ひどいひと
先輩は一度だけ立ち止まって、くるりと回って僕の方を見た。
「バイバイ、テンゾウ……またね」
それだけ言うと、背を向けて歩き出す。
ああ、ほんとうに貴方はひどい人だ。今まで一度だって振り向いてくれたことなかったくせに、最後の最後だけそうやって。
『またね』なんて、本当は嘘なんでしょ?
それなのに、わかってるのに――そんなことをされたら、僕は貴方を忘れようにも忘れられないじゃないか。
それから先輩とは一度も会わなかった。むやみな接触は禁じられていたし、それより僕が会おうとしなかった。別段見張りがついたわけでもないし、同じ里内にいるのだ、本当は行こうと思えばいつだって会いに行けたのに、僕は行かなかった。行けなかった。怖くて。もう遠い人になってしまっているかもしれない先輩を見るのが怖くて。まだ僕のそばにいてくれるというなら、いつか先輩の方から会いに来てくれる、そう信じて待っていた。結局、先輩は一度も来なかったし、連絡すら寄越さなかった。
噂の絶えない人ではあったから、情報だけはいくらでも持っていた。どこで何をしているか、知りたくなくても勝手に耳に入ってくる。人の風聞なんて半分以上は嘘だということを、先輩の隣にいた僕は嫌というほど知っていたけれど、耳を塞ぐ気にはなれなかった。そんなあやふやな情報だけが唯一先輩とのつながりを保っていられる方法だったから。
「テンゾウ、お前か」
病院の寝台の上で、先輩は丸で僕のことをよく見知っている友人のように気安く呼んだ。七年だ。僕と先輩が離れていたのは七年。それはあまりにも長すぎる。未成年だった僕は成人した。
それなのに先輩は「またね」と言ったあの日がまるで昨日のことのように、何食わぬ顔。元々表情豊かな人ではないし、僕も先輩もポーカーフェイスはお手の物だけれど……いくら何でも、もう少し距離があってもいいのに、何なのだ、その親しさは。
「今はヤマトです」
僕は「テンゾウ」と呼ばれていた頃の気持ちを封印するかのように、静かに言った。もう貴方の後輩だったテンゾウは、いないんですよ、ということを知らしめてやりたかった。
けれど先輩は僕の引いた一線を簡単に飛び越えて来る。
やめてくれ。勘違いしそうになる。また僕がアンタの隣にいるって思ってしまうじゃないか。
これは任務だ。
私情を持ち込むなんて、許されない。
だから……。
「テンゾ」
「ヤマトですってば」
「あ、そうだったね」
「先輩、わざとですか?」
「んー? なんで?」
「アンタ、僕の嫌がることを嬉々としてやるじゃないですか。ほんと、やめてくれませんか、テンゾウっていうの」
「まー、あいつらの前では気をつけるから」
「そうじゃなくて、嫌なんですよ、僕が」
テンゾウ、とあの頃と同じように呼ばれるのが、こんなに嬉しいなんて、そんなことあってはいけない。
僕とこの人の関係はとっくの昔に清算されて、今は単なる上司で仲間で。
それなのに。
「テンゾウ」
「……何ですか」
「すねてんのー? 機嫌直しなさいよ」
「すねてるのとは、ちょっと違います」
「じゃあ何?」
「先輩のそいうところが嫌いなんです」
期待させる。
させるだけさせておいて、あとで捨てるんだ、この人は。
一度ならず、二度までも、「バイバイ」を告げられるのは、死んでもゴメンだった。
だからもう近づかない。近づかないでください。いつさよならしてもいいように、しておきたいんです。
(100923)
可哀相な後輩シリーズ
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