不合理な夢

 汗で絡みついた俺の髪を苗字は指で梳いていく。その指先を確認すると綺麗に施されたサーモンピンクのネイルが目に付いた。ああ、仕事に追われているあいつの手は俺以上に生傷だらけだからこれは夢なんだと気が付いた。
 
 どういう理屈か、目の前のこの部下は普段愛用している俺のベッドに寝そべっていて。いつもはきちっと上まで締められている彼女の仕事着のブラウスは、わかりやすく第3ボタンまで開けられていた。普段目にすることのない部下のふくよかな膨らみが見えて思わず眉間に皺が寄る。
 
 なるほど。このテの夢か、と頭の中は至極冷静。よりによってどうして相手がこいつなんだ。普段から行動を共にすることは多々あっても、この部下に女を感じた事なんて一度もない。そう思うも夢の中の俺は安直で、露骨なブラウスの隙間と膝を立てられたスカートの最深部に誘われるがままだ。
 
 彼女の首筋に流れる汗を舌で舐めとると、くすぐったいのか身を捩り顔を背ける。普段気にも止めていなかったが、どうやら首筋の裏側に黒子があるらしい。陶器のように白いきめの細かい肌に存在を象徴するようにある黒い斑点。その斑点にどうしようもなくそそられた。普段色恋とかけ離れた仕事人間の癖して、夢では色香を垂れ流しにするのはどういうことか。
 堪らず手を伸ばしてその首筋に噛みつくと、鼻の抜けるような甘い声が耳元で響いた。
 
 
「……くっそ」

 目覚めは最悪。目に飛び込んできたのは、作りかけの指導案。画面上の指導案には中途半端なところで、大量に改行がなされていた。妙な倦怠感も謎の解放感も寝落ちしたせいで作られたであろうこの改行も全てが煩わしい。誰も居ないことを良いことに全力で舌打ちをひとつ落としても状況は変わらない。十代のガキじゃあるまいし、一体俺は何を夢で見ている。確かに最近忙しくて、自分の身体の『処理』を怠っていたのは事実だ。だからといってどうして相手が部下であるあいつ、苗字名前なんだ。納得がいかない、と夢を見た自分自身にクレームを入れたくなった。
 
 部下を汚したことに対する申し訳なさ、羞恥、背徳感。

「あー……くっそ」

 部屋にひとりなのをいいことに、感情のままに言葉を吐き出す。こんな状態で、指導案なんて練れるはずがない。こういうときは多少強引にでも状況を変えるに限る。鬱陶しく落ちてくる前髪を手ではらうと、指先につっかかりがあった。それを優しく梳いてきた夢登場人物が脳裏に出てきて、もう一度「ほんとうに……ふざけるな」とごちる。やや乱雑に浴室のドアを開けると、ギイと不愉快な音をたてて開いた。
 
 
 
「……いい加減にしろ」
 
 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
 今日は厄日かなにかなのだろうか。だとしたら早く今日なんて終わってしまえ。
 23時を過ぎた寮の共有スペース。そこのダイニングに腕を枕にして寝ているのは、先ほどの俺の夢に登場していた主演女優他ならなかった。 
 首元緩めなカットソーに軽く羽織っただけのパーカー。テーブルに積み重ねられた教育書。大方、俺と同じく指導案を練りながら寝落ちした。形の良い唇から小さく聞こえる寝息と、露わになった首筋に自然と目が奪われ、1時間も経たないというのに2度目の舌打ちをした。 
 いつもなら揺すり起こして小言くらいはくれてやるが、今は大層間が悪い。何より今日は嫌な予感がする。関わると更なる面倒なことに巻き込まれそうで怖い。『起こす』という選択肢は削除。触らぬモノに祟りなし。先人の偉大な教えに従って、共有キッチンに足を向けるも、聞こえてきた昔馴染みの声で全て台無しになった。
 
「ヘイ、イレイザー!! 明日の俺の英語なんだけどよ……っとあれ? 何? お前んとこの部下ちゃんお休み中?」
「……見たらわかるだろうが」
 
 語尾に行くほど小さくなっていた声は、一応気遣ってのことらしかった。
 やはり今日は厄日だ。無視を決め込もうと思ったのによりによってこいつか。
苛立ちを含んだ俺の声にマイクは面白いものを発見したように寝ているあいつに一歩近づく。そろりと無駄に長い足を折りたたみ、寝顔を覗き込むように顔を傾けた。
 
「oh,マジで寝てる。いやぁ……普段頑張ってる子のこういうのってイイね。こういう姿ガキ共見ちゃったらグッと来るやつ多いんじゃないの?」
「セクハラで捕まりたいなら今すぐ警察に連絡してやる。というかこいつの場合気ぃ抜きすぎだろ。ここに住んでるの同性だけじゃねぇんだぞ」
「それだけ俺らに気許してくれてるんデショ。それに、そんな仲間のことを不埒な目でみる馬鹿は俺らヒーローの中にはいないって。ってか、なに苛立ってんの相澤くん。もしかして手塩にかけてる可愛い部下ちゃんのこと、いやらしい目で見ちゃった? いやぁ〜俺はアリだと思うぜ? この子もなんだかんだ絶対イレイザーのこと好きだと思」
「少し黙れマイク」
「おー。怖」
 
 
 ぺらぺらと軽い口が良く回るマイクをひと睨みするも効果はあまりないようだ。俺にはニヤニヤ笑いながらも、あいつのほうにはまるで父親のような慈しむ目で見つめている。
 
「寝顔みてんの可愛いけど、このままじゃ風邪引くよな? 起こしていいかイレイザー」
「……何で俺に聞く」
「こういうのは直属上司に聞くのが筋じゃねーの? ま、お前にまたセクハラだとか言われるのあれだし、ちょっとミッドナイトさん呼んでくるわ。あ、お前はそこで不埒な馬鹿が来ねえか見張ってろよ」
 
 勿論お前が不埒な馬鹿になるのも論外な! と高校生の頃から変わっていない旧友は、先輩を呼びにエレベーターの方へと向かっていった。そんなことを言われれば、離れるわけも行かずまたも二人きりになって3度目の舌打ち。
 何度も言うが、今まで呑気に眠りこけているこの馬鹿をそういう目線で見たことはない。芦戸や葉隠あたりから「相澤先生と苗字先生、仲良いですよね〜」なんて含みのある言い方をされるのはしょっちゅうだか、抱く印象は、日頃生徒の訓練やら何やらに付き合って生傷の絶えない、仕事人間の同僚。 
 それなのに無防備に寝息を立てる唇はキスのしやすそうな形してんな、とかくだらない考えが浮かぶし、予想通りやや傷が残る長い指を絡ませたい思ってしまうのは完全に夢のせいだ。
 どうか起きるな。そんな俺の願望空しく、目の前の同僚はもぞもぞと動き出した。
 
「……ん…ぁ……? あ……れ……あいざ、わ……先生……?」
 
 焦点の定まっていない視点で、俺の名を呼ぶ。いつもと違う舌っ足らずな話し方は、起き抜けだからだろうか。この甘い話し方は、何度も隅に追いやったはずの夢がまた脳裏にちらつかせてくるから非常に厄介で、非常に煩わしい。
 
「……おい」
「……え、あ、失礼しました! ここ、共有スペースですもんね! すみません、寝るなら自分の部屋行きます!」
 
 黙っている訳にもいかず、なるべく平静を装って声をかけると、慌ててテーブルに広げていた指導案をいそいそと片付けはじめた。 
 これでいい。わかっているなら早く部屋に戻れ、とかなんとか、それらしいことを口にして、俺も珈琲を諦めて部屋に戻ればいい。そして寝る。邪念があるときに急ぎでする仕事でもない。何度も言うが、仕事中ならつゆ知らず、「今」の俺と、寝起きの無防備過ぎる状態のこの女が一緒に居るときっとろくなことにはならない。
 そう思って彼女に背を向けようとするも、一箇所に目を奪われて身体が固まった。
 
「は?」
 
 黒子だ。黒子があった。
 彼女の首筋に。それだけなら無意識のうちに彼女を観察していたからだと思うのに、そうはいかない。
 黒子の横に、赤い跡。何かに噛みつかれたような。皮肉にも自分が夢の中で彼女に付けたような。
 そんなわけが、ない。
 あれはあくまで夢の中の出来事──の筈だ。自信が持てないのは、この女の寝顔を悪くないと思ってしまった自分が居るせいか。
 
「……おい、それ」
「あ、これですか? 来週のヒーロー基礎学の救助演習案で──」
「違う、……その、首筋どうした」
 
 首筋、ですか? と、やや考える素振りを見せた後、すぐさま合点が言ったような顔をした。
 
「これ、昨日サポート科の発目さんの実験に巻き込まれちゃいまして。リカバリーされるほどのものじゃないし、放っておいたらしっかり跡が残っちゃったんです……ってどうかされましたか」
「何がだ」
「何がって相澤先生にしては珍しくほっとしたような顔をしてらっしゃったので」
 
 ご丁寧に下から覗き込んでくるせいで、首元が緩いカットソーの隙間から胸の谷間が見えていることにきっとこいつは気付いていない。女としてみたことがない、なんて言ったが、どうやらそれはお互い様のようだ。俺の方こそ男として見られていないような気がしてきた。あまりにも無防備が過ぎる。 
 この数時間、こっちはどれだけ意識をお前に持っていかれたと思っている。淫夢を勝手に見たことは棚に上げ、警告も兼ねて、意趣返しにこいつをからかってみたくなった。
 
「なんでもねえ。こちらの話だ。それよりお前もうここで寝るなよ。次寝たらそのまま持っていくからな」
「ご忠告ありがとうございます。相澤先生に私の部屋に運んで頂くお手数をお掛けするわけにはいかないので、今後は寝ないようにしますね」
「言い方を間違えた。次見たらそのまま持って帰るからな俺の部屋に」
「わかり……え?」
 
 了承の意を述べようとした彼女は紅潮したまま固まった。わかりやすく固まっている。まるで、どういう意味ですか、と意味を考えあぐねているように。
 残念なことにその顔を悪くないと思う自分も居て、つい続けてしまう。
 
「そのまんまの意味だ。俺に現実でも食われたくなきゃここでは寝るな」
 
 これくらいにしておくか。
 からかいすぎると、今後の仕事に影響する。「悪かった。冗談だ」そう口にしようと思った矢先、寝間着としている黒のロングTシャツの裾を引っ張られた。
  
「……無駄なことを嫌う相澤消太がそんなことを簡単に口にしないで下さい」
 ──期待、しますから。
  
 紅潮しながらも、真っ直ぐと生意気にも俺を見据えてくるその瞳は、夢で誘われたときよりも、遥かに色っぽくて。
 こいつ、こんな顔もすんのか。
 
 夢で見た俺を誘うどの顔よりもそそられて、堪らず手が伸びる。
 
「……今なら引き返せるぞ」
「そんな気、ない癖に」
 
 真っ赤な顔で精一杯の虚勢を張る彼女はやはり自分にとって嫌いでない顔で。夢と同じように彼女がゆっくりと自分の髪を梳いていく。ネイルのない傷だらけの手で。その感覚がもどかしくて後頭部に回して形の良い唇に噛みつくと、見開いていた目がゆっくりと閉じられた。
 
 ほらみろ。やはり今日は厄日だ。
 
 この世で1番非合理で面倒な女という沼に片足突っ込んでしまった。でもそれに囚われるのも悪くないなんて思えるくらい、彼女に溺れそうな自分が居た。


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