今朝も隣の席は空いている。
時計の針が刺すのは始業の十分前。この学校には朝のホームルームというものが存在しないから、こんな時間でもだらだらと廊下を歩く生徒や教室で談笑に興じる生徒は珍しくない。
だからスレイの隣の席が空いているのは不思議でもなんでもない。常識的に考えるとそうなのだけれど、他でもない彼がこんなに遅い時間に登校してくるのはひどくそぐわない気がしていた。彼はいつも始業の三十分前には自分の席に掛けて予習をしているような真面目な生徒だ。
といって心配しているわけではない。実のところ彼が遅く登校してくるのはここ数日続いていて、今日も同じ理由なのだろうと思われた。それでも空席にちらちら眼をやってしまうのはやはり、それが彼であるからなのだろう。
教室のドアが開いたのは始業の五分前。全体的に色素の薄い小柄な少年は、乱れた息を整えながらこちらへ真っ直ぐに歩いてきて、肩に掛けていた四角い鞄を机に乗せた。走ってきたせいか真白い頬は紅潮している。自然と頬が緩んだ。
「ミクリオ、おはよう」
「おはよう、スレイ」
柔らかな声は弾んでいる。綻んだ唇から白い歯が覗いた。
席につくと、ミクリオは参考書や辞書やノートや小説の類が限界を越えて詰め込まれて変形した鞄から教科書を取り出しはじめた。トントン、と取り出したそれらを揃えて机に入れていく指先は長く細い。それを見て漸くスレイも授業の準備をする気になって、机から辞書とノートを引っ張り出した。一限目は古典だ。今時の学生には珍しく、スレイもミクリオも紙辞書を愛用している。
そうこうするうちにチャイムが鳴って、前方のドアから教師が入ってきた。起立、と凛とした声が隣から聞こえる。このクラスの級長はミクリオだ。たった五分前に登校してきた彼は一切の乱れを感じさせずに静かに佇んでいる。
着席、と短い声がかかるとクラスメイトが一斉に席につく。若い教師は人好きのする笑みを浮かべながら一人の生徒を呼んだ。今日の訳文の担当だ。起立した生徒が緊張の面持ちで紡いだ声は、当人には申し訳ないがうまく耳に届かなかった。何せ声が細すぎる。予習の答え合わせは後になるだろう。
スレイは息を吐くと、ちらりと横目で隣の席に掛ける親友を観察する。ぴんと伸びた背筋が綺麗な線を描いている。眼鏡の下の長い睫に縁取られた瞳は黒板を真っ直ぐに見詰めていた。
辞書で優等生、と引いたらそのまま出てきそうな、絵に描いたような折り目正しさだ。校則の規定通りに着こなした白のブレザーと、長い睫毛に縁取られた大きな瞳を包む黒縁眼鏡。目にかからないくらいの長さで揃えられた前髪はきっちり真ん中で分けられている。誰に聞いたって真面目な優等生だと答える筈だ。
その如何にも大人しげで、感情の薄そうに見える清潔な白皙は存外感情豊かで、くるくると表情を変えることをスレイは知っている。貯めた小遣いで新しい本を買って、二人でそれを覗き込むときの、薄桃色に染まったまろやかな頬に触れてみたいと思ったことがある。ミクリオはきれいだ。
大人たちが望むような優等生らしい服装は、当の同級生たちにはほぼイコールで洗練されていないという評価を与えられる。だが、少なくともスレイにとってミクリオは別だ。そもそもの造形が飛び抜けて優れているから、寧ろ清廉な美少年と呼ばれてしかるべきだ。装飾なんてしなくても、ミクリオはそのままで美しい。ただひとつ惜しいのは、紫色の美しい瞳が硝子のレンズに隠されてしまうことだ。年齢より幼い顔立ちを気にしているミクリオは、なかなか眼鏡を外してはくれない。
このところ、ミクリオをきれいだと思うたびに背骨の辺りがざわめく。確かにミクリオは美しいのだから自分がそう思うことにになんの不思議もないはずなのだが、妙に胸がもやもやした。
す、と音も立てずミクリオがを視線をこちらに向けた。動きに無駄がないからか、彼の動作は大抵静かだ。
(スレイ)
淡い色の唇がスレイの名の形に開く。曇りのない瞳に咎めるように射抜かれると必要以上にどきりとしてしまって、慌てて前を向いた。ミクリオもまた体勢を正したのが視界の端に映る。おそらくこちらの心中など分かっていないだろう。そうでなければ困ってしまう。この自分でも名状しがたい感情を知られたくない。少なくともこれがなんなのか見当がつくまでは。
彼に抱く感情の正体を掴み損ねて、スレイは小さくため息を吐いた。



慌ただしく登校してくる最近のミクリオは、これまた慌ただしく帰っていく。
最初の日はあまりに驚いて何より心配になって、今にも駆け出していきそうな背中を引き留めて聞いたのだ。
「何かあったの?大丈夫か?」
「何か、というか……そういう時期なんだ。すまない」
明晰なミクリオにしては曖昧にすぎる言葉だったが、ではその用事はなんなのか、と問うことはできなかった。言いたくないのだとその表情が語っているような気がした。それ以上しつこくして嫌われるのが嫌で押し黙ったスレイに申し訳なさそうに謝ると、腕時計を見つめながら忙しそうに去っていった。
登下校は一緒だったのだ、これまでは。スレイの家は郊外にあって、電車を乗り継いで駅から徒歩で登校している。ミクリオはこの年で独り暮らしだ。身寄りがないわけではない。実の両親こそ鬼籍に入っているそうだが、義父や親戚に育てられたと言っていた。独り暮らしなのは彼の故郷が遠すぎるからだ。電車で三時間かかる上にその本数が少ないと言うのだから、独り暮らしをするのも頷ける。
駅からほど近くの小さなアパートにミクリオは住んでいる。少し遠回りにはなるが一緒に登校したくて、わざわざ迎えにいくのが常だった。
けれど今はそれもできない。本当に時間がないようなのだ。挨拶はきちりとしてくれるけれども、会話をしながら帰るほどの時間はないらしい。スレイにとってはたった数十分のことだから、大したことではないのはずなのだが。
「ミクリオ、今日も急ぐのか?」
終礼の鐘が鳴る中、半ば諦めつつ問えばミクリオが顔を上げる。淡い色の髪がさらりと流れた。
「ああ、暫くはずっとこうだ。僕もこんなに慌ただしいのは嫌なんだけどね」
「なんか、たいへんそうだな」
「うん……まあ、仕方ないんだ。色々あってね」
「わかんないけど、あんまり無理するなよ。ミクリオ、疲れてるだろ」
長い睫毛がぱちぱちと瞬く。意外そうに眼を見開いたミクリオに、こちらが少し驚いた。疲れているかどうかなど、ミクリオ自身が一番わかっているだろうに。
「疲れて見えるか、僕が」
「うん。ちょっと怠そうだよ」
「そうか……情けないな」
ぽつりと呟かれたそれは独白だったのだろう。悔しげに噛まれた唇が切れてしまわないかと心配になった。彼の皮膚は脆弱にできている。
薄い皮膚の下、僅かに浮いた静脈は青い。元より白い膚がここ最近は更に色を失ったように見える。他のクラスメイトが気づいているか定かではなかったが、少なくともスレイにはそう見えた。
「忙しいんだから仕方ないだろ。あんまり辛いなら手伝うし。オレにできることなら」
「スレイ……ありがとう」
ミクリオははにかんだように笑う。心のどこかが擽ったくて、妙に面映ゆい。
「とても嬉しい。今回ばかりは手伝ってもらうわけにはいかないけど、気持ちだけもらっておくよ」
「そっか。なら、頑張れよ」
「ああ」
どんな用事なのかは結局のところ分からないが、親友としては応援してやらねばなるまい。また明日、といつもの通り挨拶を交わして細い背中を見送った。
(……あれ)
なんだか妙な違和感を覚えた。シャツのボタンを一段かけ違えたような小さな、けれど確かな違和感はけれどうまく正体が掴めない。一体なんだろう、と首を捻りつつスレイはエナメルのバッグに荷物を詰めた。教室に残る何人かの生徒と挨拶を交わして、教室を出る。
廊下に出ると、きゃあきゃあとかまびすしい喧騒が聞こえてきた。学校指定の制服の白が地味な色の廊下を染め上げている。
春の学生たちはあかるい。新しい友人を探す者や、クラスメイトの連絡先を聞いて回る者、休み明けに久々に会ったの友人を遊びに誘う者やらで忙しかった。部活の勧誘が始まればもっと騒がしくなるだろうなと他人事のように思う。こういう明るい喧騒は好きだ。
「それでさー……あ、ごめんなさい!」
「いや、いいよ」
友人と談笑しながら歩いていたらしい女生徒の肩が胸の辺りにぶつかったが、さほど衝撃は無い。自他共に認める童顔のスレイだが、長く武道をやっているためか体格は良い。細身の女子とぶつかったところでなんということはない。
むしろ彼女の方が痛かったかもしれない、とふと心配になる。スレイは彼女の視線に合わせるように屈むと、じっと目を見つめた。
「オレこそちゃんと前見てなくてごめんね。痛くなかった?」
「あ、は、はい!」
小柄な少女は頬を染め上げてこくこくと頷いた。緊張しているのだろうか、一年生かな、などと思いながらふわりと笑む。大きな目が印象的な可愛らしい子だった。
彼女の友人だろう二人の少女は何故だかスレイをじっと見詰めていた。一様に華やかな雰囲気だから、化粧でもしているのかもしれない。甘ったるい女の子らしい匂いがしていた。
「じゃあ、またね」
新入生ならこれから縁があるかも知れない。そんな風に思いながらひらひらと手を降る。早く戻って家の手伝いでもしようか。新しい本を買いに本屋に行くのもいいかもしれない。それとも図書館か。
ミクリオがいない分浮いた時間をどう使おうかと、下校中はいつもそればかり考えている。しばらく歩いたところで黄色い悲鳴が背後から聞こえた気がした。女子はいつも楽しそうだな、などと頭の隅で思う。仲が良さそうで少し羨ましい気がした。
(……ああ)
ふと違和感の正体に気づいた。匂いだ。
甘い匂いがしていた。ミクリオ自身の清潔な仄かな匂いとは違う、粉っぽい匂い。これと似た匂いを嗅いだことがある。
「……化粧品?」
母親の化粧台でも似た匂いを嗅いだ気がする。ただ、母の使うそれとはまた違う。何が違うのかまでは分からない。あえて言うなら、ミクリオから漂う匂いの方が薄かったことくらいだろうか。
「……まさかね」
自分に言い聞かすように呟いた声は震えてはいなかったか。
スレイは一つ頭を振って頭を切り替えようと努めた。やはり今日は図書館に行こう。そこで遺跡の文献でも漁るのがいい。




昔から、執着心が薄いと言われる。
趣味や物品に対しての話ではない。スレイの歴史好きは付き合いの長い友人やクラスメイトなどには広く知られていて、むしろ興味が深すぎると皆が口を揃えて言う。歴史マニアだとか歴史オタクと呼ばれることにはむしろ誇らしい気持ちさえ抱いている。物欲も人並みにはあるし、古くなった物にも愛着を持つタイプだから物持ちはいい。
人間関係にだ。情熱的で真っ直ぐと称されるスレイだったけれども、人間関係はことのほかあっさりしていると言われる。来るものは拒まず、去るものは拒まない。それが人間関係におけるスレイのスタンスだ。
スレイに言わせれば、彼ら彼女らに対する思いが薄いと言うわけではない。寧ろその逆で、彼らを思えばこそ距離を置きたいと言われれば諾々と従うしかないと思っているだけだ。
そのうちの何人かに薄情だと責められたときには本当に驚かされた。離れるのが嫌ならば離れなければいい。何故そんな複雑で面倒で、こちらを傷つけるような真似をするのか純粋に理解ができない。また友人関係に戻りたいのかと、そう問えば馬鹿にするなと言われる。とかく思春期の女子にはそういう性質の者が多く、スレイを辟易させた。
だからそう、今度もそのようにすればいいだけの話だ。ミクリオがスレイより優先するものを見つけたのならそれに従えばいい。けれどそうすることができない。彼が去っていくのならどんな手を使っても引き留めねばと、らしくもない考えが浮かぶほどに彼に執着している。
ミクリオがもし、スレイから離れていった彼らと同じように去っていくのを想像するのが怖い。薄情だと彼が言うのなら、謝り倒してどうか友達でいてくれと頼み込んでしまいそうなくらいだ。らしくない、と自分でも思う。
「……はあ」
小さく吐いたつもりだったため息は想定以上に大きく響いてスレイを慌てさせた。
専門書が多いこの階にはあまり人気がない。調べ物をしている大学生らしき男や眼鏡の初老の男が何冊もの本を机の前に並べて読み漁っていた。この中で一番若いのはスレイだ。古びて堅い、華々しさのない書籍は幼い瞳には威圧的に映るのかも知れない。誰かがページのめくる音ばかりが聞こえる。
図書館に来れば少しは気が晴れるかと思ったのだが、歴史書を読むたびに浮かぶのは親友の顔だ。ミクリオならどう考えるだろう、どんな考察をするのだろう、などということばかりが浮かんで集中できない。本に集中できないなんて生まれてはじめてだ。
その答えは明快だ。ミクリオと友人になったのも歴史がきっかけだからだ。
図書館は宝の山だ。学生の身では手を出せないような高い本が惜しげもなく並んでいて、期限さえ守ればどれだけ借りても怒られたりしない。専門書の類は文庫本などより高い上に古本屋で探すのも大変だから、蔵書の多い図書館はそれだけで有難い。
学校の図書室も同様だが、スレイにとっては文学書が些か多すぎるようにも思われた。スレイは文系ではあるが、あまり小説を読まない。加えて漫画がおいてあるせいか利用する生徒の目当てはもっぱらこちらで、スレイのように専門書を借りていく生徒は滅多にいない。ほぼ唯一の例外がミクリオだった。
図書室の隅の人気のない書棚の前で何度も見かけて、もしや趣味が同じなのかと話しかけて仲良くなった。スレイは人見知りをしない質ではあるが、ミクリオとはこれまでの誰よりも自然に仲良くなれた気がする。
ミクリオが一番好きなのは古代で、そこはスレイと同じだ。遺跡と呼ばれる、かつての人々が暮らしていた居住区や利用していた施設の一つ一つに訪れてみたいと何度も語り合った。学生の身では叶えることが難しいこの欲求は、代わりに図書館で歴史にまつわる文献を漁ることや、博物館に入り浸ることで発散されていた。
同年代の客がほとんどいない、どこか乾いた匂いのする建物は、二人にとってはテーマパークよりずっと魅力的な場所だ。マナーを守って二人静かに博物館を巡った後、カフェやファーストフード店で熱い議論を交わすのが常だった。
そんなことをつらつらと考えて、内心でため息をつく。どうにも以前のようには楽しめない。ここにミクリオがいたらと詮ないことを考えてしまう。ミクリオと会う前はそれこそ一人で楽しんでいたのだが。
「……それだ!」
ぱっと脳内に考えが浮かんで、思わず叫んでしまった。すると年老いた白髪の司書がじっとこちらを睨んだので、スレイはとっさに愛想笑いを浮かべた。



その日のスレイは機嫌がよかった。祝日だからか、久々にミクリオの時間が空いていたからだ。家で遊ぼうと言う話になって、遠足前の子供のように胸を弾ませながら出迎えの準備をしていた。
台所で二人分の紅茶を淹れて、階段を上がる。スレイの部屋は二階だ。書棚から溢れ返りそうな量の書物と史跡を訪れたときの土産物と、高校生らしい参考書やウォークマンなどが渾然一体として奇妙な空間になっていた。
ぴんぽん、とチャイムが鳴って、弾かれるように階下へと降りる。勢いのまま玄関先まで降りてドアを開けた。ドアの先、明るい日差しの下のミクリオの白に近い髪はきらきらと輝いて見える。白いシャツの上に水色のジャケットを羽織ったミクリオは、土産らしい紙袋を抱えていた。肩には普段通り鞄をかけている。
「ミクリオ、よく来たな!」
「……君、もう少し警戒しろよ。僕じゃなかったらどうするんだ」
躊躇なく出迎えたスレイにミクリオは面食らったようだった。そういえば何一つ確認しなかったが、不思議とスレイは客がミクリオだと確信して疑わなかったのだ。
「ごめんごめん。でもチャイム聞いた瞬間ミクリオだ!って思ったんだよな。合ってたんだし結果オーライだろ」
「あのな……警戒心が足りないぞ。都会にはどんな危険があるか分からないんだからな」
「あはは、ごめんって」
そう言うミクリオの方が田舎の出身なのだが、こうして心配してくれる心根が嬉しいので言い返したりはしなかった。ミクリオを招き入れて鍵をかける。二人で階段を上がりながら、手土産に目を向けた。
「ミクリオ、それ何持ってきたの?」
「クッキーだよ。時間があったから、君への手土産に」
「やった!ミクリオのおやつ上手いんだよな。店で売ってるのより好きだよ」
「それはどうも」
澄ました顔で笑んだミクリオは、慣れた仕草でスレイの部屋に入ると腰を下ろした。それがなんだかとても懐かしい心地がして、満たされた気分になる。
「それで、先に食べるか?後にする?」
鞄からノートを取り出しながらミクリオが笑む。

「メーヴィンの!?」
たちまち頬を紅潮させた親友の姿に、スレイの方こそ快哉をあげそうになった。
メーヴィンといえば歴史マニアの間では知らぬ者などない学者だ。主な研究対象は遺跡。老練な雰囲気に反して彼の言葉は軽妙洒脱で、歴史に興味のない人間でも楽しませる程に話術に長けている。そのメーヴィンの特別講義のチケットとなれば歴史マニアにとっては垂涎ものだ。
四方に手を尽くして手に入れたチケットだ。アイドルのコンサートなどとは違って値段自体は決して高くはないのだけれど、スレイたちのような歴史マニアには人気があっておまけに座席が少ないからいつも争奪戦になる。
「よかったら一緒に行かない?少し遠いけど」
耳から届く自分の声は有り難いことに震えていなかった。緊張と不安で心臓が先程から跳ね回っている。じいとチケットを見詰める紫はきらきらと輝いていて期待が高まる。無意識にだろうか、小さく吐いた息は熱い。やはり興味を失ってなどいなかったのだ、ミクリオはやはりミクリオなのだと笑顔を張り付けた表情の中で安堵する。
そう、期待が大きかったからこそ、次の言葉に地に落とされたような心地になった。
「……その、すまない。先約があるんだ。だから、行けない」
「そ、っか……」
なぜと問い詰めなかったのは、ミクリオの声があまりに申し訳なさそうだったからだ。口惜しげにチケットを見詰める表情に嘘はなくて、確かに惜しいと思ってくれているのだと思えた。スレイと遊べないことか、学者の講義を聞けないことか。もしくはその両方を惜しんでいるのは確かで、それに少しだけ救われている。
「本当にすまない。僕としても行きたいことは山々なんだが……時期さえ違ってたらな」
「いや、いいよ。約束があったんだろ?仕方ないよ」
ショックを受けたことを気取られないようにスレイは笑う。最近いつもこうだ。ミクリオの前で愛想笑いをしている自分がたまらなく嫌だった。
「うん。また誘ってくれるかい?」
「もちろん」
頷くとミクリオは破顔した。よかった、と呟かれた響きが変に愛しく思えた。ミクリオがそうやって素直な反応をすればするほど、自己嫌悪が募る。
分かっている。誠実なミクリオが約束を破るなんてできるわけがない。先約を優先するのは当たり前だ。
でも、だけど。
――オレより大事な用事って何?
そんな、傲慢で身勝手な台詞が口を出しそうになって慌てて飲み込んだ。ミクリオはスレイの恋人でもなんでもない。だのにスレイの我が儘な部分は一番に優先してほしいと叫んでいる。
まさか約束を破ってでも一緒に行こうなどとは言えないし、そんなことをさせるわけにはいかないとも思う。けれどミクリオがそうしてくれたなら、スレイは罪悪感を覚えながらも喜んでしまうのだろう。親友にこんな独占欲を抱くのは、果たして普通なのだろうか。
ぴぴぴ、と電子音が鳴って、思考が霧散する。反射的に確認したスマートフォンには何の通知も表示されていない。
「あ、すまない」
「いいよ」
初期設定から変えてないらしい呼び出し音はいかにもミクリオらしい。ズボンのポケットからスマートフォンを取り出したミクリオは、どこか慣れない仕草で画面をタップしている。機械の扱いが苦手なのは数少ない欠点の一つだった。微笑ましく思いながら、電話の邪魔にならないようにそっと立ち上がる。
「もしもし。ああ、メディア?」
電波が悪いせいだろうか、どうやら声を張っているらしい電話の向こうの相手の声が漏れ聞こえてきた。高く澄んだ女の子の声だ。そう脳が理解すると、鉛でも飲み込んだかのように胃の腑のあたりが重くなる。
「え?口紅の色?」
聞き返した声には棘がある。少し苛立ったような音は耳慣れなくて、悪いとは思いながらも耳を澄ませてしまう。やはり相手は女の子なのだ。ミクリオに口紅の色を聞くような関係の。
じっと見つめられている自覚がないらしいミクリオの顔からは表情が抜け落ちて、冷ややかな色をしていた。怜悧に整った顔立ちが動きを無くすと一気に人工物のような温度になる。恋人と電話しているとしたら妙だ、と思ったが、あまり慰めにはならない。
「そんなの、どっちでもいいよ。そんなことで掛けてきたのか?……ああ、うん。それじゃあとで」
表情も無く淡々と会話を終わらせると、ミクリオはまた大儀そうにスマートフォンの画面を操作して顔を上げた。スレイを見つめる白皙には温度が戻っている。
「すまない、今日はもう帰らないと」
「ん、分かったよ」
努めて笑って見せるとミクリオはほっとしたようで、それが却って胸に刺さった。そんな表情をされたら引き止めることなんてとてもできない。
声を掛けられぬままに玄関先まで来てしまって、ああこれでしばらく会えないのだ、と女々しいことを思う。ドアを開けたミクリオは振り返って、小さく手を振った。
「またな、スレイ」
「うん、また」
また笑顔を貼り付けて、スレイは努めて明るい声を出す。視界から完全に背中が消えてしまってから、そのままずるずると蹲った。
おそらく今の自分は誰にも見せられないくらい情けない顔をしている。フローリングの床がひどく冷たく感じた。
「なんだ、あれ……」
スレイの知るミクリオは潔癖にすぎるが優しい少年で、女の子や子供には特にそうだった。女好きというわけでなく矜持の高さがそうさせるのだろう。小柄で華奢で、眼を見張る程に美しい顔をした彼はけれど男らしい性質を持ち合わせている。
自分の彼女にぞんざいな言葉をかけるようなタイプではない。ないと、そう思っていたのだけど。
メディア。あの電話の相手。
恋人、でなければ姉、もしくは妹。親戚の女の子かもしれない。そのどれなのかは分からないが、スレイより優先するほどに親しい人物なのだろうか。本人が言うように先約があるからという明快な理由なのかも知れなかったが、一度沸いた疑念は中々消えてくれない。
ミクリオに疑念を抱くなんておかしい。ミクリオは誠実で潔癖なのだから、スレイに嘘なんてつくはずがない。少なくともスレイの知るミクリオはそういう少年だ。そのはずだ。
あんな顔は知らない。スレイの抱くミクリオの像が壊れてしまいそうで、息苦しくなる。
「あー……」
なんだろうこのもやもやは。行き場のない複雑な、どう名前をつけていいのかわからない感情がとぐろを巻いている。のろのろと短い廊下を歩いて部屋に戻ると、崩れ落ちるようにベッドに沈みこんで息を吐いた。パステルカラーのシーツが今ばかりは目に痛い。
他に好きなことができたとか、好きな人ができたとか。そんなのは当たり前にあることで、責めることではないのに複雑な気分になっている。
十数年間生きてきて、ミクリオほど気が合う人物はいなかった。趣味が合って頭の回転が早くて、性格の相性だって頗る良い。スレイにとってミクリオはどこへ出しても恥ずかしくない親友だ。慎重に過ぎるとか自分に無頓着だとか、いくつかある欠点は数えるほどしかなくて、美点はいくら数えてもきりがない。スレイはミクリオがとても好きだ。ミクリオもそんな風に思っていてくれるのではと、期待していたのだけど。
「……そんなに、忙しいのかな」
スレイと遊べないくらい。高名な学者の講義すら、惜しみつつも諦めてしまえるくらい。
オレといるよりも楽しいことなんて、あるのだろうか。



*← →#

TOP - BACK///




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -