28.朱に染まる
確かに存在している筈の、もう一つの世界
鮮明な旅の景色
拳銃を扱える自分
抜け落ちたままの記憶
増えてゆくここでの知識
二つの世界の境界は、日に日に曖昧になる
「健康診断??」
「ええ、ドクターが一度詳しくやりたいって。まぁあの人の場合、興味半分みたいな所は有るけど…腕と知識は確かだから、安心していいわよ」
イゾウさんは朝から隊務でモビーを空けていて、非番のエリンの部屋でのんびりお茶をしていたその日。
「それに、もし病気になった時にこちらの薬がリリィに効くのか…船長も気にしているのよ」
「そっか…そんな事考えもしなかった」
エリンから伝えられたその話に、自分で思っている以上に私の事を案じてくれている人の多さを知り、モビーに居られる事の幸運を改めて噛みしめる。
「たまにはオヤジさんにも会いに行かなくちゃ」
「ふふ。『顔を見せねぇって事は、上手くやってんだろう。リリィは心配いらねぇ』ってよく言ってるわよ」
「うん、おかげさまで楽しく過ごしてる」
「イゾウ隊長も居るし?」
「う…それは…」
誘われた時点で、話をする事になるんだろうとは思っていたけど…
「でも少し複雑…もちろん嬉しいし、イゾウさんの事は、その、好きだけど…」
「不安?」
「んー不安って言うか…」
不安なのは気持ちではなく、自分の存在。
未だ曖昧なままの立ち位置は、いつまたひっくり返るか分からないから…
「無責任に聞こえるかもしれないけどね、何が起きたってリリィらしく過ごす事を考えていれば大丈夫よ。ここは白ひげの船だもの。世界中探したって、ここ以上の場所なんて無いわ」
隊長さん達を筆頭に、コックさんからエリン達ナースに至るまで、オヤジさんに寄せる信頼の厚さには本当に感心させられると同時に、その絆の強さを好ましく思う。
いつか私も、その絆や誇りを躊躇わず口に出来る様になりたい。
「元の世界」に対する未練や執着は、不思議と全く無かった。
私を繋ぎとめるだけのモノが、きっとそこには無かったのだろう。
「ありがとう、エリン」
私の居る場所が、いつだって私の世界だ。
* * *
夏島の近い甲板は、適度な日差しと風がとても心地良かった。
海に入る訳では無いのに、今日はパーカーの下は水着で、日焼けするとエリンには苦い顔をされながら、足もショートパンツとサンダル。
気分だけはしっかりと夏を満喫していた。
「うーん、泳ぎたい…」
だらりと船縁に上半身を預け、風に流れる髪を見ながら何と無く呟く。
モビーから見下ろす海面は遥か遠く、流石にこの高さから落ちたら泳ぐどころではなさそうだとゆっくり身体を起こすと、いつもポケットに入れているイゾウさんの銃が、コツンと手摺に触れた。
使う様な事にはなりたくないし、こんな物騒なモノ…と思っているのに、イゾウさんから貰ったそれにそっと触れるのが、一人で居る時の癖になっていた。
陽が落ちる迄に戻る予定のイゾウさんに想いを馳せながら、傾き始めた太陽を見上げたその時。
乱暴に扉を開けて此方へ駆けて来るマルコさんが、視界の隅に映った。
ゆっくりと視線をマルコさんに向けた…つもりなのに、まだ視線の先には太陽が見える。
「え…?」
ぐらり、とモビーが緩やかに大きく揺れている事に漸く気付いて、慌てて船縁を掴む。
「リリィ!振り向かずにそこから離れろい!」
ざばっと海中から水面を割く音と、モビーの広い甲板に落ちる大きな影。
駆け出した私に、濃くなる影と潮の匂いが近付き、ひゅん!と音を立てた何かが私の脇腹を掠めるのと、不死鳥化したマルコさんが私を掴むのは、ほぼ同時だった。
「っ…あ」
「くそ…!」
浮き上がった身体で見下ろす、大きな生き物。
それに向かって、パーカーが吸い切れなかった鮮血がポタポタと宙を舞い、落ちる。
「な…に?」
何が起きたか、考える余裕は無かった。
痛みすらも感じない。
静かに降ろされた私に駆け寄るエリンの血相を変えたその表情に、漸く私は自分の身に起きた事を、ぼんやりと理解した。
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