58.Maybe true
思えばどうしてもっと早くに
この扉を開かなかったのかと
「オヤジさん、リリィです。入ります」
マルコさん、イゾウさんと一緒にオヤジさんの部屋を訪ねたのは、その日の午後。
赤髪さん達の事、あの島のこれからの事(彼女は恋人を連れてモビーを見送りに来たそうだ。少しずつでも自分達で島を取り戻すからと言う二人に、もう心配は要らないとみんなに言われて安堵した。)
そして……私の記憶。
ほんの数日分の出来事なのに話す事が沢山有り過ぎて、オヤジさんの手にはいつの間にやら愛用の盃。一息ついて窓の外を見ればもう薄暗い。
「そう云えば…モビーへ来てから繰り返し見る夢が有るんです。見る度に少しずつ、長くなっていて…」
今朝も見た、モビーから海を眺める夢。
姿は無いけれど分かるオヤジさんの気配、座っているのかいつも低い視点。でも、見える物全てが、実際のモビーより少しだけ大きい。
「いつも穏やかで綺麗な海を眺めてて、モビーはピカピカで立派で…嬉しいなあって思ってると目が覚めて…」
その夢を見るといつもポカポカして、私はモビーが好きなんだと、目覚めた場所がモビーだという事に、幸せな気持ちで満たされる。
「…夢、か」
ガタン、と椅子の動いた音がしてオヤジさんが徐に立ち上がった。その大きな身体が光を遮り、少しだけ部屋が暗くなる。
「マルコ、イゾウ。ちいとばかし外しな」
「オヤジさん…?」
「オヤジに任せときゃ大丈夫だ、リリィ」
私の不安を察して声を掛けてくれるイゾウさんに何とか笑顔で頷くと、ぽすんと私の頭を撫でて無言のままのマルコさんと二人、部屋を出て行った。
重たい扉の閉まる音と僅かに動いた空気。
ざわりと背中を何かが走った気がして、思わず両腕を掻き抱く。
「グララララ!!何て顔してやがる」
「だって…」
「来な、リリィ」
いつかの様に指先でちょいちょいと召かれ、ひょいと乗せられたのはオヤジさんの肩の上。
「…オヤジさんの視線だと、ずいぶん遠くまで見えるんですね」
自分一人では届かない、高い位置の窓から見た水平線。凪に近い海面が夕日を受けて、ゆらゆらと朱色に揺らめく。
「ああ。だからおめえはここが好きだった」
「え?」
何かを懐かしむ口調のオヤジさんに投げた疑問の返事は無く、ただただ優しい目で私を一瞥する。
「リリィ、そこの棚に古い航海日誌が有る。そうだな…20数年前か、その辺りのを開いてみな」
言いながら私を降ろしたオヤジさんが髭をひと撫ですると、ステファンがくぅんと鳴いた。まるで繋がってるみたいに自然に。
(20数年前…これかな…?)
年数の割には綺麗な、しっかりとした背表紙の日誌は古い本の匂いがした。
長らく閉じられたままだったのか、開くとパリッと音を立てる。
「あ…」
はらり、と落ちた一枚の古びた写真。
写っている人と目が合って、慌てて拾い上げる。
「これ…オヤジさんと……子供??」
「その子供をよく見てみな、リリィ」
「はい?この子がどうかして…」
笑顔の子供の耳元で、太陽を受けキラリと光るピアスの輝きが、モノクロの写真なのに強い色を持って記憶の奥深くまで侵入しようとする。
「え……」
ここへ来た私が、衣服以外に唯一身に付けていた物。なんとなく外せなくてずっと付けたままの、それは…
「これ…私と同じ…?」
恐る恐る手を伸ばした指が触れるのは…子供の耳元で光るピアスと同じ物。
どういう、事…?
何で私と同じ物を持った子供が、オヤジさんと一緒の写真に居るの?だってこれは家族の形見で…私は、私には……その家族の記憶が無いけれど、それは…
「それは4つか5つの時のおめえだ。大きくなったなあ、リリィ」
「オヤジさん…さっきから一体…」
無言で髭を摩り盃を傾けるオヤジさんを見上げるも返事は無く、その足元でステファンが身を捩りながらパタパタと尻尾を動かす。
その動きに合わせてチカチカと、夜の海での信号みたいに点滅しながら頭の中を駆け抜けた光の残像が、ほんの一瞬薄っすらと繋がり道になる。
「……ニューゲート…」
写真の子供が笑顔でそう呼んだと、その時の私は本気でそう思ったくらい、口にしたのは完全に無意識。
「…久しぶりだな、おれをそう呼ぶ奴ぁ」
「え…?」
エドワード・ニューゲート…確かにそれがオヤジさんの名前だ。普段誰も呼ばないから、すっかり頭から抜け落ちてたけれど。そんな名前を、しかもファーストネームを呼び捨てにするなんて…私……
どうして、とか何で、とか。
疑問を表す言葉は沢山知っているのに。
真っ白になってしまった私の口からは、何一つ言葉が出て来ない。
出て来る筈なんて無い。
だってこんな――こんな事って…
「イゾウ、さん…」
唯一形になったのは、大切な人の名前。
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