47.また重なった過去を消して
窓の無い、従業員用の休憩室。
ランプ一つの薄明かりの中、重く揺蕩う沈黙を破ったのは、彼女。
深く長いため息を吐いて、真っ直ぐに私を見る。
「そう…。ただ素直に望まれてる訳じゃないとは感じていたけど…」
いつの間にか島中に張り巡らされていた黒く深い根。それを画策しているのが、彼女が嫁ごうとしている家だと云う事。
伝えることを選んだのは私。
それを聞いて、決めるのは彼女。
なるべく客観的に伝えたつもりだけれど…上手く伝わっただろうか?
「それでも断ったら、家族に迷惑をかけるし…。自己犠牲なんてカッコいいものじゃないけど、私に出来る事が他に分からないの」
そう言って笑う彼女の表情は、最初に見た時と同じくやっぱり何かを諦めた顔で。
その顔が出来る様になるまでに、きっと幾つもの葛藤を乗り越えたんだろうと思うと、「恋人は何て言っているの?」という問いは、寸での所で飲み込むしか無かった。
「ねぇ…リリィさんなら、どうする?」
「私?うーん……」
その質問に、彼女の中にある迷いを垣間見る。
イゾウさんと離れる、という選択肢を選ぶ事が出来るのかと聞かれたら…今、それだけを聞かれたのなら、答えはノーだ。
でもそれがみんなの…家族の為になる、と言われたら…
影すらも思い出せない私の家族…。
それでも今はモビーと言う家が有って、こんな私を受け入れてくれたオヤジさんや隊長たちが居る。何よりイゾウさんが居る。
「一緒に居る…よ」
ありったけの想像力を駆使しても、それを手放す事は考えられなかった。言葉にした途端子供っぽいわがままに思えたけれど、そんな事は構わない。
「過去を思い出せなくて辛いと思った事は無いのに…みんなと離れる事を考えると、いつか、離れてしまうのかもしれないと考えると、心が潰れそうになる時が有るんだ」
口に出すとまた、きゅっと心臓が悲鳴を上げた。ここに居たい、イゾウさんと、みんなとずっと。
「それに私なら、どれだけ大変でも一緒に行こう、乗り越えよう、って言われる方が嬉しいから」
彼女が小さく息を飲む音が、霞がかった空気を少しだけ切り裂いた気がした
誰かの為に自分を殺す事の出来る彼女は、ある意味で強い人なんだ、とは思う。
自分を、殺す…?
その言葉が脳裏に浮かんだ途端、ぞわり、と嫌なモノが足元から沸き上がった。まだモビーに乗って間もない頃によく感じたあの感覚とよく似た何かが、身体の中を這い上がろうとするのを、必死に押し留める。
ミシミシと身体の中から嫌な音がした。
そんな音なんてするはずが無いから、きっとそれは気の所為なんだと思いたいのに、内側から容赦無く内臓を抉られる。肺を強引に圧縮されるような感覚に慌てて呼吸をしようとするも、ひゅーと小さく空気の抜ける音しか出せない。
「リリィさん…?どうしたの大丈夫?」
「うん、だいじょ……っ」
言葉を発した途端、抜けた空気と一緒に耐え難い吐き気が込み上げる。
「…っ…は…」
いっそ要らないモノを全て吐き出してしまいたいのに。呼吸が荒くなるだけで何も出やしない。
「横になる?それとも誰か呼ぼうか?」
「ううん、ごめんねもう平気…」
「顔色悪いよ?待ってて、お水貰って来るから」
心配そうな顔で背中を摩ってくれていた彼女の手が離れ、閉まる扉の音が静寂を呼び込んだ。
少し落ち着けば、身体に絡む嫌な汗が体温を奪いながら離れていく。
ぞくり、と寒気がして明かりの届かない暗闇に視線を移すと、誰も居ない筈のそこに、人の…あいつの気配がした。
――私の事は気にせずに、行きなさい
優しさなんて微塵も含まない笑顔と声色でそう言ったのは、誰だったのか
――貴方の選択は全て僕の為になる。ああ、本当によく出来たひとですね。
「う…るさい…」
もっと、もっと前に。
新しい世界が見たいのに。
ここに居れば、私は自由なの、に……
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