冬の、寒い日だった。
寒い日だったが、じっとり汗をかいていた。満員電車に乗っていたのだ。
ここから出たら汗が一気に冷えて恐ろしく寒い思いをするのかと、うんざりしながらサラリーマンのゴマ塩みたいな汚い頭を見下ろしていた。

そのときふと目の前の座席に座る男の様子が変なことに気がついた。
具合が悪いのか、顔色が悪く脂汗がこめかみに浮かんでいる。
大丈夫かコイツ。そう思いながら艶やかな髪の間にちらりと覗く相貌を見下ろす。

「あれ……」

無意識に呟きが漏れた。不思議と、そのやけに青白い顔に見覚えがあったのだ。誰だったろう、全く思い出せない。こんな深窓の令嬢みたいな肌の知り合いなんか、女でもいなかったような気がする。さてどこで見た顔なのか。
気になって、あからさまになりすぎないように注意しながら、再び視線を旋毛あたりに向ける。じっと見つめていたら記憶の中で浮かび上がるものがあった。目も眩むような真っ白な光、力強いドリブルの音、吹き出した汗。あ、と思う。

「お前、誠凛の…」

しまった、声を掛けたはいいが名前を覚えていない。しかし相手はすでに顔を上げていた。しっかりと目が合う。俺は口ごもった。

「あの、宮地さん……?」

やべえ向こう覚えてたし。しかし顔色悪すぎんだろコイツ。じゃなくて、何か話さないと。自分から声を掛けておいて黙るわけにはいかない。が、しかし、である。
焦る俺はしっかり合わされた視線を逸らした。

「あ、い、伊月です。5番でPGの伊月俊です」

俺が覚えていないことがわかったのか曖昧に笑って、先回りするように自己紹介をしてきた。バスケをするにはやや頼りない体を縮こまらせて、何かを誤魔化すような笑顔で控えめに見上げてくる。適当にああそうだった、とかなんとか返事をして、近況を訊いたりとなんとも中身の無い会話を交わす。そして訪れる静寂。
なんでコイツに気がついたんだ俺は。沈黙が気まずい。
しばらく悶々と会話のネタを探していたら、伊月は下を向いてしまった。電車の揺れに合わせて肩を揺らしている。
相手も黙ってしまったし、どうでもいいかと思い始めて、ぼーっとその襟足から覗く真っ白な項を眺める。伊月は時折、痙攣したように微かに体を竦めた。ああそういえば伊月は顔色が悪かった。気分が悪いのであればどうにかしてやらなければならない。

「具合、悪いのか」
「あ、いえ、なんでもなっ、いです…」

いやいやいやいや、悪いんだろ、悪いって言えよ。思いっきり声裏返っただろ今。内心ツッコミながら、注意深く伊月を観察する。かなりマズいようなら次の駅で降ろそう。ああこんなに後輩に優しい自分なんて見たら高尾あたりは爆笑するだろう。考えただけでムカつく。だが、そう思っても見捨てられない。そうさせるほど今の伊月は弱っているように見えた。
幸いもうすぐ駅に着く。まだ家の最寄り駅には遠いが、こんな気まずい空気からはおさらばだ。一度降りたほうがいい、そう伝えようと口を開きかけたと同時に。
伊月がガシッと俺のジャケットの裾を掴んできた。驚いて言葉を失う。

「あ、そのっ、次で降ります」
「え、ああ」
「あ、すみませんいきなり、」
「いや、心配だし一緒に降りる」
「そんな、悪いです」
「素直に付き添われてろ刺す…じゃなかった。1人で行かせて倒れられても気分悪いから」

いつもの調子で暴言を吐きかけた。慌てて取り繕ったが伊月がクスリと笑ったので、苦々しい思いで顔をしかめてしまった。
また伊月は笑って、それから軽く頭を下げた。俺は動きに合わせてサラサラ揺れる髪に感心する。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「そうしとけー」

ぶっきらぼうを装ったような返事とは裏腹に、自分でも知らないうちに伊月の頭を撫でていた。


速度が落ちていって、完全に電車が止まった。吊革に掴まってふらつきながら伊月が立ち上がる。隣に座っていたオヤジがジロジロと見てくるのを睨みながら肩を支えた。下手したら高尾より小さいかもしれないと感じたが、その肩は見た目に反して意外と筋肉質だった。スタメンの顔ぶれを思い出し、苦労してるんだろうなと訳もなく思った。


肌を切り裂くように冷たい空気を吸い込んで身震いしながらも、伊月の頬は車内よりも血色がよくなっていた。安堵の溜め息をつく。
ホームのベンチに座らせて、俺は自販機に向かう。そこで缶コーヒーを2本入手。それを見て慌てて財布を取り出そうとする伊月の手に問答無用でコーヒーを押し付ける。今度は遠慮なく暴言を吐いた。伊月は細い目を丸くしたが、すぐに微笑んで礼を言った。

伊月の隣に座って自分もコーヒーを啜る。冷えた体の中に熱の塊が染み込んでいく感触を楽しむ。何も言わずにいたら、伊月がぽつぽつと話し始めた。

「ありがとうございます。途中で降りてもらった上にコーヒーまで」
「気にすんな、それよりこのことは高尾たちには言うなよ」
「言ったら刺されますか」
「うん」
「じゃあ秘密にしておきます」

また伊月が笑う。不覚にも綺麗だと思ったのは気のせいではない。
気を紛らせようと体調はどうなのか質問すると大分良くなったと返される。またお礼を言われた。

「昨日から少し風邪気味だったんです。人混みには酔うし電車にも酔うし腹痛は酷くなるし。それで座ったんですけど、そしたら……」
「?」

伊月は言い澱んで顔をしかめた。軽くいずまいを正して、黒々とした瞳を真っ直ぐこちらに向けてきた。足元を冷たい風がすり抜けていくまでの数秒、沈黙がおりる。


「隣のおじさん、見ました?」
「ああ、ジロジロ見てきたオッサン?」
「その人が、こう」

意を決したように話を再開させた伊月がグッと拳を握って、また開く。そしてその手で俺の背中をズズズと撫でた。

「うおっ!?」
「こんなふうに触ってきたんですよね…」
「まさか痴漢?」

座っているときも痴漢にあったという話は聴いたことがあったが、実際起きてるなんて想像していなかった。ましてや目の前で、しかも気がつかなかったなんて。あとあのオッサンはホモだったのか。衝撃が大きすぎて声も出ない。まあ、電車で何も言ってこなかったことを考えると伊月も騒がれたくはないのだろうから静かにするのに越したことはない。

「はい、たぶん。こんな男撫でて何が楽しいんだか。それで降りようと思ったんですけど気分が悪すぎて立てずに2駅も…。話しかけられたときは必死で」
「それで噛んだのか。気がつかなかった、悪ぃ」
「いえいえっ!……あ、痴漢のせいでチッ、噛んだ!」
「はっ?」
「でも助かりました、本当にありがとうございます」

何か聞いてはいけないことを聞いた気がするが、伊月はなんでもないように会話を続ける。そういうキャラかよ、ギャップ萎えってやつだな。顔が引きつりそうなのをコーヒーでごまかしながら、何度目かのお礼に応えた。












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120821

宮地さんよくわからない…
大好きだけど……
よくわからない………
そして何がしたかったのかよくわからない
痴漢でごめん伊月
でもあんな美人だったら1度はあるでしょうよ
座席での痴漢って気づかれにくいらしいですね


残暑厳しいこの季節に涼を求めて。ということにしておいてください。いきなり冬かよという。
出会いのお話でした。これから2人には何やらかんやらが起きて野を越え山を越え一緒になる日が来たり来なかったりするのでしょう。

長い、長いぞ!
お粗末様でしたっ