※伊月が女の子
※俊はシュンのまま春



「ちょっと、やめてってば」

むっ、と少しだけ頬を膨らませて睨んでくる伊月の頭をワシャワシャとかき混ぜる。柔らかい髪が指の間をすり抜けていく感覚が懐かしくて、短く切られたそれを弄ぶ。

「なんで切ったんだよ、もったいねー」
「日向には関係ないっ」
「はあ?なんだそれ、教えろって」
「いやだ。つか手離して」
「なんだよ、機嫌悪いな。なんかあったか?」

頭の上に手を乗せて顔を覗き込むと手首を掴まれて手を下ろされる。眉が少しだけ寄っている。不機嫌なときか何かを我慢しているときの表情だ。それから静かないつもの顔をしてため息をついく伊月。

「だから、日向には関係ないって言ってるじゃん」

ムスッとしたまま頑なに口を割らない彼女の様子を見て、珍しいと思うと同時にくだらない冗談を思いつく。よし、からかってやろう。

「まさかフられたとか言わないよなー」


本当に冗談のつもりだった。こういうと言い訳のように聞こえるか、いや言い訳だけど。でも本当に自分の知る伊月は色恋沙汰からは離れた世界にいると思っていたし、実際そんな様子は全くなかったのだから冗談で済むと思って当然だった。だが、言ってからすぐに後悔した。中学から気心の知れた友人の、酷く傷ついた顔を見てしまったから。

「……伊月?あ、えっと」
「ばか」
「え?なんて…」

驚きのあまり声が詰まってしどろもどろになる俺にボソッと呟いてきたけれど、よく聞こえず聞き返す。下を向いてしまって、表情のわからない彼女の肩が震えていることに気がついて、何と声をかけるべきか遂にわからなくなった。
とにかく慰めようとその肩に手を伸ばそうとしたとき、いきなり伊月は顔を上げた。

「日向のぶわあああああああっか」

そして涙声で叫んで、今にも泣き出してしまいそうな顔のまま体育館から出ていってしまった。
数秒走り去る背中をぽかんと見つめていたが、小金井やリコが騒ぎ始めるのを聞いて我に返って駆け出した。









爪が掌に刺さって痛い。泣いちゃいけない。泣いてもどうにもならない。歯を食いしばって拳を握る。全速力で走って、部室に転がり込んで思いっきり扉を閉める。バンッと物凄い音が響いた。肩で息をしたまま静かに鍵を閉める。無音の部室に自分の息だけがゼェゼェと音を立てる。
扉に背中を預けて、ずるずると床にへたり込んだ。練習中断させちゃった、日向は追いかけてきてるかも、主将は抜けちゃいけないのに。隠しきれなかった自分のせいだ。こんなことでみんなに迷惑をかけちゃいけない。膝を抱えて暗闇の中独り嗚咽を噛み殺す。短く切った髪から汗が滴った。

こんなに短くしたのは中学以来だった。ちょっと長くなってきて切ろうとしたとき、あの人がそれを止めた。綺麗だ、切るなんて勿体無い。そう言って私の頭を撫で、何度も髪を梳いた。それが嬉しくて、くすぐったくて、幸せで。あまり気にしていなかった髪の手入れだってするようになった。髪を伸ばしたのも毎晩念入りに毛先をチェックしたのも高いドライヤーを買ったのも、全部あの人のため。彼のために努力するのは楽しかったし、そういう自分は嫌いじゃなかった。
基本的に無表情な彼が微かに優しげな笑みを浮かべる瞬間を見るために色々工夫して、少しでも見てくれがよくなるように彼に会う前日は何時間も悩んだことだってあった。
彼に出会って、互いに嫌悪しあって、でも何故か恋に落ちて。ぎこちなく手を握りあって好きだと言った。たまにしか会えなくても、あの頃は本当に楽しかった。週に数度とない電話だけでも私達は幸せだった。

でも私は、その幸せに堪えられなくなった。彼は大事な仲間の仇なのだ。無意識のうちに仲間たちに嘘をついて彼のことを隠してきていたことを自覚して愕然とした。バレてしまったらどうする、そう考えている自分に嫌悪感が込み上げた。彼を好きでいることに後ろめたさを感じている上に、仲間たちに距離を置かれることを恐れて嘘くさい笑顔で笑いあう。彼に会うことを憂鬱に思うようになり、次第に電話も減っていくのと比例して仲間たちへの後ろめたさも感じなくなっていった。そんな自分に吐き気がした。汚い自分がどんどん嫌いになった。そして慰めてほしくて彼に会いたくて仕方なくなるのが苦しかった。

もう駄目だ、このままでは彼と私は互いに傷つけあうようになってしまうと予感した私は別れを告げることを決意した。しかし決意は日を追うごとに萎んでいった。声を聞く度に胸が捻れるように痛んで何も言えなくなるのだ。ウジウジと数週間考え込んだりもした。その間にしばしば繰り返された、些細なことで言い争って互いに苛ついたまま切られる通話。
そして最後の電話から3週間過ぎた一昨日。
聞き慣れた着信音が鳴り響いた。しばらく聞いていなかった音に、心臓が跳ね上がる。もっと前なら、嬉しさの入り混じった緊張でドキドキしていたのに。嫌な汗が滲む手で通話ボタンを押した。




昨日髪を切った。
彼への未練を断ち切るように。
前髪を切られるときに少し泣いた。
鏡をまっすぐ見つめたままひたすらに涙を押しとどめているうちに、喉の奥が痛くなってきた。
常に無表情な彼なら、と思い出してしまうのが辛かった。
そして彼に言わせてしまったことを、自分が言うべきだった言葉を、何度となく口の中で繰り返した。
悪いのは、私だったのに。ごめんなさい、ごめんね、康次郎。壊れたように繰り返し、繰り返し。干からびてしまいたくなるほど泣いた。


ただただ虚ろに時計の針が回って夜が明けるのを待ち、太陽が南中するのをボーっと眺めて、沈みかけた夕日の中で膝を抱える。

帰ろう、こんなんじゃいる意味ないし。鞄を持つ気力すらわかない。置いていくことにしよう。部室から出ると、丁度日向が部室棟に向かって来ているのが見えた。随分あちこち探し回ってくれていたようで、汗が地面に落ちるのがわかった。黙って帰ったら申し訳ないと思ってもう一度部室へ戻り、付箋紙に帰りますと一言残し、日向に気づかれないように部室棟から抜け出した。
ぶらぶらと軽い手を振り、フラフラしながら正門へ向かう。誰にも見つかりたくなくて、遠回りをした。





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