レディバグオレンジの憂鬱
12月の羽田は寒い。空港内に居るのにまだ手はかじかむ。それでも宮城の寒さよりはマシか。
何度も眺めた搭乗口の電光掲示板は「delayed」のまま。到着予定時刻よりもう既に15分経ってる。事故やら何やらではないのはわかっているけれども、後発の飛行機が続々と到着やら手荷物受け渡し中になっているのに、変わらないのはどうしようもないとわかりつつも少し不安になってくる。
当然ながら私のスマホには何の連絡もない。無事空の上を飛んで居るのなら良いのだけど、と思いながら何度もスマホを見てしまうのはなんとやら。渡航前に送られてきたふざけた猫のスタンプが依然踊るまま。私が送った「搭乗口にいるよ」の文面には既読はつかない。たった2文字の有無を必死に確認するなんてまるで恋する女子高生みたいだ。あの男と出会って何年も経っているというのに、やっていることは変わっていない自分に呆れてくる。
「あ、」
奇妙な踊りをする猫をひたすらと睨んでいたら、お目当て文字がようやくついた。ほっとしたと同時に急いで顔をあげると見慣れた「delayed」から「arrived」に変わっていた。あれ、「arriving」じゃない。過去形だ、ということは。
「うれっしそうな顔で掲示板見つめちゃって。そーんなに俺に会いたかったの?」
聞こえてきた少しふざけた声。声の方を見るより先に頭の上にぽん、と大きな掌が頭の上に乗ってきた。気安く髪を撫でられた瞬間に、懐かしさと待ち人が無事来た嬉しさのあまり口元が緩みそうになる。いけない。いけない。私とこの待ち人はそんな可愛い関係じゃないんだから。
「残念でしたー。ドイツ土産の美味しいビールとかプレッツェルまだかなぁと思ってただけでしたー」
振り返ると同時に、頭に無遠慮に乗せてきた掌を振り払って、私よりも目線がひとつもふたつも高いその顔に軽口を叩きながらこっそり覗き込む。
前に会ったときよりも顔つきが大人びて、腹立つことにイケメン度に磨きがかかっている。あと特に意味もなくかけているであろうサングラスが絶妙にこの男に似合っているのも腹立つ。それなのにサングラス越しの瞳は、高校時代共に馬鹿なことして過ごしてきたあの頃と変わらないから嫌になる。
のんきに大学生している私なんかと違って、知らない土地で、知らない人たち相手にひとりでがんばって戦っているこの男は、ずっと落ち着いていて、遠い世界に行っているはずなのに、会えば平気で、「俺は変わってないよ」と言わんばかりの気安さと、性格の悪さをほのかに滲み出してくるから実に厄介だ。遠い存在で居てくれた方が楽なのに、手を伸ばせばすんなり届く距離感を、いつもこの男は会った瞬間から作ってくる。だから、何度も言うけど、やっぱり腹が立つ。
「ふーん? そういうことにしておいてあげよっか。俺、優しいしね」
「はいはい。そうだね。徹くんは優しいもんね。昔からよーく知ってる。知ってるよー」
「何その棒読み。24時間以上の長時間フライト乗り越えた友人に接するそれじゃなくない? もう少し有り難み持っても罰は当たらないよ?」
「再会早々女の子の髪に許可なく触る男友達には恩赦はありません」
ほら、やっぱり。
その気安い距離感にまんまとのみ込まれてしまう。
日本とアルゼンチン。大学生とプロプレイヤー。数年前は机並べて、制服を着て、くだらない話に花を咲かせていたけど、本来はもっと遠くに居るべき相手で。
それなのにこの男はそんなの関係ないと言わんばかりのテンションで、会えなかった時間を一気に縮めてくる。それを嬉しいと思う私と、嫌だと思う私が居ることにこの男は気付いているのやら居ないやら。
それでも。
「及川」
「んー?」
「おかえり」
大型のスーツケースを真横において大きく伸びをする待ち人──及川にお決まりの挨拶を返すと、ひとつ大きな瞬きをした後、「ただいまー」と懐かしい柔らかい笑顔で返ってきた。うん、やっぱり彼は私の知っている及川で、悔しいかな、私はやはりこの男が好きだなぁと会う度認識してしまうのだ。無駄に似合っているサングラスをしているのが、やっぱり腹立つけど。
◇
「はぁーつっかれた!」
「とりあえず長旅お疲れさま」
ダイニングバーの個室でジョッキを合わせて乾杯した後、及川はテーブルにうな垂れた。「やっぱ日本のビールは飲みやすいね〜」としゅわしゅわと泡立つビールを姿勢が悪いまま眺めている。
「いつ仙台戻るの?」
「んー? さすがに2,3日は東京いるよ。時差ボケ戻してからかえらないと、岩ちゃんうるさそうだし」
「あ、やっぱ時差ボケあるんだ?」
「今もう東京夕方だけど、俺の中ではまだ朝だからね? バリバリの午前中。おかげでまだまだ活動できそう」
「疲れてるんだったら、会うの明日でもよかったのに。なんなら今日もう解散して明日改めて」
「バ――カ!!」
私の言葉を遮るように入ってきた小学生並みの罵声に思わずへ? と間抜けな声が漏れる。
「いい? 10代で単身アルゼンチンに乗り込んでバレーしている日本バレーボール界の至宝、そしておまけに顔まで良い俺の出迎えに誰も居ないとかありえないわけ! そしてそこに女の子が居ないなんてことも! まぁ悲しいかな現実はこっちではまだまだバレーは注目度の低いスポーツですけどもね。そこで白羽の矢が立った腐れ縁の都内住みのお前を呼んだのに、そんな態度とんだ? 帰国早々さみしくひとり飯を食えと?」
「……いや、そんなんだったら高校卒業前に彼女と別れなきゃよかったじゃん。確かあの子も都内の大学希望じゃなかったっけ?」
「……お前、よく覚えてんねそんなこと」
「昔から記憶力いいからね」
嘘だ。
本当はこの男の彼女のポジションになれるあの女の子が羨ましくて、なんとなく気にしてしまっていただけなのだ。私はその土俵に立つ勇気もないだけだというのに。
「そういうお前は?」
「え?」
「彼氏、できたりしてないの? 華の女子大生」
「んー。なかなかうまくいかなくて。居たらこんな夕方にひとりで及川の迎えも来ないよ。それにもうすぐ就活、始まるし」
「ふーん、大変だねぇ大学生」
「10代でとんでもない決断をした及川には負けるよ」
「お前はお前で頑張ってるじゃん。そこに優劣はないっしょ」
思わずほっけの身をほぐしていた箸が止まった。また平気でこいつはこういうことを。気付かれない程度に出汁巻きに食いつく及川を見つめる。及川と離れて2年以上経っていて、私も私で新しいコミュニティで生活しているというのに、さも今まで近くで見てきました、みたいな言い方はほんと勘弁して欲しい。何も知らない癖して。
「あれ、頑張ってないの?」
「……そういうわけじゃないけど、なんか見てきたみたいに言うから」
「お前SNSあんま更新しないし正直近況はあんま知らんけど、高校の頃、岩ちゃんと一緒に、とっとと行きたいとこ行け! って豪快に俺の背中押したお前が頑張ってないわけないじゃん」
「……そんなことあったっけ。忘れちゃった」
「おいどうした自慢の記憶力」
これも、嘘だ。
あの時の教室から見えた夕焼けの色も、その夕日をバックに決めたって笑うむかつくくらい格好いい及川の顔も、岩泉の私を見る複雑そうな顔も全部全部覚えてる。
◇
「……いいのか」
そうと決まれば進路指導室行ってくるね〜と白いブレザーを翻し、颯爽と放課後の教室を駆けだしていく及川の背中を眺めて居たら、岩泉が言い辛そうに口を開いた。
「なにが?」
自分の席に座って、余計なお節介を働こうとする彼から目を背ける。
背けた先の窓には一面オレンジと赤で幻想的な夕焼けが広がっている。なんて言うんだっけ。こういう景色。ああ、そうだ。マジックアワーだ。なんてタイミングなんだろう。今日この時にこの景色を見なければ、私は今日のこの日のことをすぐに忘れてしまえたのに。
時折聞こえるトランペットの音。野球部のノック音。隣のクラスから聞こえる他愛もない笑い声。言い辛そうに聞いてくる思い人の親友。なんだろう。今この瞬間が、青春フルビンゴって感じでちょっとやそっとじゃ忘れられそうになかった。
「あの馬鹿、ほんとに行っちまうぞ」
「そりゃまぁたった今背中押したから、やっぱ行くのやめた、なんて言われたらあのへらへらした顔に一発いれたくなるよ」
「……そうじゃねえだろ」
静かに苛立ちを込めて呟かれた一言にごめん、と心の中で謝る。彼がこういう色恋沙汰が得意でないことを知っていて、のらりくらりと交わす私は本当にズルいと思う。
「……お前がいいなら何も言わねぇけどな、後悔しても知らねぇぞ」
「うん、ありがとう」
それだけ言って、じゃあ俺は帰るわ、と教室を出て行く岩泉はやっぱり優しいと思う。
けど違うんだ。違うんだよ岩泉。
後悔は、及川に会って、こんなズルい立場に居ることを選んだときから、ずっとしてるんだよ。
「あっれー? お前ひとり? 岩ちゃん先帰ったの?」
ガラリと教室の横開きのドアが開いて白いブレザーといつも通りの軽い声が顔を見せる。
薄情な男だねぇ本当に、と相変わらずふざけたことをいって、そのまま私の席の真ん前の椅子を引いて後ろ向きに座る。ムカつくくらい長い足が椅子の背もたれを挟んで飛び出して、私の上靴のつま先に触れた。
「……なに?」
「別に?」
思わず顔をあげると、及川は目を細めて笑っていた。そしてそのまま及川がくしゃりと私の頭を撫でてきたので、反射的に振り払う。
「待っててくれたんだ?」
「……先帰ったらうるさいくらいメッセージが来そうだし」
「はは、確かにね! 俺ならやる」
「進路部行ってきたんでしょ? なんて?」
「今度親連れて三者面談。ま、でも、俺の意思は尊重してくれる感じ」
「そっか」
じゃあ本当に行くんだね、と喉元まででかかって飲み込んだ。すっきりした顔でアルゼンチンへの夢を話す及川に私が何かいえるものでもない。
この男と性別関係なくくだらない話ができるようになって早2年。俺女友達初めてかも、なんて屈託のない笑顔で言われて早2年。岩泉に色んな感情がバレてしまって早半年。このくだらない関係を続けられるまであと──やめよう。考えても虚しくなるだけだ。
「──って、聞いてる?」
「わ、ちょっ、近い!!」
ぼんやりくだらないことを考えていたら及川に下から顔を覗き込まれていた。座っているからこそできる距離感にびくつくと、乙女〜と訳のわからないからかいかたをしてきた。離れて、と言っても聞く耳を持つ気はないらしく、上目遣いで私の顔を見てくる及川に思わずたじろぐ。
「んー。やっぱ気のせいか」
「なにが?」
納得したらしく、私から距離を取り及川は前の机にもたれかかった。
橙の夕陽が及川の髪に反射して、ただでさえ薄い及川の髪の色がキラキラに光る。そういえば、入学して初めて体育館で及川を見たときもこんな風にキラキラに輝いていた。あれを見て、何故サッカー部や野球部の子達じゃなくて、及川が女子に騒がれるのかわかった気がした。
差し込む夕日に、汗が光って、ただ真剣にボールをあげて跳ぶ姿に、その他の女子同様ただ単純に恋に落ちた。それがなんの因果か、及川徹初の女友達の座についてしまった私は、今でもこの距離に居るだけで胸がうるさいことに、きっと及川は気付いていないと思いたい。
「なんかささっき教室入ったとき、お前泣いてる気がしたから」
「……泣いてないよ? そりゃあ多少センチメンタルになったりはしたけど、及川の為になんて泣かないよ?」
「だよねー。だから俺の勘違い。それと、願望」
「……願望?」
野球部のノック音とかけ声が止まる。聞こえていたトランペットもいつのまにか聞こえなくなった。そのせいか放課後の橙に染まる教室に、及川の声と私の声だけが静かに響いていく。
「多分ね、こいつは泣かずにどっちかっていうと怒るからさ、」
ブレザーのポケットから取り出されたスマホ。誰のことかはわかった。最近できた及川の彼女だ。告白されたからオッケーした、といかにも軽いノリで岩泉と私に報告してきたのはまだ記憶に新しい。
「だから、お前が泣いてくれたらすげえ嬉しいなってなんか思った。なんでかはよくわかんないけど」
なにそれ、と小さく呟くと及川は笑った。黙っていれば及川はアリなのに、と女バレの子達から言われるその顔で。穏やかに、綺麗に優しく笑うから。自分には綺麗な彼女が居るくせに、そんなことを平気で言ってくるから。
「……泣き顔なんか見てどうすんのよ」
「どうしようね。お前はどうして欲しい?」
「どうしてって……」
及川の左手がゆっくりと私に向かって手が伸びてくる。まるでこの橙の空間に魔法がかかったように、ゆっくりと。
綺麗に整えられた爪。本人はただのお洒落だとかなんとか言うけれど、あれはバレーボールのためだって岩泉が言っていた。
普段はおちゃらけてる癖に時折見せるバカ真面目な顔。そんな顔しないで欲しい。そんな顔されたらこの気恥ずかしい空間をごまかせなくなる。
身動きも、瞬きもできないままただひたすらに近づいてくる及川を呆然と見つめるしかなくなるから。
──ピピピピ
尖っていない丸い爪先が静かに私の頬にかすかに触れた時に、無機質な着信音と振動が静寂を切り裂いて、近付いた手が我に返ったように、止まった。
「おいかわ」
「うん」
「おいかわ、スマホ」
「……うん、知ってる」
僅かに触れられた頬は熱を持って熱い。
行き場をなくした及川の左手はそのまま上へあがり、私の髪をくしゃりといつものように撫でてから、億劫そうに自分の髪をかき上げた。
ちらりと横目で振動を続けるスマホを確認して、静かに親指で右にスワイプ。ああ、今ので相手が誰だかわかってしまった。
「……彼女?」
「あーうん」
「行ったら?」
「うん」
「及川」
「うん」
「及川?」
何かを考え込むように及川は自分の左手を見つめて、立ち上がろうとしなかった。
「あー…なら、私が帰るね」
先程とは少し温度の違う沈黙に耐えられなくなったのは私の方だった。椅子をがたっと引いて立ち上がると剥き出しの膝小僧に冷たい風を感じる。机の横に掛けていた使い古したスクールバッグを手に取ると、ようやく及川が顔をあげた。
「帰んの?」
「うん。だって及川の彼女、多分だけど、まだ学校居るでしょ? 岩泉と3人ならまだしも変な誤解されたくないし」
「日、落ちてきてる。送ってあげられないけど平気?」
「あのね、いつもこうゆう時岩泉に任せるか、ひとりで帰してたじゃん。何を今さら」
窓の外を見ると、橙に染まる魔法の時間は終わって、どこか薄暗くなっていた。そのお陰で私の少し火照った顔も及川が今どんな顔をしているのかも全く見えない。ただ何かを考え込むように「……確かに」と及川が静かに呟いたような気がした。
「……ねえこれだけ聞きたいんだけど」
じゃあまた、と決まり文句と同時に背を向けるとブレザーの裾を掴まれた。
「正直なとこ、俺が海外行くって行ったときどう思った?」
「どうって」
「いいから」
そんなに強く掴まれていないはずなのに、私はその場から動けなくなった。及川が何を望んでいるのかがわからない。ただ、何かに縋るような、確かめるような目をしてくる及川に嘘をついたら、もう2度とこの関係には戻れない気がした。
本音を言えば、寂しい。ずっと隣で馬鹿をやっていて欲しい。行かないでよって私の方が縋りたい。
けれども、そんなこと言えるわけがない。
お前は俺の貴重な女友達なんだからね! って何かある度裏表のない笑顔で言われたことが蘇る。
だから、嘘じゃない。
嘘はつかないけど、言えるところだけ、本音を話すだけで許して欲しい。
「バカだし、すごいなって思ったけど」
何それ悪口じゃん、と及川がふて腐れる。
「とても及川らしい選択でとても格好いいなと思ってるよ。……友達として、めちゃくちゃ自慢だし誇り」
どうか最後の言葉はすんなりだまされて欲しい。薄暗い教室の中で及川の柔らかい茶髪が鈍く光る。掴まれていたブレザーが解放されて、急に外から光が差し込んできた。ああ、野球部の外野のライト。もうそんな時間なんだ。
「俺岩ちゃんによくバカって言われるんだけどさ」
「うん知ってる」
「まぁ言われながらもうっせ! 岩ちゃんの阿呆と心の中だったり、実際に言い返したりしてんだけど、まあなんていうか、気づいてしまった訳なんですよ」
ブレザーは外された、物理的な弊害は何もない。それなのに私はただ相槌を打ちながら、及川の話を聞いていた。何を言いたいんだろう。及川のブレザーのポケットが僅かながらに振動している気がする。
「ねえ、及川スマホ鳴って──ってなに!?」
私が言い終わらないうちに及川はその大きな左手で私の頭をぐしゃぐしゃにしてきた。いつものように優しくぽんとするのではなくて、容赦なく頭をわしゃわしゃと。
さすがに腹が立って乱りに乱してくるその手を振り払おうと右手を挙げたら、なんのことなく軽く手を掴まれた。そして、そのまま及川の指1本1本が私の指と指の間に入り込んで強く握られる。そのまま壁に追いやられて、自然と及川を見上げる体勢になった。
「おいかわ、あの、手」
「──ありがとね」
今まで見たことがないくらい穏やかな笑顔だった。
それは何に対して、だとか、それとも別の意味を含んでいるのか、だとか頭の中で色んな考えが飛び交うけれども、どれも言葉にする勇気は私にはなかった。
指の合間に挟まっていた及川の指が私の手を再び強くぎゅっと握ってくる。突然のことで動揺する私にお構いなしに、その手は名残惜しむことなく離れていった。
「──お前が友達でほんとよかったよ」
先程の笑顔と同じくらい穏やかに続けられた言葉。その言葉に及川が私に何を望んでいるのかわかってしまった。それは私の悲しいかな嘘の望みと全く同じで。こちらの気持ちに気付かれたのかもしれないし、気付いていないかもしれない。それでも、答えはいずれにしろ変わらない。
「そりゃあまぁ、及川徹の人生初の女友達ですから!」
あの時の私は笑えていただろうか。
自慢の記憶力を持つ私でもそこばっかりはどうだったか覚えていない。
◇
「へぇ遠征先のブラジルで日本の知り合いに会うなんてすごすぎない?」
「でしょ? さすがに世間狭すぎて笑ったわ」
まだ話足りない。1軒目を出たときどちらかがそう言った訳ではないけれども、自然と話題は次にどこ行くかというものだった。そしてなんとなくで入ったのは、及川の泊まっているホテルの地下にあるバーだった。地下へと続くらせん階段を下りた先に広がる世界は、いかにも恋人たちが駆け引きを楽しむような間接照明が眩しい世界で、大衆居酒屋がホームである私にとってはほど遠い世界だった。少し緊張しつつも、素知らぬ顔でバーに足を踏み入れたら、隣の及川に「顔に出すぎ。お子ちゃま〜」と吹き出された。うるさい。ほっとけ。同じようにからかい返そうと思ったのになんだか及川は慣れているようで余裕の顔をしていた。やっぱりそうか。今も昔も大層おモテになられることだ。
「こういうとこデートで来たりしないの?」
さり気なくカウンターのスツールを引かれてしまい、少しむず痒さを感じながらも及川の横に座る。
「あのね、大学生の懐事情舐めてるでしょ。学生はタッチパネルで注文したり、カクテルは来る度味の変わる店に行くことが多いんです。こういう金額が表立って出ていないところは滅多に行かないんです」
「ほう。それは可哀想に。なら一足先に社会人となった及川さんが大人の世界を教えたる」
「それはどうもありがとう!」
「って! お前ね!」
そんなことをニヤニヤしながら言うものだから少しだけ腹が立って無駄に長いスツールでぷらぷらさせている足を軽く蹴ったら、大袈裟に痛がられた。
いかにも素敵な年の取り方をしています、という風貌のバーテンダーさんがそんな私たちを微笑ましく見つつ「ご注文はどうされますか?」とオーダーを尋ねてくる。
「プッシーフットと…お前、どうする?」
「……うーん、慣れてないから適当にオーダーしてくれると助かる」
「了解。じゃあこの子にシンデレラをお願いします」
「は!?」
ちょうどメッセージアプリの通知が来たから、スマホを見ようとしていたところだった。あまりにメルヘンな名前のカクテルを注文されて下をむきかけた顔がそのまま真横に向いてしまった。何その乙女なカクテルは。
思った以上のボリュームの声が出てしまい、呆れた及川の顔が目に入る。
「おまえね、声でかい」
「……ごめん、つい」
そんな場違いな私と及川に優しく微笑んでから、「畏まりました」と恭しく頭を下げて棚の酒瓶を取るため、背中を向けた。
「……で、その不思議そうな顔はなんなわけ」
「及川の中で私はそんなイメージだと思わなくて」
「いやいやぴったりだって。だって、お前終電には帰るでしょ?」
終電。急に現実的な言葉が聞こえてきて、手許にあったスマホで時間を確認する。確かに、あと数時間もすれば終電だ。うん。確かに帰らなきゃ。
「さすがに俺も距離的に家まで送ることはできないし? 大事なだーいじな女友達を酔っぱらわせて帰らせるわけにはいかないからね」
ってなわけで、とまるで謀ったかのようなタイミングで私と及川の前に2つのカクテルグラスが差し出された。くすみがかったオレンジと鮮やかなオレンジ。見ているだけでも心が躍るような2つの橙に自然と顔も綻んでくる。と思っていたらやや斜め上から視線を感じた。
「……なに」
「べーつに? そんな嬉しそうな顔で見ちゃうからお前はシンデレラなんだよ」
「全力で馬鹿にしてるでしょ」
「さあ、どうでしょー?」
気恥ずかしい名前を連呼され、誤魔化すように鮮やかなオレンジに口をつけると、口の中に甘酸っぱさが広がる。予想以上飲みやすさにもう一度口を潤す。2度飲んでもふわふわするようなアルコールの感覚がやってこない。左を見るとニコニコ顔の及川。これ、もしかしてしなくても。
「あ、気付いちゃった?」
「……私、いちお成人してるんだけど」
「さっき美味しそうにビール飲んでたから充分知ってる。でも、さっきも言ったっしょ? 大事な女友達を酔っぱらわせて帰らせるわけにはいかないって」
「あのね、大学でも飲み会とかしょっちゅう参加してるし、限度超えるまで飲ま──」
「はーいそこまで」
及川の人差し指がぴとっと私の唇に止まる。
相変わらず綺麗に手入れされたささくれひとつない人差し指。こんなキザな動作が嫌なくらい様になることを私は出会ったときから知っている。
「それだけじゃなくてさ、俺とお前の関係は酒なんかなくても何でも話せる関係だと思ってたのは俺の自惚れ?」
「……自惚れじゃない、けど」
「だしょ?」
ずるい聞き方だ。おちゃらけていたと思ったら、急に大真面目なトーンの声でそんなことを言いだしたりして。そしてそんな嬉しそうな顔でまた私の頭を撫でてきたりして。
知ってる? 及川。
日本の健全な大学生は、そんな過度にスキンシップはしたりしないよ。少なくとも、「友達」という範疇に居るのなら。
それを過度に嫌がるわけでもなく、甘んじて受けている私と、この関係を友情と呼んでいる及川とでは「何でも話せる関係」になんてなれるわけないんだよ。
「……なんか話逸らされた気がする」
「気のせい気のせい。ほら、俺のも飲んでみる? ……っとごめん。親から電話入った。ちょっとでてきてもいい?」
「うんもちろん」
「ありがと。あ、知らない人に話しかけられてもうかうか着いていかないこと! あとカウンターで知らないお酒を勧められても勝手に飲まな」
「ああもうわかったから、とっとと行く!」
大人しくスマホを持って外に向かえばいいのに、やかましくなんやかんや囃し立てる及川を適当にいなすと、急にカウンターには静寂が訪れた。
お互いもう成人して数年経ってる。別に卒業しては会うのは初めてじゃ──ああ、違った。卒業して二人きりで会うのは初めてだ。なのに、この変わらない距離感はなんだろう。
この飾らない、変わらない距離を嬉しいと思う反面、変えられないもどかしさに胸が苦しくなる。
目の前に置かれた鮮やかなオレンジ色の液体。女の子が夢見る話の王道「シンデレラ」。かの童話の主人公は、靴を落として、王子に見つけて貰うんだっけ。
もしかしたらあれは『待っていれば王子さまが来る』というお話ではなくて、『それくらいわざとらしいことをしないと恋愛は成就しない』という教訓を伝えてるんじゃなかろうか。特に『女友達』だなんて、ずるくて居心地のいいぬるま湯のようなポジションに居続ける私にしたら。
なんとなしにカウンターに項垂れると、私が飲んでる明るい子どものようなオレンジとは違う、及川のすこしくすんだ大人のようなオレンジに目が止まった。
3年前に成人して、高校の頃より色んな人と知り合って、少しだけ世界が広がって、ちょっとズルいことも覚えて、大人になったような気がしていた。でも違った。自分の力だけで戦っている及川に少しでも追いつきたくて、少し近付いたかな、なんて思っても実際に会うと及川はどんどん先にひとりで大人になって。大人になってる癖に、俺は変わってないとでも言いたげにあの頃みたいに接してくるから。
だから。
静かに鎮座している大人のような橙に手を伸ばして、一気に喉に流し込んだ。
やってくるフワフワした感覚。初めてお酒を飲んだ時のような高揚感。甘くて、それでいてどろっとしたものが喉にこびりついて気持ち悪い。こんなに強い酒を一気に飲んだのは初めてかもしれない。
これがガラスの靴になればいい。そんな馬鹿なことを思う私はやはりどこか酔っていて。お酒に頼らないと関係を崩すことさえできない子どもな私は、ゆっくりと目を瞑ってカウンターに頭を預けた。
「──え、ちょっ、どしたの!?」
肩が揺すられる前にやや小走りで近付いてくる足音が聞こえた気がする。そして及川が私の名前を呼ぶ声も。及川に名前を呼ばれるのなんて何年ぶりだろう。気がつけばいつの間にかお前としか呼ばれてなかったから、なんだかとても懐かしい気がする。心配そうに私の顔を覗き込んでくる及川と目が合って、胸がチクリと傷む。
「……ごめん。飲み過ぎて気持ち悪くなっただけ」
「……誰かに何か飲まされた?」
「ううん。及川の頼んでた奴飲んだらなんか酔っちゃって」
嘘は、ついていない。
予想以上に真面目なトーンで返ってきた及川の声に内心驚きながらも、空になりかけのカクテルグラスを指す。
「俺の……?」
「うん」
「……ここにあったプッシーフットで?」
「うん」
聞こえてきた声は随分と訝しげだったけれども、心配の色は少し薄れているようだった。でも、ここからが正念場だ。アルコールで頭の中がフワフワしている筈なのに、妙に頭はクリアになって、心臓の音は馬鹿みたいにうるさい。
「……あのねだから、及川の部屋で」
「わかった。行こ」
「え!?」
──及川の部屋で少し休ませて欲しい。
そう、声に出そうとしたのに、その言葉は最後まで発声されることなく及川の手によって消えてしまった。やや強引に右手を掴まれ、その勢いのままスツールから立たされ、足早にバーの出口へと連れて行かれる。
その勢いのまま連れてこられたのは、来る途中に使ったらせん階段じゃなくて、宿泊者専用のエレベーター。私の手を掴んでいない手で手早くカードキーでタッチパネルを操作すると、あれよあれよという間に動く密室に押し込まれた。
「……及、川?」
「気持ち悪いなら話さない方がいいんじゃない?」
名前を呼ぶと早口でまくし立てられた。エレベーター内の照明は薄暗く及川の顔はなにもみえない。ただ滅多に聞いたことがないその声色はどこか怒っているようにさえ感じて、今さらながら自分の選んだ選択肢は間違っていたのではないかと思ってしまう。無理に強い酒を飲んで酔っ払うなんて、馬鹿なこと。
そう思えば思うほど、酔っているはずの頭はどんどんクリアになっていく。
何やってるんだろう私。帰国した早々疲れている及川に迷惑をかけて。何をやって──。
「ごめん、及川。私、下のカフェで休んで帰れるから、やっぱり──」
チン、という落ち着いた到着音がエレベーター内に響く。薄暗かったエレベーターに扉が開いて人工的な明かりが差していく。明かりが差して見えなかった及川の顔がどんどん鮮明になっていく。
「とりあえず、部屋おいで。ちょっと、話そ」
怒っていると思っていた及川の顔は、困ったよう笑っていて、その顔はなんていうか初めて見る顔だった。けれどその顔とは裏腹に掴まれている手は外される気配は全くなかった。
「あー…っと、座れるとこ座って」
備え付けの冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターをゆっくりと放り投げられて、慌ててそれを受け取る。座れるとこと言っても、目につくのは部屋の半分を占めるであろうダブルベッドとソファがひとつ。シティホテルとしては一般的なつくりだけれど、賽を投げたはずなのは私なのに、その生々しさに圧倒されてしまう。けれどいつまでも入り口で立ち尽くすわけにもいかないので、やむを得ずダブルベッドの端に浅く座ると、及川は奥にあるひとり掛けのソファに深く座った。
「とりあえず、水、ゆっくりでいいから飲みな? 気持ち悪かったら洗面所使っていいから」
ペットボトルの蓋を開けて、水を流し込む。冷たい水が口内を潤していく。ごくん、と喉を鳴らす音が室内に響いてから及川は口を開いた。
「……俺、お前のそういう話、あんま聞きたくないんだけどさ」
「……そういう話?」
「男だとか、セックスだとかそういうの」
直接的な単語に心臓が高鳴った。ただ及川は
私の目を逸らすことなく、話を続けている。
「なんかあったわけ? あんな古典的な誘いするくらいの、なにか」
「違」
私の否定の言葉が入る隙間なんてものはどこにもなかった。というより及川はその言葉は届いていないようで苛立つように続けた。
「正直すっごい腹立ったね。俺はお前のことこんな大事に思ってんのに、お前の中で俺は一夜限りで使い捨ててもいいような男なのかって。わかってんの? さすがにいくら俺でも1度抱いたらもう友達になんて大人しく戻るつもりないからね。特に相手がお前ならなおのこと」
茶化すわけでもなく、ただ淡々と。
「今まで俺と積み上げてきた関係を全部壊してもいいと思えるほど惚れ込んだ男が居るっていうのがほんとに腹立つ」
なんて残酷な言葉だと思った。少しでもこの関係の均衡が崩れればいい。そう思ってあの橙に手を伸ばしたのに、突きつけられたのはどうしようもない現実で。及川は私を女友達としてどうしようもなく大切にしてくれていて。それがどうしようもなく。だから。だから。
「……及川のことが、好き」
口から漏れ出た言葉は至極単純なものだった。やや俯きがちだった及川の頭がその言葉であがる。
「うん、知ってる。そんなの今さら言われなくたって──」
「違う!」
自分でも思った以上の声が出た。いつかの教室で及川が私にしたように、ゆっくりと手を伸ばす。指先が微かに震える。どうしたら、この男に気持ちが正確に伝わるのだろうか。
「……おいかわのことが、すき」
どうしよう声まで震えてしまった。いっそ泣き出したいくらいだった。まるで信じられないものを見るような及川の顔。たった数秒間のできごとなのに、その時間はとても長く、息が詰まりそうだった。
「ひとつ確認したいんだけど……」
差しのばした手をゆっくりと絡め取られて、そのまま強引に引き寄せられ、そのまま目線を合わせられた。唐突に縮められた距離に鼓動が煩い。
「お前の好き、は、俺とキスとかセックスとかしたくなるくらいの好き、であってる?」
「なに、その、聞き方」
「大事なことだからちゃんと教えて。もうお前泣かせたくないし」
及川が何か話す度、吐息が顔にかかってくすぐったい。手は絡められて、引き寄せられた上半身はもう半分及川の上に乗っていて、少しでも顔が近付けば、唇があたりそうで。そんな状態でそんなことを聞いてくる及川は本当にタチが悪いと思う。
「……うん」
小さく頷くと絡まっていた手が解かれ、後頭部に回った。私の頭を軽々と包み込む大きな手が、ゆっくりと髪を梳いていく。
「そっか」
「うん」
「そっか」
「うん」
「…そっか!」
繰り返される応答は繰り返される度どんどん語気が弾んでいった。梳かれていた手が止まり、頬を両手で挟まれて強制的に目を合わせられた。ただでさえ酔った状態で頬が赤くなっているというのに、逃げ場をなくされてますます顔が火照っていくのを感じた。
「俺も、好きだよ。同じ意味で。それこそずっと前から」
──やっと、ちゃんと触れる。
ゆっくりと抱き締められて、私の首筋に及川の顔が埋まる。存在を確かめるように強く抱き締められて、数十秒。そのまままた強制的に目を合わせられて、どんどん顔が近付いてきて、堪らず目を瞑ると額に軽い衝撃が走った。
「った!! なんでデコピン!?」
「んー? 嬉しいけどまだ腹立ってるから。キス待ち顔も可愛かったけどやっぱり腹立つからお預けね」
にこやかに笑っているように見えても、この笑顔は心から笑っていない顔だ。
「ノンアルコールのプッシーフットで酔っ払ったとかしょうもない嘘ついて心配かける子には簡単にキスなんてしてやんない」
「え……待って…ノンアルコール…?」
頭の中が真っ白になっていく。飲んだ瞬間頭の中がふわふわした。喉にどろっとしたものがこびりついて、瞬時にやってきた気持ち悪さはアルコールのそれだと思ったけど、そうじゃなかった……?
「あっきれた。まじでアルコールだと思ってたの?」
嘘でしょ? と言わんばかりの顔。及川の無駄に整った顔が近くにあるというのに正直今はそれどころじゃない。えっとつまり私はアルコールの入っていないお酒で酔ったとか言っていた馬鹿みたいなことを本気で言っていたわけで。
「……穴があったら入りたい。というか恥ずかしすぎてもう今すぐ及川の前から居なくなりたい」
「それはやだね。居なくなられたら困る。どれだけ我慢し続けたと思ってんの。高校ん時お前のこと好きだって気付いたはいいもの、離れること確定してる上に手を出して拗らせるのが嫌で、友達の距離をキープしようとし続けた俺の気持ちわかる?」
──今日なんで俺がプッシーフット飲んでたと思ってんの。酒の勢いで手を出していい相手じゃないのお前。
再び首筋に顔を埋められる。
これでもお前の1番の男友達で居続けるの必死だったんだよ、という及川の顔は私から見えない。
「及川って……私が思うより不器用だった?」
「どうだろね。でもお前はお前が思ってるより嘘が下手だからね」
「なにそれ」
「嘘つくとき少し泣きそうな顔をする。高校で二人きりで残ってたとき、ずっと泣きそうな顔してた」
「してない」
「してた」
「してないって」
「してたって」
「具体的にいつよ!?」
「いいよ? なんなら、地球が何回回ったときかも具体的に教えたる」
くだらない押し問答が何回か続いてその馬鹿馬鹿しさに急にふたりとも吹き出した。何これ、ばっかみたいじゃんなんてふたりで笑ったら、何回目かわからない及川の両手が私の頬を包み込んだ。柔らかい目。見つめられるだけで甘く、蕩けそうな。
「……簡単にキスしないんじゃなかったの」
「……どうだろうね。お前はどうしてほしい?」
いつぞやのオレンジに染まる教室を彷彿とする言葉にあの頃の私が泣きそうになった。何もできずに誤魔化していた頃の高校生の私。それはつい先程までも変わらなかったはずなのに、無理やりに飲んだオレンジが胸を埋め尽くして、そんな過去の自分を笑い飛ばしそうになっている。
「どうって……」
あの時言えなかった言葉を私はゆっくりと紡ごうと口が動く。魔法なんてあやふやなものはそこにはなくて、ガラスの靴なんて都合のいいものは何もない。ただ目の前の及川徹にひたすら触れたくて私は手を伸ばした。
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余談 カクテル言葉
シンデレラ…夢見る少女
プッシーフット…日和見主義者、煮え切らない人