43.暮れ行く黄昏の中に居た
パラパラとページを捲る音に、時折トントンと煙管の灰を落とす音が混ざる。
開け放った窓から入る夕方の風が、さわりと部屋を吹き抜けた。
「んー…よく分からないや」
パタン、と勢いよく本を閉じながら、ソファにだらりともたれ掛かるイゾウさんの方を見る。
「もういいのか?」
「うん。興味無い訳じゃないんだけど、宝石とか苦手で…もうすぐエリンが来るって云うし、その時でいいかなって」
苦笑いを零しながら、閉じたばかりの本を再度パラパラと捲る。
「でも、本自体は興味深かった」
風で捲れるカーテンの隙間から射し込む、燃える様に強い夕陽が目に痛い。
サイドテーブルに本を置き、窓を閉める為に立ち上がった。
「あ…モビー」
停泊するモビーの背後に沈もうとする緋色に揺れる夕陽が、白鯨を鮮やかに染め上げる。
私の呟きでこちらへと歩いて来たイゾウさんは、窓枠から身体を乗り出した私を引き寄せると、頭の上にこつんと顎を乗せた。
「…やっぱりモビーは大きいね」
後ろからぎゅってされるのは、顔が見えない分ドキドキが増すから苦手。
でも、イゾウさんがしてくれるのは落ち着くんだ…
「あァ、いい船だよ」
「うん…」
身体の力を抜き、イゾウさんの肩に頭を預け目線を上にやれば、夕陽を受けて美しく艶を増すイゾウさんの黒い髪に、ドクンと心臓が跳ねる。
「きれい…」
思わず呟いたそれは、言葉になるかならないかの所で飲み込まれてしまう。
そっと私の顎を持ち上げる指の優しさと、抱きしめられた腕の強さ。
通りに面した窓辺で、眩しい夕陽に照らされながら交わす口付けの軽い背徳感と、柔らかく蕩けそうで温かい恍惚感が、私の中をいっぱいに満たす。
「イゾ…さ…」
息苦しさに身を捩り、僅かに作った隙間で名前を呼べば、至近距離で絡んだ双眸に映る緋色が眩し過ぎて再び目蓋を閉じた。
くらくらする…
イゾウさんで満たされっぱなしの一日に、私の心は心地良い眩暈を起こしていた。
* * *
「じゃあ、後から行くね」
「余り遅くなるなら必ず誰か呼べよ?」
「うん。いってらっしゃい」
皆の居る昨日の店に行くと云うイゾウさんを見送り、ロビーのソファに腰掛けてモビーから来るエリンを待つ。
ランドリーから大きな洗濯籠を抱えて出て来て笑った彼女に、黙ったままで小さく手を降った。
「…なぁ、今のが例の女だろ?」
「ボスの息子の?」
さっきからそこに居たから宿泊客だと思ってたけど…何してるんだろう?
堅気っぽい見た目と反して物騒なその会話に、素知らぬ振りで聞き耳を立てる。
だってこれ…あの子の事、だよね?
「ようやく了承したらしいぜ。親といい娘といい、手間ばかりかけさせやがって」
ザザッ……
―親が……?そんなの、僕の寛大さを際立たせる…にしか…
「既成事実さえ作っちまえば、後はどっちに転んでも駒だからな」
―…に巻き込まれたら、それはそれで悲劇的な美談に…
ザ……
ザザッ…
「この島も……」
チューニングのずれたラジオみたいに、耳障りなノイズ交じりの声が頭の中に響く。
次第に強くなったノイズが、私の中の全ての音を掻き消して……
「……リリィ、リリィ!大丈夫?」
「あ、れ…エリン…?」
気付けばロビーに他の人影は無かった。
それよりもエリンが入って来た事にすら気付かなかっただなんて…
「どうしたの??顔色悪いし、脂汗かいてるじゃない」
「うん…ごめん大丈夫」
耳の奥が、がしがしと掻き回されたみたいに重苦しい。
自分の声すらも、よく聞こえない。
何だったんだろう、今のは……
重なって聴こえたのは幻聴…の筈は無い。
じゃあ誰の声?
何の話をしてた?
ダメだ、よく分からない…
「無理したらダメよ。泣いてるのに」
「え…」
「部屋でゆっくり話しましょう?いいわね?」
「うん…」
身に憶えの無い涙の跡を拭うと、私はゆっくりと立ち上がった。
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