ずっと片想いをしている。
いつから、なんて自分でも分からない。なにせそいつは物心ついたときからそばにいて、今も隣にいるからだ。
朝の澄んだ空気の中、美味そうな匂いが鼻腔を擽る。マンションの壁は薄い。台所から流れてくる朝食の匂いに空っぽの胃が刺激される。カチャカチャと皿を並べる音が聞こえていた。
本当なら飛び起きて摘まみ食いの一つでもしたい。何より、一人で忙しく朝食を作っている幼馴染みを手伝ってやりたい。なのにそうしないのは、単に自分の欲求を満たしたいからに他ならない。我ながらひどいエゴイストだ。
目覚ましが鳴っていた。この音が起きるためのものじゃなく、あいつが来るまでのカウントダウンになったのはいつからだろう。あと数回、このけたたましい電子音が繰り返されたら、ドアが開く。そう決まっている。
あと三回、二回、ああ、
「スレイ、朝だぞ」
男にしては少し高めの澄んだ声を、この耳はどんな喧騒の中でも聞き分ける。少し呆れを含んだ、優しく響く声。怒ったような口調なのはただのポーズで、本当は優しさに満ちていることを知っている。飛び起きてやりたいのを我慢して目を閉じていた。まだ、もう少し。
「ほら、早く起きないと遅刻するぞ」
堅く握られた小さな拳が頭をこつんと叩いた。体が少し沈んで、それで相手がベッドに座ったのが知れた。男にしては軽い体はほとんどスプリングを軋ませない。
「スレイ、起きろってば」
「んー……」
そうっと開いた視界に真白い顔が映る。とうに支度を整えて白い制服を着てはいたが、眼鏡はしていない。硝子越しじゃない長い睫毛と菫色の瞳を見られるのはこの街ではきっとオレだけで、独占欲が満たされた。
目があった途端、つり目がちの瞳が和らぐ。そろそろ頃合いだ。
「おはよう、スレイ。いい加減起きろよ」
「……おはよ、ミクリオ」
眠たげな声を出すのは意外なくらいに簡単だった。少し呆れつつ柔らかく微笑む幼馴染みは今日もきれいだ。狸寝入りだったと感づかれないようにのろのろと身を起こすうちにミクリオが立ったので、距離が離れたのが惜しいと思った。
「ちゃんと起きて支度すること。二度寝なんかしたら許さないぞ」
「分かってるよ」
本当か?なんて言いながらミクリオは笑う。本当はずっと起きててお前を待ってたよ、って言ったらきっと驚くんだろうな。驚いた顔が見たいと少し思うけれどそんなわけにもいかない。だって、そんなことしたら朝から部屋に来てくれないだろ?
「全く、君は僕がいないと駄目だね」
そうだよ、ってオレは笑った。言葉に込めたどろりとした感情を、母親気取りの小さな幼馴染みは知らない。




ミクリオはきれいな生き物だ。
日に焼けない肌は染み一つないし、体つきもしなやかだ。骨格は小振りで、少年の域を脱していない。成長しきらない小さな体と幼げな顔立ちだけを見ると子供じみている、と言えなくもない。
まろやかな丸みを残した顔は、けれど大抵は落ち着いた怜俐な色をしている。パーツの一つ一つが小さくて整っているから、表情が無いと一気に人工物染みて、子供っぽいという印象を拭い去ってしまうのだ。黙っていると本当に美しいとしか言いようが無くて、まるで美術館の展示物を見ているようだと思う。芸術家が端正込めて作った彫像のような、穢れのない美貌。
ミクリオは見た目通り潔癖で、真面目なやつだ。思春期の男子だというのに性の匂いを感じない。欲望とか恋情とかそういう俗っぽいことからは無縁なように見える。
いや、ミクリオだって人間だから、女の子の話で赤くなるくらいのことはある。彼女を作らないのか、なんて聞かれたこともある。自分の話はしないくせにオレの恋愛事情は気になるらしい。
けれど、あからさまな猥談なんかにはひどく冷えた眼差しをするのだ。下世話な話は嫌いなんだろう。そういうミクリオをつまらないやつだって言うやつもいる。わからないでもないけど、少なくともオレはそういう生真面目で潔癖なところも好きだ。
そんなミクリオだから、恋人を作るところなんて想像できない。精々が手を繋ぐくらいまでしか浮かばない。流石にそこまで性欲が死んでないって頭ではわかってるけど、今まで一緒に住んできてそんなそぶりをを見せたことがないのだ、おかしな偏見を持ってしまっても仕方ない。恋人ができたとして、性的な関係を結ぶまではかなり時間がかかるだろう。この予測だけはおそらく間違ってない。身持ちの固さと矜持の高さは人一倍だ。
だからそう、好きになってしまったのは完全なる失態だった。ミクリオが男だ、ってところはオレにとってはたいした問題じゃない。問題は本人が受け入れてはくれないだろうってことだ。好きだ、って言ったら僕も好きだよとは言ってくれるだろう。友人として。
「あー……」
ベッドの上で一人頭を抱える。何をしてたか、なんて聞くだけ無粋だ。匂いや独特のなまったるい空気で分かってしまうだろう。この瞬間はいつも死にたくなる。
恋愛感情でお前が好きです、抱きたいです、なんて言えるわけない。間違いなく幻滅される。気持ち悪いって言われるかもしれない。
きれいだなあかわいいなあとは思っていた、昔から。子供の頃はほんのり赤いほっぺたを舐めたいなあとか、ちっちゃい体を抱き締めたいなあとか、そんなかわいらしい欲求しかなかったのだ。恋愛にどろどろした欲望が付き物だなんて知りたくなかった。
穢いものなんて何一つ知らないだろう清い体を組み敷いたらどんな顔をするんだろうとか、どんな声で鳴くんだろうとか、そんなことを考えながら二人きりで暮らすこの状況は天国で地獄だ。
ミクリオを傷つけたくはないからもちろん変なことをしたりはしないけど、欲望を発散するのは大変だ。オレは健康な男なので処理をしないわけにはいかない。だけど、絶対に気づかれないようにしなければならなかった。同じ男ではあるけど、ミクリオにだけは知られてはならない。
もしもうっかり名前を呼んだりしたらいろいろと終わってしまう。言うまでもないが自慰の対象はいつだってミクリオだった。それこそ初めから。
「……しにたい」
何度めかに呟いた声は情けなく掠れている。小声で呟くのは身に付いた癖だ。
もちろん本当に死んだりはしないけど消えてしまいたい。こんな風に欲を発散するたびに罪悪感で死にたくなる。お前の泣き顔とかよがるところとか想像して抜いてます、なんて知られたらもうそばにいてくれない。怒られるならまだいい。泣かれたら死んでしまいそうだ。
他の人間を好きになれるか、って思ったこともあるけど無理だった。人として好きになれるやつは何人もいて、その中には女の子だっていたけれど、そういうことをしたいって思えるのはミクリオだけだった。下世話な年上の友人が貸してくれたグラビアにはぴくりとも反応しないくせに、ミクリオで想像するとたちまち熱くなるのだからこの体は正直だ。オレと違って。
「……いい加減、気づけよな」
朝起きられないとかネクタイを閉められないとか電車の乗り換えが分からないとか、そんなの全部、お前にそばにいてほしいから吐いてる嘘なのに。
ミクリオの中でオレはずっと子供なんだろう。性欲なんか無くて、純粋で、嘘の一つもつけないこども。ずっと昔、体が弱かった頃、懸命にオレの面倒を見ようとしていた澄んだ菫色の眼差しの温度は今でも変わらない。ミクリオはあの頃と同じくきれいなままだけど、オレは随分変わってしまったらしい。
仕方ないな、なんて言いながらオレを甘やかそうとするお前がかわいくて、ずっと見ていたくて、嘘を重ねている。




ところで、ミクリオは結構もてる。
綺麗なくせに自覚がなくて表情を崩すから親しみやすいし、性格もさばけていて優しい。女の子にとっては背が低いのと細身なのは減点対象かも知れないが、それを差し引いてもミクリオはかっこいい、とオレは思う。
ただミクリオを好きになる子は割と内気な子が多いようで、告白されるところを見たことはありがたいことに一度もない。告白を受け入れるかは分からないけど、ライバルは少ないに越したことはない。
「……ミクリオが絶対応えないって確信があるなら、よく魅力がわかったね!って握手したいくらいなんだけどさ」
「なんだその傲慢発言」
ザビーダがちょっと眉を潜めた。長い緑がかった白髪の大男を見て職業を当てられる人間なんていないんじゃないかと思う。教師なんだよこれで。しかも高校の。
人気のいない教室にだらだら残っている理由は単純だ。ミクリオがいない。付き合いがよくて真面目なミクリオは生徒会に選出されていた。アリーシャもいるから滅多なことはないだろうと思いつつも、オレもそっちにいきたいなと思ってしまう。
「だって、ミクリオが取られたら嫌だし」
「心配性だねえ。そんならさっさと告っちまえばいいじゃねえか」
「できるわけないだろ……」
さらっとなにを言ってくれるのだろうザビーダは。恋愛ごとなら俺様に任せろよ!なんて言ってたけど、ほんとは他人の 恋愛話聞きたいだけなんじゃないのかな。
「だってよ、今のまんまじゃお前がつらいだけじゃねえの」
「けどさ、ミクリオが傷つくのは嫌なんだよ。……嫌われたくないし」
「ミク坊がお前を嫌いになるなんて無いと思うけどねえ」
ちょっと呆れたみたいに笑うザビーダはなにもかもお見通しって顔をしている。恋愛経験が豊富でちょっと下世話で、優しい。先生だけど友達っておかしいみたいだけど、オレはこの関係に疑問はあまり持っていない。地元じゃ何歳でもため口だったからなのかも。
とんとん、とザビーダが机を叩いたので、その視線の先を追った。オレが座った机の上のエナメルバッグの横、弁当箱の入った若草色の巾着袋が目に入る。入学前にメイルが揃いで縫ってくれたものだ。ちなみに ミクリオの分は菫色をしている。
「弁当箱がなに?」
「フツーの幼馴染みは弁当なんざ作りません、というお話。愛妻弁当みたいなもんじゃん?」
「……違うし……これはそういうのじゃないよ……」
脱力して息を吐く。ザビーダ、恋愛相談にのってくれるのは嬉しいし同性愛に偏見を持たないでくれるのもありがたいんだけど、ポジティブ過ぎるよなあ。自分がもてるからだろうけど。オレみたいな恋愛初心者にはあまり甘いこと言ってほしくない。期待、してしまう。
「そーなん?でも、愛情がなきゃお前らくらいの年齢の男が弁当なんざ作ってやらないと思うけどねえ」
「んー……違うんだよな。あいつ、オレの母親とか、お兄さんのつもりなんだよ」
早くに母親を亡くしてジイジに引き取られて、たくさんの大人に囲まれて。兄弟みたいに育った。今でこそ明らかに小さなミクリオだけど、子供の頃は逆だった。子供にとって数ヵ月の差はとても大きい。
「そーいやミクリオの方が早く生まれたんだっけか。ちっさいのにな」
「それ、本人に言ったらすごく怒るから気をつけてね」
「あん?りょーかい」
ちなみにかわいいも禁句だ。それを言って許されるのは地元の大人たちだけだ。本人はかわいいイコール子供っぽいと思い込んいるから。
「世話を焼かれるのも嫌じゃないけど、このままでいるのもな……」
「そーね、ある日突然彼女ができましたー!って言い出すかもよ」
「うー……それはまだ無いと思いたい……」
「……彼氏ができましたー!って言うかも」
「やめてほんとやめて」
ミクリオに彼女ができたら、って思うだけで胃が捻くれそうなのに。女の子なら自然の流れだってのたうち回りながらも諦められるかもしれないけど、ミクリオに変な虫がついたら耐えられない。オレがどんなに我慢したと思ってるんだって詰め寄ってしまいそう。
「でも無くはないんじゃん?お前みたいな目で見てるやついるかもしれんし」
「無理……それだけはほんと無理……」
ミクリオに恋人ができたりしたらどうしよう、って悩んでる。都会に出てきて勉強ができるのは良いことだけど、ミクリオを取り巻く人間が増えていくことに不安を覚えてもいるからオレは結構わがままだ。独占欲が強すぎて困る。
「どっかの誰かが怖い顔してそばにいるから平気だと思うけど」
「そ、そんなに怖い顔してるかな……」
「自覚あったのね」
そこまで怖い顔はしてないはずだけど、そばにいるのは本当だから。自分が美人だって欠片も思っていないミクリオは無遠慮な視線を向けられても無防備だ。ミクリオの見てる鏡は歪んでるんじゃないかと子供の頃から思ってる。
「だって、オレがいないと危なっかしいんだもん」
「ふーん。なるほどねえ。そんなら、」
続く言葉はドアの開く音に掻き消された。立て付けの悪い教室のドアが立てる音は煩い。ドアを開けた本人は涼しい顔をしていたが、オレとザビーダを認めると少し目を見開いた。
「ザビーダ?なんで君がここにいるんだ。仕事中じゃないのか」
「ん?んー、サボり」
嘘だ。暗い顔をしてるオレを認めてわざわざ相談にのってくれてた。
だけど本当のことはミクリオには言えない。相談してたって言うだけでも駄目だ。心配はかけられない。
「そんなことだろうと思った。社会人なんだから仕事しないと駄目だぞ。給料分は働かないと」
「はいはい、ミク坊は厳しいねえ」
「だからその呼び方はやめろと……スレイ?」
口を挟めなくてぼんやりしているオレに首を傾けたミクリオに見つめられて、慌てて笑ってみせる。
ザビーダが責められる謂れはなんにも無い。それなのに見当外れな小言を誰より潔癖なミクリオに言わせてしまっているこの状況が嫌だ。
「んで?お前らまだ帰んねえの?」
「ああ、もう帰るよ。……スレイ、なにか用事でもあるのか?」
「いや、ないよ」
「なら帰るぞ。買い物にも行きたい。荷物持ちをしてくれるかい」
「分かった、今行くよ。そうそう、今日も弁当すげー美味かった!」
「当然だろ、誰が作ったと思ってるんだ」
胸を張ってみせてもやっぱりミクリオは小さくてかわいいなあ。その分、可愛いって思うこの感情に劣情が含まれているのがとても申し訳なくなるわけで。
橙色の瞳がオレとミクリオをにやにやと見守っているのはこの際気にしないことにする。迷惑、かけたし。状況を楽しんでるみたいだからちょっと罪悪感は薄れた。少し、ほんの少しむかっとするのはオレも人間だから仕方ない。
「じゃあザビーダ、またね」
「また明日。あんまり仕事サボるんじゃないぞ」
「おー」
浅黒い顔がへらりと笑う。ひらひらと軽薄ぶって手を振るザビーダに申し訳ないと思ったけど、今は気遣いに甘えさせてもらおう。埋め合わせはなにがいいかな。おやつがいいかな。
声もなくたいへんだねえ、って呟いたザビーダに、オレは苦笑を返してみせた。



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