02.Remember the name
イゾウさんが着替えると云うので、マルコさんと二人廊下で待つ事になった。
初めて部屋の外へ出て驚いた。先の見えない程に長い廊下に沢山の扉が有る。どれだけ大きな船なんだろう。
「ここ、船の中なんですよね…?」
「そうだよい」
「大きいですね」
「そうかい?」
こんな大きな船に居るオヤジさんって云うのは一体どういう人なんだろう。失礼の無い様にしなくちゃ、と思い今更ながら自分の格好を確認する。
白い膝丈のワンピースにブーツサンダル、それだけだった。普段着けているピアスはちゃんと耳に有ったけれど、鞄も無ければいつもはめていた筈の時計も携帯も無い。あ、時計をいつもはめてたんだっけ、私。なんて他人事みたいに思ってたら扉が開いて中から女の人が出て来た。
「遅せえよい、イゾウ」
「え?」
部屋から出てきたのは綺麗に髪を結って鮮やかな着物を身に付け、朱色の紅を差した人。この人がイゾウさんだなんて、言われなきゃ気付く筈が無い。
「くくくっ、驚いてるねい」
「煩ェ、早く行くぞ」
そう言って歩き出したイゾウさんの背中には、マルコさんと同じマークが大きく描かれていた。
スタスタと前を行くイゾウさんの後を、ニヤニヤと悪戯が成功した子供みたいな顔をしたマルコさんと二人追いかける。静かな長い廊下を歩いた先の大きな両開きの扉の前で二人は足を止めた。
「オヤジ、入るよい」
入ったのは大きな大きな部屋。白い犬が寝てるだけで誰も居ない?と思っていたら頭の上から大きな声がした。
「グララララ。どうした、朝から辛気臭ェ顔して」
「朝早くから悪いねい、オヤジ。ちょっと相談があってよい」
立派な白いひげを蓄えた大きな年配の男の人が正面に座っていた。座ってるのになんて大きいんだろう。というかこんな大きな人、見たことも聞いたことも無い。
「あ、あの…」
「ん?何だぁその娘は?」
「相談ってのはこいつの事だよい」
そう言うとマルコさんとイゾウさんは今迄の経緯を説明し始めた。
聞きながら自分でも状況を整理してみようとしたけれどやっぱり分らない事だらけで、しかもあんな大きな人が目の前に現れて益々混乱の度合いが増す一方だった。
「武器も持ってねぇし殺気も感じねぇ。何日も寄港してないのにいきなり現れて不審では有るが悪い奴じゃなさそうなんだけどよい。能力者なのかはわからねぇが、とにかく記憶がねぇって言うんじゃどうしようもねぇよい」
「俺だって、幾ら寝てたとはいえ扉が開いて気付かねェ程腑抜けちゃいねェ」
「で、どうしたらいいかオヤジの指示を仰ごうと思ってねい」
「成る程なァ…おめェ、ちょっとこっち来な」
「はい…」
オヤジさんはちょいちょい、と私の手の平くらい有りそうな大きな人差し指で手招きをした。
一歩足を踏み出すと、寝ていた犬がムクリと体を起こしてすぐにまた伏せてしまった。近づくまで気付かなかったけど、オヤジさんの体には沢山のチューブがついていた。声も大きいし体もしっかりして見えるのに、何処か具合が悪いんだろうか。
「なんだぁ?おめェはおれが怖くねェのか?」
「見たこと無いくらい大きいので驚いてますけど…怖くはない、です」
「グララララ!肝っ玉の据わった娘っ子だな!」
面白い笑い方をする人だと思った。でもオヤジと呼ばれるだけあって懐の大きそうな人で、しかも何だか懐かしい様な不思議な感覚がした。
思わずじっと見上げていたら、にゅっとオヤジさんの大きな腕が伸びてきて私の首根っこを掴み、膝の上に乗せられてしまった。
「おめェ…」
「はい?」
「名前が思い出せねェって言ったな?」
「…はい」
オヤジさんは僅かに目を細めて私を見ると、直ぐに元の表情に戻って口を開いた。
「リリィだ」
「え?」
「おめェの名前だ。気に入らねェか?」
「いえ…ありがとうございます」
「グラララララ!いい顔で笑えるじゃねェか!」
リリィ、という名前はすっと私の中に入ってきた。
たった今付けられた名前だというのにそれは不思議なほど私に馴染んでいる気がして、それだけで何も分からなかった自分がちゃんと存在している安心感に包まれた。
「マルコ、海図を見せてやれ」
オヤジさんはそう言いながら私を下ろすと、何処から取り出したのかプールみたいに大きな盃でお酒を飲み始めた。
マルコさんが出して来てくれた海図を、煙管を玩ぶイゾウさんと三人で囲む。
「…あの、これ何処の地図ですか?」
「何処ってこの世界全部だよい。今居るのがここ、グランドライン後半新世界の海。自分の居た島は分かるかよい?」
「というか…私の知ってる地図と全然違うんですが…」
「覚えてねェんじゃなくてか?」
「今まで私が見てきた地図なら、過去から今のまで全部頭の中に浮かびます。でもこの地図に有る島も海も、一つも一致しないんです」
「どういう事だよい」
海賊に海賊船、見た事もない大きな人、それに世界地図だと言われたのに初めて見る地図。
名前と一緒に貰った安心感が一気に大きな不安に覆い隠されてしまう。
「リリィ?」
イゾウさんに名前を呼ばれて、我に返った。
今まで不思議と落ち着いて居たのが嘘みたいに、地図の上に置かれた指先が小さく震えていた。
「リリィ、おめェやっぱり…」
呟きと云うには大きなオヤジさんの声に、一斉に振り返る。
「違う世界から来たんじゃねェだろうな?」
違う世界、ちがうせかい…チガウセカイ
理解し切れない言葉が頭の中を駆け巡る。
違う世界に行くなんて、そんな非現実的な事が起こる訳ないじゃない。
もしそうなら私は何?何処に居たの?どうして此処に居るの?
指先だけだった震えが膝にまで伝染して、混乱する思考と共に回り始めた視界がゆっくりと暗転した。
リリィ、と私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
多分イゾウさんの声だった。
不思議な事に、その名前だけは確かに私の物だと思った。
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