拝啓、アルタイル様

 終電間際まで鬼のように仕事してコンビニ袋をお供に自宅へと向かう。連日の雨予報に嫌気が差して、いつもならレインパンプスを履くところを、強気に防水スプレーだけかけて履いたお気に入りのスエードのパンプス。なんとかひどい雨には当たらず、死守できた。ああ、でもヒールはすり減ってきている。湿ったコンクリートに響く不愉快な金属音。靴のケアもろくにできてないなんてそれほど忙しかったと取るべきか。無理やり仕事に打ち込んでいたと言うべきか。ワーカホリックと名高い上司から「今日はもう帰ってください」と言われるくらいだから端から見たらきっと後者なのだろう。
 左手首に存在を主張するメンズの腕時計がまもなく日付が変わることを教えてくれる。7月7日。七夕だ。一年に一度恋人同士が逢瀬を楽しむ日なんて、昔から言われているけれど、残念ながら、そんなのを期待する乙女心は、この仕事を選んだと同時に切り捨てた。
 会いたい男はいるけれど、こっちのことなんてまるで気にしない自由な男だ。会わなくなってはや数ヶ月。自分に恋人がいることを忘れようと努め始めたのはいつ頃からだろうか。
 明日は数日ぶりのちゃんとした休みだ。あの男とこういう関係になってから、休みは自分のためにいかに使うかということに重点を置くようになった。月が描かれた青いガラス瓶とビール2缶とプリンとつい惹かれて買ってしまったレジ横の唐揚げ。それら全部をいれたコンビニ袋が、晩酌への思いを乗せて、今日もまた揺れた。
 
 しかし、事件は突然やってくる。
 働く公僕の細やかな楽しみを片手に、ドアノブに手を掛けると、手応えがなかった。
 朝、しっかり施錠したはずの鍵が開いている。背筋にひやりとしたものが走り、スマホに入っているヒーローの名前をタップしようとして、親指が止まる。『なんかあったらかけてきていいから』なんて都合のいいことを言って教えてくれたプライベートナンバー。ワンタッチすれば、心身ともに安心するのは、目に見えていたが、それを押す勇気は私にはなかった。 
 とりあえず警察か。いや、その前にここから立ち去るべきか。判断ができずしどろもどろにしていると、ドアノブがゆっくり下がり、重たい鉄の扉が開いていく。どうしよう、どうしようと堪らず目を瞑ると、呆れたような心配したような声が飛んできた。
 
「ふっつーこういうときは警察かヒーローにすぐ連絡でしょ?」
 
 ドアの隙間から蛍光灯の光が漏れる。その光と同じゴールデンイエローが、コンビニ袋で防御姿勢をとる私を呆れたように見つめていた。
 
「え……ホー……クス?」
 
 そう、家の中には、不法侵入のヒーロー兼恋人と言うには会わなさすぎる男がいた。
 
 
 
 
「いやぁ俺もヒーロー生活それなりになってきたけど、コンビニ袋で防御されたのは初めてだわ」
 
 ケラケラと笑いながら赤い羽が私の前で揺れる。どこから入ったの、と喉まで出かかって、思い直してそれを飲み込む。そうだ、合鍵を渡していたんだ。もう何ヶ月も使われていないものだったから、渡していたことすらすっかり忘れていた。そしてまだこの男が律儀にそれを持っていたことが意外で、それを嬉しく思う自分にも驚いた。
 
「なぁに、その呆けた顔。せっかく会いに来たのにその塩対応はさすがの俺もさみしいんだけど」
「え、あ、ごめん。なんか……実感なくて」
「ふーん。なんなら触ってみる?」
 
 ホークスに掴まれた左手は、彼に誘われるまま、そのままホークスの頬に触れた。私よりも少し高い位置にあるホークスの顔をゆっくりと指で辿っていく。
 本当に久しぶりだ。最後に会ったのは本当にいつだったけ。そうだ、最近話題の敵連合なんて言葉が出てくるずっと前だった気がする。
 資料の中や液晶の中に居た恋人が私の目の前に居る。存在を確かめるように輪郭を辿ると、ホークスの目尻が緩やかに下がった。
 親指で唇をなぞると少しかさついていて。残りの四指からくる感触も滑らかな肌というものではなく、ところどころ肌が荒れている。そして何より気になったのが、目の下の──。
 
「……ちゃんと、寝れてる?」
 
 コンシーラーでも隠し切れないであろう大きな隈に触れようとすると、はいそこまで、とホークスの手で絡みとられて制止される。
 
「それはこっちの台詞。この間の異動で目良さんのチーム入ったて聞いたけど。仮免試験前で今1番忙しいんじゃない?」
 
 会えてないのに私が今どこでなんの仕事をしているのか、そこは把握済みなのか。顔を見なかった数ヶ月間、公安本部でも全くすれ違わなかったのに、私の人事をしっかり把握してくれてるのはさすが見聞が広いと言うべきか。そしてそんな言葉ひとつでまた嬉しくなってしまう私は実に単純で、扱いやすい女だと思う。
 
「でもやりたかった仕事だし」
「なんて仕事人間。じゃあ働き者のおねーさんも今日はゆっくり休まんとね」
 
 年頃の女の子が俺みたいに肌荒れちゃったら大変でしょ? と今度はお返しとばかりにホークスが私の頬を撫でていく。ゆっくりと感触を確かめるように、頬をつまんだり、撫で回したり。好きなようにさせていた手が、ぴたっと止まる。
 
 
 ──あ、キスされる。
 
 
 何十回も何百回もしてきた感触を予想し、期待を込めて目を瞑ると、想像していたところではなく、額に生温かい物が触れた。少し驚いて、ホークスの顔を見ると、イタズラっぽく笑っていた。
 
「口が良かった?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「……ほっんと、素直じゃなか」
 
 本音がバレたのが悔しくて、ホークスから顔を背ける。
「……こっち、向いて?」
 耳朶に手を添えられ口を寄せられる。あ、この声のトーンはまずい。普段おちゃらけてる癖に、急に真面目になる、ヒーローでもない、ただの男の声。そんな声を耳元で寄せられたら、非常にまずい。意外と繊細な指が私の耳の内側から輪郭へとなぞっていく。
 身体の中から湧き上がってきた甘い誘惑に必死に抗おうとすると、目を細めたゴールデンイエローの瞳。
 
 
 ──あ、捕食された。
 
 
 
 唇を塞がれて、持っていたコンビニ袋がドサリとフローリングに落ちたタイミングで、私もホークスもそのままソファーに沈み込んだ。
 
 
 
 ◇
 
 
「本当は今日何もするつもりなかったって言ったら信じる?」
 
 心地よい疲労感の中からなんとか身体を起こすと、キッチンに向かうホークスの赤い翼が見えた。心の充足感と疲労感から一気に眠気が押し寄せてくる。でも、起きていないとこの赤い翼はまたすぐどこかに行ってしまいそうで、幸せなまどろみの中で意識をなんとか保つ。
 
 この赤い羽を間近で見るのも随分久しぶりだ。以前見たときよりも背中に傷が増えている。彼が怒濤の如く解決していった事件数を考えれば当たり前か。仕事上、ヒーローの裸体を目にすることは多々あれど、やはりこのホークスの背中はとても綺麗だと思う。
 そんなことをぼんやり思っていたら、私が買ってきた缶ビールを差し出された。
 
「結構な時間放置してた自覚はあるもんで、会った早々いきなりってのはさすがにどうかなーとは思ってた訳なんですよ」
 
 プルタブを勢いよく立ち上げて、ふたりで缶のまま乾杯をひとつ。「それ、私が買ってきた奴なんだけど」とごちると、「今度これより美味しい奴送るから」と返された。そうか送るのか。持ってくるのではないんだな、と余計な感情がひとつ生まれたが、ビールとともに流し込んでしまえ。
 
「で、それを守れなかったのは私が魅力的過ぎたってこと?」
 
 なるべく重くならないように軽口で。口の中にはほろ苦くて生ぬるいビールが広がっていく。私の横に座るホークスを見ると私と同じような微妙な顔をしていた。「せめて冷蔵庫入れてから始めて欲しかったかも」「はいはい。次は善処するよ」なんてくだらないことを言い合いながら。
 
「あー。まあそれもあるけど」
「そこは即答で肯定してよ」
 
 いつまでそんな格好しとんの風邪引くわ、と下着一枚だった私に今日着てきていたTシャツを羽織らせられた。
 
「平手打ちの一発や二発くるかなぁと覚悟してたら、開口一番にこっちの体調の心配してくるし? 大事そうに俺の忘れていった時計を着けてたりするもんだから、つい、ね」
 
 少しだけ早口になって誤魔化すようにビールを流し込む姿にああ、やはりこの男が好きだなと思う。
 ホークスがどれだけヒーローという仕事に誇りを持って、どれだけの人を助けてきたのか私は知っている。知っているからこそ、こうして彼が捻くれた不器用な22歳に戻る姿を見ると心の中でほくそ笑んでしまう。
 だから普段はこんな重たい思いを全部蓋してなかったことにしてるというのに。それなのに。
 
「……今日このまま泊まっていける?」
 
 自信なく呟いた声の震えはホークスに伝わらなければいい。でも残念ながら耳聡いこの男にはそれは通じなかった。少しだけ目を見開いて、くしゃくしゃになった髪を撫でられる。
 
「あー……俺もそうしたいんやけどね」
「……ほんっと呆れるほど仕事人間」
「全然? 俺ほどいい加減なヒーローはおらんよ? 巷の女の子たちからはホークスの緩いところがいいよねなんて言われてるの知ってるっしょ?」
「どうだったかなぁ」
 
 18歳でデビューしてから圧倒的な速さでビルボードランクインした男の台詞じゃない。私が公安に入庁してからも、何かに駆り立てられるように、ずっとヒーローしていた癖に。
 再会と同時に見つけた目の下のひどい隈。寝れてる? の質問に答えをはぐらかされたことなんてとっくの昔に気づいてる。
 
「ちょっとの羽休みくらい、いいんじゃない?」
 
 先ほどホークスがしてくれたように額にキスをひとつ。そのまま、瞼に。頬に。耳に。首筋に。そして唇にキスをしようとしたら、掌で防がれた。
 
「あんさ、俺の話聞いてた?」
 
 何してんの、といつもより低い真面目トーンな声が私の部屋に響く。
 
「何って、誘ってる……つもり」
「まぁそれはめちゃくちゃ嬉しいんやけどさ、」
 
 句読点のあとの言葉を探すようにホークスが逡巡しているのが見てとれた。どうしたら私を傷つけずに諦めさせるかなんてことを考えてそうで、誘ったのは私の癖して身を引きたくなる。困ったホークスの顔を見たいんじゃない。私が言いたいのは。
 
「全部私のせいにしていいからさ」
「は?」
「全部私のせいにして、明日の朝起きれなくなるくらい、くったくたに疲れることして、ふたりで昼までぐっすり寝ませんか?
 えっと、ほら、私も寝不足だし。何より今日七夕だから……えっと、彦星も確か織姫に夢中になりすぎて仕事をしなくなったから離ればなれにされたでしょ? それなら普段から働き過ぎな私たちは1日だらけるくらいがちょうどいいと思うんだけど、どうかな?」
 
 理屈も理由もめちゃくちゃだけど、でも言わずにはいられなかった。私よりも私の上司よりもワーカホリックな癖してそれを認めたがらないこの男は、自分のことよりも平気で他人のことを優先するから。素直に休んで、なんて言ってもこの男はどうせ聞かないから。だから。
 
「……とても公安委員会にお勤めの人とは思えん台詞なんやけど」
「うん私もそう思う。うん、そんな考えはほんとによくないとは思ってるんだけど……」
 
 だって貴方まともに寝てないじゃない。人々の安全を守ることも大事だけど、愛した男が疲れ切っているのにそれを休ませたいなんて思ったら駄目なのだろうか。
 今までひた隠しにしてきた重い女っぷりをだしてドン引かれているかもしれない。いつも軽口を叩き合う私たちにしては珍しい沈黙が部屋に落ちる。
 
「……あんまり甘やかされると、俺ほんっとに仕事せんくなるからやめて?」
 
 何かを懇願するようなそんな言い方をするホークスは初めて見た。ただ、その顔は私に呆れているわけでもなく、何かを必死に我慢しているようで。
 
「安心して。1年に1回しか甘やかさないから。ホークスも私も酔っ払っていて他のことを考える余裕がなかった。今日はそれでいいんじゃない?」
 
 はい乾杯、ともう一度ビールをホークスに掲げると、ホークスは降参するように両手を挙げた。
 
「……ほんっと面倒くさい女」
 
 どっちがよ、と反論する前にゆっくりと口内に生温いビールが流し込まれる。気の抜けたビールなのにホークスから、飲まされるととても酔いそうになって身体がふわふわする。舌で口内を散々かき回された後、ホークスが思い出したかのように、羽を数枚フローリングに飛ばした。
 向かった先はコンビニ袋。あ、確かあの袋には。
 
「……プリンは冷やしとくから、もっかいよか?」
 
 なんだかお酒も回ってきたしなんて言い訳のように続けられて。
 
「勿論。私が誘ったんだし」
 
 ありがと、と小さく呟かれた言葉は聞こえないふりをした。
 どうか今宵は何も起きませんように。
 そして寝不足で自分を大事にすることが下手なこの恋人が昼までぐっすり眠れますように。
 普段嫌ってほど働いているのだからそれくらい願ってもいいだろう。
 星も見えない曇った夜にそんな祈りを抱きながら、愛しい恋人に腕を回した。


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