48.Run through!
ガシャン……
不意に聞こえたガラスの割れる音に、真っ白だった意識に色が戻る。
音が、近い…。
「どうしたの?だいじょう…ぶ…」
重い身体を起こし開いた扉の先、廊下から流れ込むただならぬ空気に、開きかけた扉を僅かに引き戻す。
「…これから花嫁になろうって人が盗み聞きとは…はしたないですねぇ、お嬢さん」
「そんな…盗み聞きなんて…」
そこに居たのは電伝虫を手にし、身形だけは堅気な昨日の奴らとよく似た風体の男。
その先に、青ざめた表情の彼女が見える。
「聞いて無い事にしてあげても構わないですよ?当然、タダでとは言いませんが…」
腕を組んで壁の間にもたれ掛かった男はちらりとこちらを見遣り、嘲笑をたっぷり込めた表情で彼女を見ている。
「そんな事…」
「そうすれば貴女の心配は要らないです。幾ら何でも奥様になる方を売ったりしませんから。よっぽどの事でも無い限りは…ね」
売る?何の話をしてるの?
「さ、どうします?」
軽く後ずさりながらふるふると首を振る彼女を鼻で笑った男が、ゆったりとした動作で身体をこちらに向けた。
ピリッとした空気が刺さり、軽く身構える。
あからさまに俗悪な目つきで、舐めるように下から上へと這う男の目線が、私の顔で止まった。落ち着いて見れば見憶えのある顔、きっと昨日の…
「…白ひげの…か?」
その言葉にはっとして、何の警戒もしていなかった男を壁に向けて全力で押し退け、彼女の手を引いて走り出した。
表通りへの扉を乱暴に開けて飛び出して来た私たちと、少し遅れてそれを追う男を道行く人が一斉に振り返る。
「話、聞こえちゃって…父の、ウチの事…話してて、それと…」
「待って、とりあえず走ろう」
石畳を蹴る二人分の靴音にあの時の、初めての下船の時にエリンと二人で逃げた事を思い出す。
月明りも届かない細い路地を幾つもでたらめに曲がり、何とか撒いたところで足を止めた。
「リリィ…さ、ん、足速いの…ね」
「身体動かすの、好きなんだ」
肩で深く息をする彼女は、きっとそう長くは走れないだろう。
それならば…
「このまま二人で逃げても追い付かれる。私が気を引くから、なるべく人混みを通ってモビーに、イゾウさんの所に行って」
「でも…っ!」
「大丈夫、イゾウさんに伝えてくれれば、それで私は大丈夫。だから、今を乗り切ったら…」
再び近くなる足音と飛び交う怒声。どうやら追っ手が増えたらしい。彼女を小道へ押しやって逆方向へと走り出す。
――まだ間に合うから、出来る事を探そう?
伝え切れなかった言葉を、心の中で口にする。
迷いはなかった。
自信を持って選べと、イゾウさんが言ってくれたから――
体力にも脚力にも、それなりに自信は有ったのだけれど、地の利というアドバンテージには勝てない。そして運も少し、足りなかったみたいだ。
目についた路地に勢いよく飛び込むと、その先に見えたのは進路を阻む様にそびえ立つ、コンクリートの塊。ああ、ついてない…
足を止め、乱れた呼吸を整えながら、追っ手が近付くのを待つ。とりあえず今は、彼女が無事にモビーに着く時間を稼げればいい。
「行き止まりとは、ツイてないなお姉ちゃん」
走るうちに頭が空っぽになったからか、何故か気分は悪くない。
考える暇が無かった所為で、恐怖心も無かった。
「そうでもないですよ?」
走りながら似非紳士の仮面を落として来たのか、余裕たっぷりにへらへらと近付く男に対して、ふふっと嗤う。
愉しい、なんて思ってしまう。まるでイゾウさんみたいだ。
なんでこんなに高揚するのか分からないけれど、怯えているより、ぐだぐだ悩むより、よっぽど性に合っている。
「私の事を傷つけたら…“価値”が下がりますよね?」
私の事を「白ひげの所の」と言った。それならば、それを分かっているならば…
そしてあの値踏みするような、舐めるような目つき、売るという言葉…
がしっと、私の手首を乱暴に掴んだ男を見上げながら囁くと、案の定男たちの顔色が変わり、チラチラと何やら目で会話をする。
賭けるだけの運は、まだ残ってる。
オヤジさん、どうか私を守って下さい――
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