※メリバ





どこまでも沈んでいく感覚がある。
深く暗い闇の中に音もなく沈んでゆくような。飛び込んだのは自分の意思の筈なのに水面がどんな色をしていたのか思い出せない。静かで波一つない、暗いのに澄んだ水の中にいるような気がしている。
息を一つ吐けば周囲がごぼりと泡立って、上へと昇ってゆく。きっとそちらは明るいのだろうと他人事のように思う。沈んでいくことに抵抗は感じなかった。
胸のなかでほんの少しざわめいたものに蓋をして、小さく目を閉じる。




「クリオ、……ミクリオ」
たゆたうような微睡みから抜け出してぼんやりと目を開く。半ば眠ったままの意識のまま瞳をさまよわせた。
ベッドの端に掛けて僕の顔を覗きこむスレイの耳元で、トレードマークの耳飾りが呼吸に合わせて揺らめいている。重い目蓋を上げ、彼に声を掛けようとして、喉が痛むことに気づいた。
「おはよう。……我ながらひどい声だな」
「だな」
くしゃりと笑む顔の明るさに、どうやら今日は調子がいいようだと感じる。いいことだ。僕はといえばいつものようにひどく怠いのだけれども。
殺風景な部屋だった。ベッドが一つと古い本があるだけ詰まった本棚と、食事をするためのテーブル、それから二人ぶんの服を入れた小さな箪笥がある。とはいえ、天族の僕には着替えなど不要だから実質これはスレイのものだ。そもそも家自体が不要と言えば不要なのだが。
ベッドは一つで十分だ。二つ置いておく意味は喪失した。
緩やかに身を起こすと額に唇が落とされて、その熱さに彼の体温を感じる。慈しむような笑みを浮かべたスレイは、少し惜しむようにベッドから立ち上がった。
「何か飲む?」
「頼むよ」
穏やかに笑み、僕に背を向けて台所へと向かう彼の後ろ姿を眺める。夜を思わせる漆黒に金糸で紋様が描かれたその外套を、スレイは最近好んで着るようになった。旅をしていた頃の服と構造も紋様も良く似ていたが、導師のそれのような清廉さは無い。いっそ威圧的な雰囲気で、彼らしくはないが妙に似合っていた。彼を恐ろしいとか偉そうだとかそんな風に思ったことはないしきっとこれからもそうなのだろう。ただ、そう。今の彼には白よりは黒が似合う気はしている。
軽く髪をかきあげて息を吐く。ざあざあと雨が降っていた。今の季節は冬だったろうか。上手く思い出せないが、空は鉛のような色をしている。最初は煩わしいと思っていた雨音にも慣れた。ここはいつも雨が降っているから。
旅は終わった。終えることに決めた。もしかしたら、仲間たちは終わったとは認識していないかもしれない。僕たちを探しているかもしれないと思うと悪い気はしたが、かといって導師の旅を続けるつもりはなかった。
――具体的な理由があったわけではない、と思う。終わらない戦いにも、先の見えない旅にも、報われないことにも、スレイは文句ひとつ言わなかったし、真摯に取り組んでいるように見えた。仲間を励ましてすらいた。僕の目にはやりすぎではないかと映るくらいに頑張っているように見えた。けれどやはり、どんな人間にも限界はくるのだ。
駄目かもしれない、と告げたスレイの声を、僕はどうしてか思い出せない。スレイがそう言うのならもう無理なのだ、というそれだけがすとんと胸の中に落ちてきて、それきりだ。
「やめるのか」
問うた声に一切責める響きが混じらなかったのを自分でも不思議に思う。らしくもないくらい優しげな、耳慣れない声だった。無言で頷くスレイの俯けられた首の角度に胸のつかえがとれた気がした。白状すれば安心した。穢れてしまった人や天族を大勢見てきた。旅を続ける以上、スレイがそうならない保証なんてどこにもなかった。だから、失望より安堵が勝った。
ひょっとすると、追い詰められていたのは僕の方だったのかもしれない。
「分かった」
頷いてみせると、スレイは少し驚いたようなほっとしたような顔をした。そうなればあとは早かった。僕がついていくことにスレイはなにも言わなかったし、言わせるつもりもなかった。皆が寝静まった頃、霊霧の衣を纏って二人で宿を抜け出した。
星の綺麗な夜だった。空気が澄んでいて、街はいつになく静かだった。夜だからか、穢れはさほど目立たずに、石畳の町が妙に美しく見えた。一度だけ宿を振り返ったスレイの気持ちが察せられたので、僕は何も言わない選択をした。
音を立てないように歩くスレイの中で水の膜が消えてしまわないようにと気を張っていたから、街の外に出たときには少し疲れてしまった。彼の中から出て息をつく僕に、スレイは軽く頭を下げた。
「ごめん、ミクリオ」
「謝るなよ。これは僕の意思だ」
僕が付いていきたいと思ったのは幼馴染みでただの人間のスレイで、導師と旅がしたかったわけではない。彼が、彼の意思でもう導師の旅をするのは嫌だというならそうさせればいい。こんな旅などいつでもやめてしまって構わない。口にはしなかったけれどずっとそう思っていた。そして、スレイが導師でなくなったなら僕には旅をする理由がない。
結局のところ僕は、スレイの敵にはなれない。




暫くして戻ってきたスレイはカップを2つ持っていた。差し出された方のカップを礼を言って受けとる。苦味のある、暖かな紅茶が傷んだ喉に染みた。スレイは存外手先が器用だから、紅茶を淹れるのだって上手い。苦手なのは菓子を作ることくらいだろうか。そんな風に考えて、旅のことを思い出す。
「どうかした?」
「いや。おやつを作るのは僕の担当だったなと思って」
「そりゃあ、ミクリオが作るのが一番上手かったからな」
それは言い過ぎだ、と言いつつも悪い気はしない。厳密に言えば担当を決めていたわけではないのだけれど、僕が作る機会が多かった。単純に作り慣れていたし、それに、
「エドナやロゼはとんでもないものを作るからな。任せておけなかったんだよ」
「それは確かに!」
「君もね」
懐かしさに自然と目元が弛む。辛いことは多かったけれども、彼らのことはほんとうに好きだった。イズチのみんなの次くらいには、彼らのことを大事に思っている。たぶんもう会うことはないだろうけれど。
「デゼルは案外凝ったものを作る……」
そこまで言ったところで、唇が塞がれた。目を見開いて固まる僕に構わず、スレイの舌が僕の唇を割り開いて侵入してきた。歯列をなぞるように蠢くそれに、体が熱を帯びていく。上擦って甘ったるい、耳障りな声が漏れるのを止められない。緑の瞳に浮かぶ欲は先程までは確かになかった筈なのに。どこでスイッチが入ったのだろう。
「ん、は……ぁ、」
「ミクリオ」
名を呼ぶ声が聞こえたかと思うと、体が引き寄せられた。悔しいことに一回りも小さな体は簡単に抱き留められてスレイの腕の中に収まる。スレイの膝に座るような格好にさせられて居心地が悪い。少しかさついた唇が耳に、頬に、何度も落とされる。じわりと体が熱に冒されていく。
「すごく怠いんだけど。誰かさんのせいで」
言葉だけは嫌がってみせれば、緑の瞳が三日月を形どった。嫌じゃないくせに、と笑い含みの声がする。僕にだけ意地が悪いのは昔から変わらない。素直になれない僕を誰よりも知っているくせに。
スレイの手が肌着の中に滑り込んで素肌を撫ぜた。昨日さんざん高ぶらされた体は簡単に火照らされる。浅ましいとは思わないでほしい。スレイが触れなければ僕はこうはならなかったのだ。
今日一日使い物にならなくなるだろうな、と思いながら、そっと唇を合わせる。これは、僕の体は、少しでもスレイの役に立っているのだろうか。
「は、ぁ、」
スレイの大きな手が下穿きに伸びて、僕のものを握る。口づけのせいか、僕のものは既にゆるやかに熱を持っていた。ぐりぐりと先端を親指で弄られて熱い息が漏れた。やがて先走りで濡れた指先が蕾を撫でて、来るだろう刺激に唇を噛んで備える。
「いれるよ」
「ん、……」
返事を待たずに指が差し入れられた。右手は僕を握って緩やかに刺激を与えながら、左手の指が憎らしいくらい器用に足の間に入り込んでくる。中を弄られた方が感じるようになったのも、簡単に受け入れてしまうのも全部スレイのせいだ。昨晩散々暴かれた体は抵抗もほとんどせずに、指が入り込んでいく。体がスレイに馴染んでしまったようだ。
「ん、ふ、…は、ぁ、」
ぐちゃぐちゃと、粘着質な卑猥な音が僕の体から聞こえてくるという事実に目を背けたくなる。天族に現実逃避は許されないというのに、なんて下らないことを考えてみたけれども、思考は快楽に塗りつぶされてしまう。乱れた息がスレイの髪を揺らした。指の本数が増えて、少しずつ中が拡げられている。けれども一番弱い部分には触れてくれない。
焦らすような指の動きがもどかしくてスレイを睨むと、影のない笑みが返された。これをするときは輪をかけて意地が悪い。いつもは優しいくせに。それとも人間の男とはみんなこういうものなのか。その答えを僕が知ることはきっとない。これまでもこれからも、僕にはスレイだけだ。
「スレ、イ、も……はやく、」
「ん?早く、なに?」
本当に、意地が悪い。言いたいことなんて分かってるくせに。いつまでも慣れない僕も悪いのかもしれないが。もどかしさと恥ずかしさで死んでしまいそうだ。体は貪欲に快楽を貪っているのに決定的な刺激が足りずに、僕の体は実に中途半端な状態にされている。いっそ自分でどうにかしてやろうかとも思うけれど、たぶんスレイはそれを許してはくれないのだ。
唇を噛んで、柔らかく笑むスレイを見上げる。この瞬間ばかりはいつも羞恥心で死んでしまいそうになる。ぐらぐらと沸騰しそうな頭の中で、達したいという本能が勝った。
「はや、く、……い、かせて」
「いいよ」
「ひ、ああ、あぅ……!」
熱い息と共に言葉が吹き込まれたかと思うと、ぐりと中が抉られた。びくん、と背がしなって、熱が体から放出されていく。生理的な涙が零れて、滲んだ視界の中でスレイの顔が歪んで見えた。肩口にぽたりと汗が落ちて、熱を持っていた頭がじんわりと冷えていく。
欲を吐き出して覚めた頭に、雨音が響く。
(……雨、が)
雨音は途切れることなく続いていた。慣れた筈なのに時折息苦しくなる。お前たちのせいだと言われているようだ。水の天族のくせに雨が嫌になるなんて情けない。
「雨、止まないな」
意識がそれた僕に気づいたらしいスレイの台詞は的確に胸を抉った。幼馴染みなのだ。考えていることなんてお見通しなのだろう。
「……そうだな。ずっと止まない」
その理由を知っているくせに、知らないふりをした。止まない雨が降り積もって心の端が錆びていく。溺れていくその先には絶望すらないのだと分かっていて、僕はここに立ち止まっている。
スレイ一人でなら抜け出せるのだろうか。僕には替えがきく、いくらでも。もっと優れた水の天響術使いなど、掃いて捨てるほどいるはずだ。けれど、スレイほどの資質を持った人間なんていないに等しい。スレイとロゼと、これほどの霊能力を持つ人間がこの災厄の時代に生きているのは奇跡だ。ならば僕は、スレイを解き放つべきではないだろうか。僕がいなければスレイは導師に戻れるのかもしれない。ロゼとデゼルとライラとエドナと、僕より優れた水の天族がいれば旅はもっと楽になって、スレイの負担も軽くなって、それで、
「ミクリオ」
呼ぶ声に思考を止める。優しく体が押し倒されたかと思うと、ベッドに繋ぎ止められていた。視界に広がるスレイの笑顔に視線が引き寄せられて、思考は簡単に止まってしまう。
「一緒に来てくれて嬉しいよ」
「……そう」
いつかと似た台詞に、胸のどこかが軋む。確かに感じた痛みを、優しい口づけがゆっくりとさらっていった。




眠るミクリオの青みがかった白銀の髪を撫でれば、小さな唇から不明瞭な声が漏れる。少し無理をさせたろうか、と思いつつも後悔など微塵もしていないのだから自分は大概酷い人間だと思う。原因が自分だとわかっているから、なのだろう。そうでなければ激昂しているはずだ。幼馴染みのことになると途端に狭量になる自分を知っている。
「ごめんな」
悪いけど逃がしてはやれないよ。ミクリオがいなくなったら、オレはきっと穢れてしまう。
この胸の中のどろりとした澱のようなものが溢れて来る前に、蓋をしなければならない。スレイが穢れてしまったとき、一番危ないのはミクリオに決まっている。いつも、これから先もずっと一緒にいるのだから当然だ。仲間には悪いと思うけれども、穢れる前に二人になれてよかった。
ミクリオさえいれば、世界は十全だ。



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