44.背を向ければ追い風
エリンに支えられながら部屋に上がり、水差しに残っていた水を一気に飲み干した。
ゴクリと嚥下する音がちゃんと身体の中から聞こえて、安心すれば次第に耳の奥の混線は治まる。
「私は本当に大丈夫。だけどちょっと気になる事が有って…」
整理しながらエリンに話しても尚、頭の中は複雑に絡まったままで。
何処まで現実で何処からが…そもそも今を現実とするならば、なんだけど…あぁ、だからもう、こんな哲学染みた堂々巡りをしてる場合じゃない。
自分の事なら今日が明日になっても明後日になっても大丈夫。
今明確に、やりたいと思う事は一つだ。
「わかったわ。それじゃあとにかく、イゾウ隊長の所へ行きましょう?」
「うん」
まだ宵の口だったので迎えは呼ばず、エリンと二人で酒場へと向かう事にした。
レセプションにあの子が居なくて、少しだけホッとした。今はどんな顔をしたら良いのか、分からなかったから。
月は今夜も、ほの明るい光を放っていた。
* * *
「どうしたリリィ?」
今日も貸し切りの店は見慣れた顔で賑わう。
不寝番のエースは居ないけど、サッチもラクヨウさんも居る。
エリンがこういう場に来るのは珍しいらしく一部の隊員さん達が色めき立つが、本人は全く意に介さない。
これぞ大人の余裕、って感じだ。
店主のお姉さんと挨拶を交わすと、随分早かったなと驚くイゾウさんに取るもとりあえずロビーに居た男たちの事を話した。
「そう云う事なら…ちょっと待ってな」
するとイゾウさんはサッチの所へと向かい、横にいた女性を問答無用で脇へ押しやって何やら話し始める。
あからさまに不満げな顔の女性が真近でイゾウさんを見た途端、急に目の色を変えて艶っぽい目線を送り始めたのが私としては不満で…そんな目で見ないでと心の中で叫ぶ。
そんな私に気付いたエリンがクスリと笑う。
思ってたより随分と心が狭いな、私。
サッチが親指を立てて頷き、イゾウさんがこちらに戻ろうとした時。
その女性が袖に触れようとしたけれど、イゾウさんがそれを許さなかった。すかさずフォローに回ったサッチが可笑しくて、エリンと二人遠慮なく笑ってしまった。
「確かに、サッチ隊長が適役ね」
「どういう事??」
「こう云うのは、ベッドの上で女に喋らせるのが手っ取り早ェ」
戻って来たイゾウさんが話の続きを受ける。
随分と乱暴な話だけど、でも…
「あーなるほどね…なんか凄く納得」
夜の仕事の女性なら、裏の情報にも多少は通じているんだろう。そして世の女性の大半はお喋りで、当たり障りの無い相手…例えば一晩限りの男…なら、口も滑らかになりやすい。
サッチにも…お持ち帰りの大義名分が出来て、一挙両得な訳だ。
「アイツはネタを持ってる女を見極めるの“だけ”はな、上手ェんだよ」
「へぇ…」
「確かに、人を見る目“だけ”は有るわね。サッチ隊長は」
そう云えば私が身体を鍛えてた事に最初に気付いたのって、サッチだったな。
散々な言われ様とは知らないサッチは、上機嫌だ。フォローが功を奏したらしい。
あ、まさか以前にはイゾウさんも……いや、過去をいちいち気にしても…
カラン、と氷がグラス内で踊る音に思考が中断される。
「…それで、本題よね…ゆっくり見ないと分からないけど、今一つだけ言えるのは」
「あ、うん?」
エリンの目線が耳元に注がれているのに気付き、慌てて髪を耳にかける。
ぼんやりしてる間に、その話題になっていたらしい。エリンに来て貰った目的をすっかり忘れていた。
「その石には、護りの意味があるの。大切な相手に贈ったりするわ」
それはつまり、私の事を大切に想ってくれた誰かが…と云う事…?
ツキン、と心に針が落ちる。
イゾウさんに、聞かれたくなかった。
誰かが誰なのかは分からないけれど、その意味が、想いが、共通なのだとしたら…
さっきから後ろ向きの思考ばかりな自分に気付くも、嵌りかけたループから抜け出せない。
「じゃあ私はこれで戻るわね」
「…もう?ごめんね、せっかく来てくれたのに」
「気にしないの。いつでもモビーで話せるわ。イゾウ隊長、お先に」
「あァ」
立ち上がったエリンにモビーまで送ると言おうとしたら、我先にと数人の隊員さんが駆け寄った。心配は要らないみたいだ。
「おやすみなさい、ありがとうエリン」
振り返らずにヒラヒラと手を振るエリンの後ろを、ドタバタと騎士たちが付いて行く。
その流れに乗ってサッチがお姉さんと出て行った。不思議と頼もしく見えたその背中に、上手く行く様にと心の中で手を合わせた。
「心配いらねェよ」
「…うん」
「で、話の続きはどうした?」
「え?」
膝の上でぎゅっと握りしめた両手にそっと、イゾウさんの手が添えられる。
「リリィにしては話がちぐはぐだし、所々飛んでたからな」
「…イゾウさんには敵わないや。でも、気付いてくれて嬉しい」
えへへ、と笑ったら不意にじわりと滲んだ目元を誤魔化す為に、緩く唇を噛んで天井を見上げて口を開いた。
「本当に、よく分からないんだけど……」
また何処からとも無く湧いてきた嫌なノイズがぎりぎりと心を掻き毟りそうになる度、イゾウさんの手がそっと制してくれた。
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