幸せの最低条件
くるくるくるくる。
少し量の減ったアイスコーヒーにガムシロップを投入する。
ああ、甘い。甘すぎて胸やけがしそう。まるで目の前の男のようだ。
「おかわりはよろしいですか?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
笑顔で追加オーダーをゴリ押ししてくるのは、金髪碧眼の最近巷の女子高生の間で噂のイケメン店員。その正体は、私の上司でもあって警察学校の同期でもあって、まぁ色んな表現はあるけれど、簡単に言えば付き合いの長い彼氏様だ。別案件で多忙な風見さんに代わって言づてに来たのは良いものの、こうも笑顔のバーゲンセールをされると調子が狂ってしまう。あんたほんと誰だ、という目で見ていたのがバレたのか
「また何かありましたらお呼びください」と笑顔で会釈された。
「安室さん、よかったら休憩入ってください」「そんな梓さんおさきにどうぞ」「あむぴー注文したいでーす」
可愛い店員さんと笑顔で優しいやりとりして、女子高生から黄色い声援を浴びて。どれもこれもその綺麗な顔が歪むことはない。相変わらず面の皮が厚いことだ。
「きゃっ」
「危ない!」
可愛い悲鳴とともに『梓さん』が抱えていたお盆がバランスを崩して宙に浮いた。それを予期していたかのように安室透はお盆を掴んで転びかけた彼女を支える。本当に一瞬の出来事で、店内には一瞬静寂が訪れたが、すぐさま女子高生からの歓声で賑わった。
「さすがあむぴー」
「大丈夫ですか、梓さん」
「すみません安室さんありがとうございます」
しきりにお礼を言う彼女に少しだけ照れた表情を見せて。愛の言葉を囁き合うわけでもない、なんでもない日常の喫茶店でのワンシーンだ。温かく陽だまりにいるような、優しく、そして甘い。
くるくるくるくる。
入れすぎたガムシロップのせいか、イライラとした胸焼けは止まらなかった。
◇
その夜。庁舎に戻ってキーボードをタイプするも、胸やけはどうも収まらない。原因不明のもやもやを当てつけるかのように、溜まった報告書を処理していると、斜め前に座る風見さんに眉をひそめられた。
「うるさかったですか。すみません」
「お前はエンターキーを壊す気か」
呆れたようなため息ひとつ。
元来なんだかんだで面倒見のよい人だ。ポアロから帰ってきた私を見て思うところがあったのだろう、彼のデスクに常備しているチョコレートを差しだされるも、胸やけがしているからと丁重に断った。
「胸やけか」
「なんですか」
「いや、なんでもない」
口直しに常備しているミントタブレットを噛み砕いても、このムカつきは取れない。ああもういっそのこと、キーボード壊して始末書でも書いてやろうかと思うほど頭の中はスッキリしない。何にイライラしているのかは自分でももはやわからない。ディスプレイと睨めっこしていると、スマホにメッセージが届いた。
『2階 第3会議室』とだけ書かれた簡潔なメッセージ。見た瞬間、舌打ちすると斜め前に座る上司から「降谷さんか」と呆れた顔で確認が入る。その問いかけに「…そうですけど」と頷き、メールを無視してキーボードを叩くと今度は咎めるような声が聞こえてきた。
「──行ってこい」
これ以上お前の不機嫌に付き合わされたくない、と言外に含ませた言葉を受け私は渋々席を立った。
「遅かったな」
指定された場所へ向かうと、会議室の扉に凭れる降谷が居た。
仕立てのいいグレイのスーツに律儀に結ばれた紺のネクタイ。昼間みた安室透の姿はどこにもなく、ただそこにいるのは私の知っている降谷零だった。
「報告は先ほどの通りですが、何か不明点でも」
「いや」
「では何か緊急の用件でも」
もしそうなら、メールではなく直接お電話頂いた方がはやいのですが、と早口にまくし立てると上司様の綺麗な眉間に皺が寄る。そのご尊顔を見ているのが嫌になり視線を外すと手首を掴まれた。
「何か、あったのか」
「降谷さんに特筆報告すべきことは何も」
「そんなことを聞いてるんじゃない」
掴まれている手首に力が入る。離して下さい、と目で訴えるもその訴えは通りそうにない。庁舎から見える景色は真っ暗で、昼間のあの喫茶店に居たときとは大違いだ。もたれ掛かった壁は冷たくて昼間の優しい陽だまりからはほど遠い。
出会った頃から変わらない意志が強くて正義感の塊みたいな瞳。この暗がりの中でも降谷の髪は鈍く輝く。沈黙を貫こうとする私に根負けしたのか、手首の拘束がやや弱まる。
「……悪い。仕事の話じゃない。昼間もどことなくお前の様子がおかしい気がしたから気になった」
最近時間取れてないし余計にな、と降谷の眉尻が穏やかに下がる。「ゼロ」の降谷零ではなくただの「降谷零」になった表情に私の中の苛立ちも少し和らいだ。こんな顔を見るのはいつ振りだろうか。
「10分くらい離れても問題ないだろう。少しコーヒー付き合え」
誘われるがままに連れて来られたカフェスペース。そしてそこで缶コーヒーを投げられた。安室透の働く喫茶店の5分の1にも満たない缶コーヒーを片手で玩ぶ。だめだ。今日は何をしていても安室透が浮かんでくる。薄々は勘づいていたが、どうやらこの胸のむかつきの原因は安室透にありそうだ。
「…降谷はさ、いっそ安室透になりたいって考えたことある?」
「は?」
支離滅裂なことを言っているのはわかっている。私の中でも気持ちを上手く表現できない。コーヒーを啜りながら、それでも話を真剣に聞こうとする降谷の姿勢に甘えて私は続けた。
「今日潜入先の喫茶店…えっとポアロだっけ? あそこに初めて行って、ちゃんとまともに安室透に会ってさ、ああ、ここは血生臭いものや人の醜い騙しあいだとかとはほど遠い素敵な場所だなって思ったの」
「……それで?」
「降谷が店員の可愛いお姉さんと笑いあってるのを見て、なんだろうな、少しだけ悔しかった」
「……榎本梓に嫉妬したのか?」
「んーなんていうかな。そういうのでもないんだけど」
お似合いのふたりの姿に嫉妬したといえばそうなのかもしれない。だが、以前クリスヴィンヤードと二人でいるところを目撃してもなんとも思わなかった。あの時はひたすら血生臭さやどす黒いものに囲まれたあんなコードネームを早く捨てさせないととすら思っていた。
恐らくこの気持ちは。
「私さ、降谷には幸せになって欲しくて、ほんと自分でも何を言っているんだと言う話なんだけど、今の降谷零より安室透のままでいる方が幸せになれるかなとか考えてしまったの」
言ってしまった。口に出すと胸のつっかえは取れたが、降谷の反応を見るのが少し怖かった。呆れられるか、それが俺の仕事だと窘められるか。いずれにせよ、目線を缶コーヒーから上げるのが少し怖い。馬鹿なことを言っているのは重々承知しているが、それ以上に私はこの目の前の男が好きなのだ。親しい間柄には横柄で、面倒くさくて、悲しいとか辛いだとか負の感情を出すのが下手くそなこの男が好きなのだ。愛した男の幸せくらい願って何が悪いのだ。
「でもその世界にお前はいないだろ」
聞こえてきたアルトに顔をあげると、何馬鹿なことを言っているんだと言わんばかりの降谷が私を見ていた。
ただ、その目は真剣で。
「お前の居ない安室透の世界で生きたところで俺は何も楽しくない、というか、何も得るものがないし、そんな馬鹿な事で悩んでくれるお前と生きたいんだよ。それが俺の幸せの最低条件だ」
ああ、もう、ずるい。
その一言で私の中に生まれた不純物は綺麗に浄化されてしまった。二の句が継げずに固まる私を降谷は強引に腕を掴んで引き寄せる。珈琲と香水が混じり合った降谷独特の匂いはひさしぶりだった。
「──残り三分を切った。たまには素直に抱きしめさせろ。今はこれだけで俺は幸せだから」
どうか二人で珈琲を淹れて笑って過ごせるような穏やかな日が来ますよう。
そんな日々を二人で作れるよう、私は
三分間の短くも長い幸せに腕を回した。投げられた缶コーヒーのおかげなのか降谷零のせいなのか、胸やけはいつの間にか綺麗に解消されていた。
少し量の減ったアイスコーヒーにガムシロップを投入する。
ああ、甘い。甘すぎて胸やけがしそう。まるで目の前の男のようだ。
「おかわりはよろしいですか?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
笑顔で追加オーダーをゴリ押ししてくるのは、金髪碧眼の最近巷の女子高生の間で噂のイケメン店員。その正体は、私の上司でもあって警察学校の同期でもあって、まぁ色んな表現はあるけれど、簡単に言えば付き合いの長い彼氏様だ。別案件で多忙な風見さんに代わって言づてに来たのは良いものの、こうも笑顔のバーゲンセールをされると調子が狂ってしまう。あんたほんと誰だ、という目で見ていたのがバレたのか
「また何かありましたらお呼びください」と笑顔で会釈された。
「安室さん、よかったら休憩入ってください」「そんな梓さんおさきにどうぞ」「あむぴー注文したいでーす」
可愛い店員さんと笑顔で優しいやりとりして、女子高生から黄色い声援を浴びて。どれもこれもその綺麗な顔が歪むことはない。相変わらず面の皮が厚いことだ。
「きゃっ」
「危ない!」
可愛い悲鳴とともに『梓さん』が抱えていたお盆がバランスを崩して宙に浮いた。それを予期していたかのように安室透はお盆を掴んで転びかけた彼女を支える。本当に一瞬の出来事で、店内には一瞬静寂が訪れたが、すぐさま女子高生からの歓声で賑わった。
「さすがあむぴー」
「大丈夫ですか、梓さん」
「すみません安室さんありがとうございます」
しきりにお礼を言う彼女に少しだけ照れた表情を見せて。愛の言葉を囁き合うわけでもない、なんでもない日常の喫茶店でのワンシーンだ。温かく陽だまりにいるような、優しく、そして甘い。
くるくるくるくる。
入れすぎたガムシロップのせいか、イライラとした胸焼けは止まらなかった。
◇
その夜。庁舎に戻ってキーボードをタイプするも、胸やけはどうも収まらない。原因不明のもやもやを当てつけるかのように、溜まった報告書を処理していると、斜め前に座る風見さんに眉をひそめられた。
「うるさかったですか。すみません」
「お前はエンターキーを壊す気か」
呆れたようなため息ひとつ。
元来なんだかんだで面倒見のよい人だ。ポアロから帰ってきた私を見て思うところがあったのだろう、彼のデスクに常備しているチョコレートを差しだされるも、胸やけがしているからと丁重に断った。
「胸やけか」
「なんですか」
「いや、なんでもない」
口直しに常備しているミントタブレットを噛み砕いても、このムカつきは取れない。ああもういっそのこと、キーボード壊して始末書でも書いてやろうかと思うほど頭の中はスッキリしない。何にイライラしているのかは自分でももはやわからない。ディスプレイと睨めっこしていると、スマホにメッセージが届いた。
『2階 第3会議室』とだけ書かれた簡潔なメッセージ。見た瞬間、舌打ちすると斜め前に座る上司から「降谷さんか」と呆れた顔で確認が入る。その問いかけに「…そうですけど」と頷き、メールを無視してキーボードを叩くと今度は咎めるような声が聞こえてきた。
「──行ってこい」
これ以上お前の不機嫌に付き合わされたくない、と言外に含ませた言葉を受け私は渋々席を立った。
「遅かったな」
指定された場所へ向かうと、会議室の扉に凭れる降谷が居た。
仕立てのいいグレイのスーツに律儀に結ばれた紺のネクタイ。昼間みた安室透の姿はどこにもなく、ただそこにいるのは私の知っている降谷零だった。
「報告は先ほどの通りですが、何か不明点でも」
「いや」
「では何か緊急の用件でも」
もしそうなら、メールではなく直接お電話頂いた方がはやいのですが、と早口にまくし立てると上司様の綺麗な眉間に皺が寄る。そのご尊顔を見ているのが嫌になり視線を外すと手首を掴まれた。
「何か、あったのか」
「降谷さんに特筆報告すべきことは何も」
「そんなことを聞いてるんじゃない」
掴まれている手首に力が入る。離して下さい、と目で訴えるもその訴えは通りそうにない。庁舎から見える景色は真っ暗で、昼間のあの喫茶店に居たときとは大違いだ。もたれ掛かった壁は冷たくて昼間の優しい陽だまりからはほど遠い。
出会った頃から変わらない意志が強くて正義感の塊みたいな瞳。この暗がりの中でも降谷の髪は鈍く輝く。沈黙を貫こうとする私に根負けしたのか、手首の拘束がやや弱まる。
「……悪い。仕事の話じゃない。昼間もどことなくお前の様子がおかしい気がしたから気になった」
最近時間取れてないし余計にな、と降谷の眉尻が穏やかに下がる。「ゼロ」の降谷零ではなくただの「降谷零」になった表情に私の中の苛立ちも少し和らいだ。こんな顔を見るのはいつ振りだろうか。
「10分くらい離れても問題ないだろう。少しコーヒー付き合え」
誘われるがままに連れて来られたカフェスペース。そしてそこで缶コーヒーを投げられた。安室透の働く喫茶店の5分の1にも満たない缶コーヒーを片手で玩ぶ。だめだ。今日は何をしていても安室透が浮かんでくる。薄々は勘づいていたが、どうやらこの胸のむかつきの原因は安室透にありそうだ。
「…降谷はさ、いっそ安室透になりたいって考えたことある?」
「は?」
支離滅裂なことを言っているのはわかっている。私の中でも気持ちを上手く表現できない。コーヒーを啜りながら、それでも話を真剣に聞こうとする降谷の姿勢に甘えて私は続けた。
「今日潜入先の喫茶店…えっとポアロだっけ? あそこに初めて行って、ちゃんとまともに安室透に会ってさ、ああ、ここは血生臭いものや人の醜い騙しあいだとかとはほど遠い素敵な場所だなって思ったの」
「……それで?」
「降谷が店員の可愛いお姉さんと笑いあってるのを見て、なんだろうな、少しだけ悔しかった」
「……榎本梓に嫉妬したのか?」
「んーなんていうかな。そういうのでもないんだけど」
お似合いのふたりの姿に嫉妬したといえばそうなのかもしれない。だが、以前クリスヴィンヤードと二人でいるところを目撃してもなんとも思わなかった。あの時はひたすら血生臭さやどす黒いものに囲まれたあんなコードネームを早く捨てさせないととすら思っていた。
恐らくこの気持ちは。
「私さ、降谷には幸せになって欲しくて、ほんと自分でも何を言っているんだと言う話なんだけど、今の降谷零より安室透のままでいる方が幸せになれるかなとか考えてしまったの」
言ってしまった。口に出すと胸のつっかえは取れたが、降谷の反応を見るのが少し怖かった。呆れられるか、それが俺の仕事だと窘められるか。いずれにせよ、目線を缶コーヒーから上げるのが少し怖い。馬鹿なことを言っているのは重々承知しているが、それ以上に私はこの目の前の男が好きなのだ。親しい間柄には横柄で、面倒くさくて、悲しいとか辛いだとか負の感情を出すのが下手くそなこの男が好きなのだ。愛した男の幸せくらい願って何が悪いのだ。
「でもその世界にお前はいないだろ」
聞こえてきたアルトに顔をあげると、何馬鹿なことを言っているんだと言わんばかりの降谷が私を見ていた。
ただ、その目は真剣で。
「お前の居ない安室透の世界で生きたところで俺は何も楽しくない、というか、何も得るものがないし、そんな馬鹿な事で悩んでくれるお前と生きたいんだよ。それが俺の幸せの最低条件だ」
ああ、もう、ずるい。
その一言で私の中に生まれた不純物は綺麗に浄化されてしまった。二の句が継げずに固まる私を降谷は強引に腕を掴んで引き寄せる。珈琲と香水が混じり合った降谷独特の匂いはひさしぶりだった。
「──残り三分を切った。たまには素直に抱きしめさせろ。今はこれだけで俺は幸せだから」
どうか二人で珈琲を淹れて笑って過ごせるような穏やかな日が来ますよう。
そんな日々を二人で作れるよう、私は
三分間の短くも長い幸せに腕を回した。投げられた缶コーヒーのおかげなのか降谷零のせいなのか、胸やけはいつの間にか綺麗に解消されていた。