35.泡沫
「わふっ…!」
大海原のど真ん中。
好天で快適だけれど凪では無いので、それなりに風は有る。
「これは…想像以上に重労働…」
風を受けて暴れるシーツに絡まれながら思わず呟くと、横で一緒に洗濯を干していた隊員さんが笑いながら手を貸してくれた。
「あ…どうもありがとう」
「リリィちゃんは小物類を頼むな」
「すいません」
「気にすんなって。煽られてシーツごと海に落ちるヤツ、毎年何人か居るんだよな」
「…お願いシマス」
昨日、私は正式に16番隊の隊員になった。
ナースさん達とやっていたシーツの洗濯も、今日からは16番隊のスケジュールで行う。
今までは干すのを誰かしらが手伝ってくれていて、モビーの男性陣は優しいなぁ…なんて思っていたのだけれど、成る程そういう訳かと合点が行った。
甲板に張り巡らされたロープいっぱいに干されたシーツの波は壮観で、陸では見られないその光景は私の心を踊らせる。
隅の方でタオルや枕カバーをパンパンと叩きながら干して行く。
全員がちゃんと出している訳じゃないけど、それでも100人分近い量を片付けるのには1時間以上かかってしまった。
「終わった…これは腕が鍛えられそう…」
次に下船したら日焼け止めとハンドクリームは多めに買おう、と考えながら凝り固まった肩をぐるぐる回し、シーツで出来た日陰に避難する。
「初隊務お疲れさん」
「たいちょー。おそようございます」
少し嫌味混じりに挨拶をしながら声のした方を見れば、ふふんと余裕たっぷりでスッキリした顔のイゾウさんが立っていた。
シーツの回収ついでに起こした筈のイゾウさんはしっかりと二度寝をして、ちゃっかり終わりを見計らって起きて来た。
前にラクヨウさんが楽しそうに干しているのを見たから、隊長さんが干さないって事は無いのだろうけど…イゾウさんのその姿は想像出来ないし出来れば見たくない。
「隊長って言うならもっと敬え」
「寝坊しておいて偉そう」
「口だけなら一人前だな、リリィは」
クツクツ笑うイゾウさんの横を、洗濯籠を抱えた隊員さんたちが遅い朝の挨拶をしながら通り過ぎて行く。
「なァリリィ、『それ』大丈夫なのか?」
「それ…?」
「…口にしてキツくねェのか?」
「あ…そう言えば…」
昨日もするっと言えたその言葉。
意識した途端にチクリと僅かに心の奥が痛んだけれどそれだけで、以前の様に何かが湧き上がる嫌な感覚は無かった。
「モビーの人たちに言うのは、大丈夫みたい?」
当たり前だけれど、ここの人たちに嫌悪感なんて抱く筈もなく。
「だって…家族、だし…?」
初めて口にしたかもしれない。
何故かそれは、イゾウさんに好きだと言うより恥ずかしくてむず痒くて、視線を白い波に映るイゾウさんの影に移す。
「家族ってよく分からなかったけど…これが家族なら、凄くいいな…」
「俺もモビー以外に家族は居ねェが、ここの奴らは最高だよ。オヤジの選んだ家族だからな」
誇らしげな顔で水平線の先を見たイゾウさんは、目線を遣る事なく懐から煙管を取り出した。
そして火を入れようとした手を止め、何故か煙管をこちらへ差し向けた。
「リリィもやるか?」
「え?煙管をですか?」
条件反射で丁寧に返してしまった私の頭を煙管の先端でコツンと小突きながら、「あァ」と小さく答えたイゾウさんは、私の返答を聞く前に結局自分が咥えて火を入れている。
「……煙草なんか吸うなって口煩い奴しか居なかったから、吸った事無いし…」
「……へェ」
「賢く快活に、でも女は慎ましくしてろとか、女なんて自分の飾り位にしか思ってなかったんじゃないかなぁ…」
「慎ましいとか、リリィに似合わねェよ」
「イゾウさんに言われると凹む…これでも一通りの家事はこなせるし、ちゃんと男性を立てるタイプなのになぁ」
またか、と心の中で小さく舌を打ってしまう程度にそれは、言われ慣れたやり取りで。
それだから、私は…
「…で?リリィに男を立てさせたり飾りにしたり、贅沢な事やってんのは何処の誰だ?」
「誰って、隊長の事に決まっ、て……え?誰…?隊長って…?」
この時のイゾウさんの状況判断の素早さは流石だった。
私の異変に気付いても直ぐには話を遮らず、無自覚に零れる記憶が尽きるまで聞いていたんだから。
だから。
そのお陰で見えたそれ、は
…誰なの?
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