会室にぶらりと遊びに来る時、気が付けばいつもそこに座っていて、もはやそこは彼の定位置だった。
今日は一体何の用だろうか。
大体彼が遊びに来るときは、蔵内くんかもしくは副会長の遥ちゃんにボーダー関連の用事がある時だ。今日は二人とも居ないから、すぐに帰るものかと思っていたのに、どうやらそういうわけじゃないらしい。
いつも通り私の前に座って、少しだけスマホを触って、私越しに校庭の空をぼんやり見ていた。
これは、困った。
帰らないの? とか何か用事? とか素直に聞ければいいんだけど、実のところ犬飼くんと私はそこまで接点がない。この三年間同じクラスになったこともなかったし、もちろんボーダーなんてカッコいい組織に所属しているわけでもない。ただ『友達の友達』の距離感を地で行っているし、なんならクラスで気になる男の子と言われれば必ず女子たちから名前があがる『犬飼くん』と容易く話せるほど私は残念かな、男の子慣れしていない。
え、と、ほんとどうしよう。手持ち無沙汰になるのが嫌で、次の定例会の書類の準備を始めたら、犬飼くんとぱちっと眼が合った。
「なんか俺でも手伝えることある?」
「えっと、あとこのプリントのファイリングだけだから」
問題ないよ、言う前に机に散らばっていたファイルに手を伸ばされた。
「役員分?」
「そうだけど……いいの?」
どうしよう、困った。
手伝ってもらえるのは正直ありがたいけど、彼の意図が全く読めない。用事があって、この生徒会室に足を踏み入れたんじゃないんだろうか。まさか私を手伝うため? と頭の中で浮かんできたけど一瞬でかき消した。いや、それこそありえない。
そんな失礼なことを考えていたのが顔に出ていたのかもしれない。そんな私を見て面白そうに少し笑ってから、犬飼くんは切り出した。
「ごめんごめん、急にそんなこと言ったら驚くか。夜ボーダーの人たちと焼肉行く予定なんだけど、半端に時間余って暇してたから、ここ来ただけ。だからそっちがいいなら、何か手伝わせてくれると嬉しいなって。この時間に家に帰ったら、姉ちゃんたち居てうるさいし」
「あ、お姉さんいるんだ?」
「そ。元気なお姉さまがふたり」
いじめられてんのおれ、と犬飼くんがおどけて話す頃には、表紙の下に二枚目のプリントを入れられていた。あれ、おかしい。了承していないのに、仕事をすでに手伝われている。なんとなくというか、予想通りというか、手際いいなあ。話をしながらも、しっかり資料に目を通してくれているのがわかる。話上手だし、仕事も丁寧。今更だけど、「犬飼くんいいよね」っていう女の子たちが居るのもすごくわかる気がした。「苗字ちゃんは兄弟いるの?」なんて当たり障りのない話を振られる頃には、不思議なことに少し緊張していた気持ちはどこか遠くへ行ってしまっていた。
それが何がどうしてこうなって二人でカフェに入る流れになったんだっけ。確かすぐ終わると思っていた書類整理が意外と時間かかって、途中で顧問の先生がやってきて、仕事をさらっと押し付けたりなんかして、それで、二人で疲れたね、どっか寄ってく? なんて話してたら、それで。
「おまたせ」
赤と白のマーブル模様のフラペチーノがそっとカウンターテーブルの上に置かれて、その隣にキャラメルフラペチーノが並んだ。顔を上げると犬飼くんが居て、ちょっとだけスペースを開けて、私の隣に座った。
「ごめんね、ありがとう。え、とお金お金……」
紫色のスラックスが座ったと同時に財布からお札を出そうとすると、さっきのファイルのごとく、いいって、と手で制された。
「ここ誘ったのおれだし気にしないでよ。それにこれどうにかして使いたかったのもあるし」
ちょいちょい、と指で軽く手招きされて、犬飼くんの持っているスマホ画面を横からおそるおそる覗き込む。画面に見えたのは、今いるお店のアプリ画面。ご利用済みです、としっかり書かれた表示。
「お世話になってる先輩にお年玉がわりに結構な額でもらったんだけど、中々使いきれなくてさ。期限、今日までだったから、付き合ってくれてほんと助かったよ」
「あ、それもあって今日蔵内くん探しに来たんだ?」
それなら色々納得だ。返事の代わりに笑顔で返されて、ひとりで納得する。犬飼くんと蔵内くんは仲がいいし、万が一蔵内くんが居なくても、同じボーダーの遥ちゃんだって生徒会に居る。その二人が今日たまたま居なくて、たまたま私ひとりだけ生徒会室に居て、犬飼くんもたまたま暇していて時間も開いていたし仕事を手伝ってくれて、たまたま持っていたギフトカードの有効期限が今日までだったからカフェに誘った。なんだか、すごく『たまたま』を多用したけれど、今日初めてまともにちゃんと会話したのだから、変な期待も妄想もしないに越したことはない。
それでもやっぱり。
「ねえでもやっぱり申し訳ないし、お金払ってい」
いいかな? と確認の言葉を口にするのと同時だった。犬飼くんのスマホがピコン、と通知を告げる。お馴染みの緑のメッセージアプリのアイコン。人のスマホを見る趣味なんてないし、これは本当に『たまたま』見えてしまったもので、本来ならごめんとすぐさま謝るのが筋なんだけど、見えてしまったメッセージはこのタイミングで見て見ないふりをするには無理のある文面だった。
「……ごめんね、メッセージ見えちゃったんだけどさ」
「あー見えちゃった?」
気にしなくていいよ、と犬飼くんは緑のストローをくるくるしながらフラペチーノに口付ける。うん。私が彼でもきっとそういうけれど、犬飼くんが私の立場でも、きっと同じことをこれから口にすると思う。
「今日、もしかして……誕生日?」
見えてしまったのは、『犬飼先輩、誕生日おめでとうございます』と書かれた丁寧なメッセージ。『今日の焼肉ですけど、』と続いていた言葉から察するにボーダーの後輩だろうか。いや、そんなことは大して重要じゃない。重要じゃなくて、私、今日、誕生日の人に仕事を手伝って貰って、あまつさえお誕生日の人にちょっとお高いフラペチーノを奢ってもらったの? え、嘘だ。これはちょっと人としてどうなのだろう。
あはは、と笑って肯定の答えを犬飼くんは中々示してくれないけれど、これは正解間違いないと思う。
「……なんかごめんね、今日誕生日なのに。色々手伝って貰って、そのうえ奢ってもらって……あの、その、あまり大したことはできないんだけど、なんか私にできることあるかな?」
本当だったらここで犬飼くんの分も含めてお金を渡して、フラペチーノ二杯分奢りたい気持ちだけれど、さすがにもう飲み始めてしまったし、犬飼くんは受け取ってくれないだろう。「おれも人から貰ったもんだから気にしないで」とかなんとかまた言われちゃいそうだ。
というか、そんな貴重な十八歳の誕生日に知り合って間もない私なんかと過ごして犬飼くんはいいのだろうか。男女問わず友達の多い彼だから、色々お誘いもあっただろうに。妙な偶然が重ならければ、もっと楽しい誕生日が過ごせたのではないだろうか。仕方ないとはいえ、本当になんか、申し訳ない。
「そんな顔しないでいいって。こうやっておれの時間付き合ってくれてるだけで、めっちゃ嬉しいから」
「それは犬飼くん人間ができすぎる発言だよ。なんでボーダー入ってる人ってこう、精神的にみんな大人なの……もっと高校生らしく貪欲にいこうよ……」
「あ、それ会長のこと言ってるでしょ?」
「蔵内くんもだけど、今は犬飼くんだよ……。ちゃんと会話したの初めてな同級生に誕生日に扱き使われてほんと申し訳ない……」
いいから溶けるよ、と促されて、まだ口にしていなかったイチゴのフラペチーノに手を付ける。こんな時だっていうのにフラペチーノは甘くておいしい。あれ、このフラペチーノ、チョコレートソースも入ってたんだ。チョコ好きだからすごく嬉しいかも。
「ならさ、今度、それ奢ってよ」
「……これ?」
「そ。今飲んでるそれ。見てたらすごくおれも飲みたくなってきたし」
「そんなんでいいの?」
「うん。さすがに女の子にひとくちちょーだい、とは言えないし。だからまた付き合ってよ」
「え、と……なら予定合わせたいから、連絡先聞いてもいい?」
もちろん、と返ってきて、私のスマホの上に犬飼くんのスマホが重なった。すぐさまピロン、とスタンプが送られてきて、私の友達に『犬飼澄晴』が加わる。なんか、またなりゆきだったとはいえ、変な『たまたま』ができてしまった。可笑しいっていうのは変だけど、つい数時間前まで、私と犬飼くんはただの『友達の友達』だったはずなのに。偶然が重なると人生どうなるかわからないものだ。
「ありがとう。じゃあおめでとうメッセージもいっぱい来てるだろうし、落ち着いたころにまた連絡するね」
「いいよ、暇なときいつでもしてくれて。おれは大歓迎だから」
本当に犬飼くんは場を和ませるのがうまい。優しい冗談も本当に上手だと思うし、こちらが変に気を遣わないように先手先手で対応してくれている気がする。いろんな『たまたま』な偶然が重なって、面倒を押し付けてしまったけれど、結果的にいい友達になれそうかもしれない。蔵内くんのほかに初めてまともな男友達が、だなんてちょっとだけ浮かれてしまった。
そんな浮ついた態度がよくなかったのかもしれない。フラペチーノに伸ばそうとした右手に、同じタイミングで伸びてきた犬飼くんの骨ばった左手と偶然ぶつかった。
「ごめん、ぶつかっちゃったね」
「ねえ」
振り返ろうと右を向くと、思っていたよりも犬飼くんとの距離が近くなって思わずたじろいだ。さっきまではにこやかに笑っていたはずの顔が、すっと別人のように眼が細くなった。
「……本当に偶然だと思ってる?」
「え?」
それは今手がぶつかったことだろうか。それとも、別のことについてだろうか。何のことを言われているかわからず、思考が停止する。目を逸らそうにも、急に温度の変わった声が聞こえて、犬飼くんがそれを許してくれそうにない。今日何度目かはわからない。頭の中に回想が流れる。放課後、ひとりきりの生徒会室に「たまたま」犬飼くんがやってきて、「たまたま」時間が開いてるから仕事を手伝ってくれて、「たまたま」期限が今日までのギフトがあって、「たまたま」誕生日だということを知って、たまたま――。
「な〜んて。この新作、来週までだからまたそれまでに予定合わせよ」
「え、あ、うん!」
慌てて返事すると、吹き出すように犬飼くんが笑った。途端に解ける緊張の糸。今のは一体何だったのだろうか。思考が全然追い付かないし、自分の都合のいい理解をしてしまいそうで、考えるのを放棄したい。時間を見ると、そろそろ犬飼くんが言っていた待ち合わせ時間が近づいてきた。それに本人も気付いたのか、犬飼くんがすくっと立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行くね。今日はおれの時間つぶしに付き合ってくれてありがと」
「いえいえこちらこそ! 楽しかったし、ごちそうさま! あとで、連絡するね!」
「あはは。ほんとそっちの都合のいい時でいいって。落ち着いてからで」
そこで一呼吸置かれた。
穏やかな笑顔が、一瞬だけ真面目になって、それから。
犬飼くんの左手がもう一度私にぶつかった。
「おれは、いつでも、大歓迎だから」
またね、と犬飼くんが階段を下りていく。
どうしよう。これは、困った。
うっかり右手に熱を持ってしまって、この熱がたまたま熱くなっただなんて、考えられそうにない。