部室の扉を開けると無人の空間で自分の荒い息だけが響いた。ああ、やっぱりいないのか。嘆息してベンチに座る。少し期待して来たぶん、疲労を強く感じた。
落ち着くまで天井をぼんやり見ていたが、なんとなく予感がして部室を見渡すと黄色い付箋を視界の端に捉えた。

「あ、」

思わず声をあげてそれに手を伸ばす。
この薄い黄色を見ると伊月を思い出すのだ。彼女は数学を教えるとき、付箋にヒントや公式を書いて俺の汚いノートの上に貼っていく。おかげで数学のノートは普通より厚くなった。ちなみにテストの前なんかは周りに重宝されるアイテムである。
そんなことを連想しつつベンチの端に貼られた付箋を剥がすと書き込みに気が付いた。

『早退します。迷惑かけてゴメン』

伊月のやや角張った薄い字だった。
迷惑、なんて。心配の間違いだろう。
あんなに人前で取り乱す伊月は見たことがなかったものだから、何かアイツを不安定にさせることがあったんだろう。追いかけながらそう思っていたのだ。

「鞄置いて帰るって、どんだけだよ…」

部室の隅に捨て置かれた鞄に、普段彼女が見せることのない弱った姿を垣間見たような気がした。






チャイムが鳴った。3回目。4回、5回。うるさいな、誰か出てよと思ったところで、今は自分以外家にいないことを思い出した。久しぶりに外食しようと誘ってくる母に、課題が終わらないからみんなで行ってきてと言ったのは私だ。食欲なんか無いし、今家族と会話出来るとも思えなかったから。
それにしてもさっきからしつこくチャイムが鳴り続けている。家の電気は全部消してあるはずなのに留守だとは考えないのだろうか。
さすがに応対したほうが良いかと重い頭を持ち上げる。制服のまま寝転がっていたから皺になっていたら嫌だな、なんて今さらだ。形ばかりにスカートの裾を引っ張ってみる。


玄関に裸足で下りて、レンズを覗くと明らかに機嫌の悪そうな男が立っていた。日向だ。私の鞄を持っている。置いてきてたの忘れてたなあ。
のんびりと玄関の電気を点けてドアを押し開く。

「やっぱり居た。開けんの遅ぇっつの」
「置いてきてよかったのに」
「そういうわけにもいかないだろ」
「なんならここに置いていけば、」
「なおさら駄目だろーが」
そう言って日向は鞄を私に突き出してきた。それを受け取りつつお礼を言う。
そのまま帰るかと思って日向の顔を見上げると、何か言いたげな顔をしているのがわかって気まずくなる。咄嗟に、取り繕うように口を開いた。何も訊かないで、お願いだから。

「電気点いてなかったのにほんとにしつこいよねー、日向は」

我ながら誉めたくなるほど普通に話せた。私はきっとこうやって隠し続けて、いつか気持ちが軽くなるのを辛抱強く待つのだろう。自分の悩みや苦しみを仲間たちには背負わせてはいけないのだ。みんなの前では冷静でいなくちゃいけない。見えないようにぐっと唇を噛み締めてから、日向に微笑みかける。
でも、日向はさらに眉を顰めた。

「泣いてただろ。しかもあんなに叫びやがって。あの様子じゃおばさん達と出かける気にならないだろうなと思って、出るの待ってたんだよ。これでも心配してんだ、ダアホ」

そう言ってぽんぽんと頭を撫でてきた。
喉の奥がツンとして、顔が歪みそうになる。大きく息を吸って、自分の感情に蓋をするようにしかめ面をする。

「やめてって言ったでしょ、心配もしなくていい」
「お前な、」

生意気な態度をとると日向は少し声を荒げたけれど、バイブ音が鳴ってそれは遮られた。私は驚いて見上げると、日向が焦ったように制服のズボンから何かを取り出した。
光るその背面の画面に表示された名前。特別なリズムを刻み震える小さな機械。
私は息をのんだ。
一瞬の沈黙。
気まずそうな顔で目を逸らす日向をジッと見る。すう、と指先から体温が失われるのを感じた。

「鳴りまくってたから、」
「それ、見たの?」

それは、私の白いケータイだった。

ストラップが1つだけぶら下がってる味気ないケータイ。彼がくれた大事なストラップが1つだけ、私と彼を繋いでいた大切な大切な。

私の質問に答えようと口を開きかける日向が驚くのも構わずひったくるようにケータイを掴む。折れるんじゃないかという勢いで開いて発信元を確認する。古橋康次郎、ふるはし、こうじろう。見開いた目は乾いていて、涙は出なかった。

「おい、大丈夫か。古橋ってあの霧崎の」

食い入るように画面を見つめる私に日向が何やら話しかけてくる。しかし、心配しながらも問い詰めるような声音も今は全く気にならなかった。それに気が付いて、私は震える小さな機体を抱きしめた。

隠す必要なんかなかったんだ、ただ彼が好きなだけで充分で、ああ、なんて愚かだったんだ。
雫が1つ画面に落ちた瞬間、コール音が留守番電話のアナウンスに切り替わった。







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