何のことはない、人を殺した帰りのことだ。
日は高かったが、薄汚れたスラム街は人気がなかった。狭い裏路地はすえた臭いがする。気温が高いせいか臭気が強い。
「…ち、」
行く手を遮るものに眉を顰めた。元の色が分からないひび割れたアスファルトの上で、茶色の肌のジャンキーがくたばっていた。太った蠅が耳障りな音を立てて飛び回っている。
腐臭のするそれを蹴飛ばすとぐじゃりと水音がして、何ともしれない液体で靴が汚れた。小さく舌打ちをして虚ろな眼窩に唾を吐きかける。当然のごとく反応は無く、ひどく意味のない行動を取っている自分に辟易した。
――そこで足を止めた理由を、上手く言語化することはできない。
はじめ、それは人形のように思われた。
白い顔は異様さを感じるほどに整っていたが、生気がなかった。傷一つない白い肌のせいにも思えたし、布の合間から除く腕や脚が妙に細いせいにも思えた。年の頃は十かそこら、だろうか。薄汚れた布に隠れた長い髪は埃や泥に塗れて汚れていたが、元は白い色をしていたようだった。
顔が良い、とそう思ったが、だからといってそれ以上何を思うでもなかった。確かに綺麗な顔をしてはいたが見たこともないほど、という程でもなかったし、そもそも人間を美醜で判断するほど愚かなつもりもない。家の無い子供が路上で眠っていることそれ自体はよくあることでしかなかった。
それでも足を止めたのは、先刻のことを思い出したからだ。
屋敷で殺した子供は、ちょうど同じくらいの背格好をしていた。
ファミリーを裏切った男の、その子供だった。十かそこらだったろうか。子供は運良く(それはおそらくどちらにとってもだ、)眠っていたので、仕事は楽だった。
……悲鳴を聞かずに済んだのは幸運だった。流石に子供の悲鳴を聞きたいと思うほど悪趣味ではない。
後悔をしているかと言われれば、そうではない。そういう指令であったし、アイザックはそれを忠実にこなしただけだ。その家に生まれついてしまったことが不幸としか言いようがない。そも、子供を殺したのが初めてというわけでもない。親のいない浮浪児には生きるためにせねばならないことは数え切れないほどあって、そして支えてくれる腕は無かった。
ポケットから煙草とライターを取り出し、火を付ける。
紫煙が灰色の空に立ち上っていく。




「やあ、それはおまえの隠し子かい?似なくてよかったねえ」
「……そんなわけがあるか」
塒に戻るなり掛けられた声にいらいらと溜息をつく。ローティーンの子供のようなきんきんと甲高い声にそぐわない口調はアイザックを常に苛立たせた。
それでもあまり言い返さないのは、そうすれば何十倍にもなって帰ってくると分かっているからだ。ただの生意気なガキに見えたとて、相手はアイザックと同年の、しかも医者である。
アイザックの所属する『組織』で、専用の部屋を与えられているということは、それなりの地位にあるということだ。未だ下働きでしかないアイザックとは違い、それなりに頼りにされてもいる。畑が違いすぎて妬みを覚えたことはないが。
白髪の年齢詐欺男の後方には、黒髪黒瞳の少女が控えていた。年の頃は十代の前半くらいだろうか。アジア系の年齢はアイザックには判然としなかったが、年下なのは確かだろう。彼女は全くの無表情で診療台に寝かされている少年を見つめた。年が近いから興味でもあるのかも知れない。
「大体、年齢が合わんだろう。こんなでかいガキがいてたまるか」
「おかしなことを言うじゃあないか。ここじゃ、そんなこと珍しくもないだろう?」
くりくりした目を煌めかせて男が言う。アイザックは口元を引き結んで男の言葉に応えた。この街は最悪だ。衛生環境も、人も、それを仕切る連中も。ろくでもない連中ばかりが集った芥溜めだ。
「そうじゃないって言うなら…ああ、売り飛ばすのかい?薄汚れちゃあいるが、良く見れば割と見られる顔をしているじゃないか。良い値で売れるかもしれない」
泥にまみれた白い顔を見ながら男は言う。医者らしくもない言葉ではあるが、組織の人間としてはこの上なく正しい思考だった。アイザックとて、普段であればそう考えただろう。それなのにそうしなかったのが何故なのか。本当に分からないのだ。
「売らん。――働かせる。人手が足らないと言っていたからな」
「なるほど、それが言い訳か」
すべてを見透かしたように男が笑む。沈黙で肯定する以外にアイザックにできることはない。十九年生きてきた中で、これほど他人を見透かすことができる人間を他に知らない。子供のような顔をして、何もかもを知ったようなことばかりを口にする。
何故だ、と。それを掴み損ねているのはアイザックの方だ。好悪でも憐憫でもないのは確かである。そうせねばならないような気がしたのだ。だから、言葉にすることが出来ない。
「子供一人拾って償いでもしたつもりかい?それで死んだ子供が感謝してくれるとか思ってるわけじゃないだろうね」
「それは無い」
それだけは断言できた。この子供がもしアイザックの仲間になるというのなら、人殺しになる道か人を害する道しかない。使い物にならなければそれこそ売り飛ばされるか。それはこの子供にとっては死ぬより不幸なことなのかもしれない。ただのエゴだ。こんなものは。
「しかし、あのアイザックが偽善者みたいなことをするだなんてねえ。うふふ」
女のようなイントネーションで笑う男を半眼で睨む。整った愛らしい顔立ちの彼がそうすると天使のようだったが、側仕えの少女は全くの無表情のままだった。アイザックと彼女の二人分の冷淡な視線を浴びながらも男は笑い続ける。
「お前、さっきからぐだぐだと言っていやがるが。反対なのか賛成なのかどっちなんだ」
「ぼく?ぼくはどっちだっていいさ。おまえの好きにするがいいよ。ぼくはね、面白ければ何だって良いんだよ」
ころころと笑う子供のような男を、少女は常の無感動な目で見つめている。不満があるかい、と軽い語調で問うと、少女は朱唇を開いた。アジア系の、美しい目鼻立ちをしている。何故こんな場所にいるのか不思議なほどに。
「私は貴方に付き従うと決めておりますので」
凛とした美しい声だった。酔狂なことだ、と。そう思ったのはアイザックだけではなかったらしい。男は目をまん丸に見開くと顔をくしゃくしゃにして更に笑った。これは本気でおもしろがっている時の笑い方だ。
「ははは!――それはおまえ、お目付役ってとこか?何度言われてもあの家に帰るつもりはないからね。お前、飽きたらいつだって帰っていいんだぜ」
男の言葉に眉一つ動かさず、少女は台所へと入っていった。夕食でも作るつもりなのだろう。既に日は落ちかけている。華奢な肩を竦めて男はまた笑った。
それじゃあ坊やをちょいと診てやろうかね、と軽い口調で言う男が掛けてあった白衣を纏った。それでやっとアイザックは息を吐く。とりあえず、ここからは男の仕事だ。
朝から続いていた気分の悪さは、随分と和らいでいる。



*← →#

TOP - BACK///




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -